アフガニスタン北西部の都市。人口34万9000(2002)。ハリー・ルード(ヘラート川)流域に位置し,古来,西アジア・ヨーロッパとインドおよび中国を結ぶシルクロード上の要地として栄えた。アレクサンドロス大王がこの地にアレクサンドレイア・アレイアAlexandreia hē en Areiois(〈アーリヤのアレクサンドレイア〉)を建設したと伝えられ,またアケメネス朝時代の古代ペルシア語碑文にも,すでにハライワHaraīvaとしてその名が見える。ササン朝,アラブ支配期,サーマーン朝時代にはホラーサーンの代表的都市の一つに数えられ,12世紀のゴール朝時代にはその首都として栄えた。13世紀,いったんモンゴル軍の攻撃を受けて破壊されたが,ただちに復興され,13~14世紀にはクルト朝の首都となり,特に15世紀にはサマルカンドと並ぶティムール朝の首都としてイスラム世界を代表する文化都市の一つとなり,アリー・シール・ナバーイー,ジャーミーらの詩人,画家ビヒザードらの天才が輩出した。16~18世紀にはイラン,アフガニスタン両勢力の争奪の的となったが,19世紀になって最終的に後者の領有に帰した。現在,市内外には,15世紀の内城,墓廟,ミナレット,13~15世紀の中央モスクなど中世の史跡が数多く残され,〈アフガニスタンの京都〉的な雰囲気をかもし出している。また木綿,毛織物,絹織物,小麦,米などの生産地としてアフガニスタン北西部の経済活動の中心地となっている。
執筆者:間野 英二
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アフガニスタン西部、ヘラート州の州都。ハリー川北岸の広い平野に位置する。人口約16万1700(2001推計)。同国西部の経済・文化の中心地で、製粉、搾油などの各種の食品加工工場があり、絹、綿、毛織物などの手工業が行われる。住民はタジク人が多数を占め、トルクメン人、ウズベク人もいる。彼らのペルシア語はイランのそれに近く、文化的にもイランと同質である。古来、山岳や砂漠などの障害なくイラン、トルキスタン、インドへ通じる交通の要地として栄え、アレクサンドロス大王はこの地に「アーリアのアレクサンドリア」を建設した。13世紀にチンギス・ハンの侵入を受けたがすぐに復興し、15世紀にはティームール朝のシャー・ルフによって都とされ、イスラム的、ペルシア的文化が栄えた。19世紀後半のロシア、イランとの国境画定後は、辺地の都市となり、発展は停止した。古城やモスクのほか、シャー・ルフと妻ガウハル・シャード、詩人ジャーミーの墓など多くの中世の史跡や、1863年にここを占領してまもなく死亡したバーラクザイ王朝の創始者ドースト・ムハンマド王の墓もある。
[勝藤 猛]
アフガニスタン西部の都市。15世紀にティムール帝国の首都となった。シャー・ルフやスルタン・フサインの時代に華麗な建物が建てられ,文化活動の一大中心地となった。その建物の多くは,1885年にイギリス軍によって破壊された。
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…ホラーサーンは〈太陽khorの上る所〉を意味する。 かつてはマー・ワラー・アンナフル以南,アフガニスタンも含んでおり,メルブ,ヘラート,バルフもホラーサーンの主要都市であった。遊牧民の南下の通路にあたり古来しばしばその侵入を被った。…
※「ヘラート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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