ドイツ生れの作曲家。のちイギリスへ渡りイギリス国籍を得てGeorge Frideric Handelと名のる。中部ドイツのハレに生まれ,同地のオルガン奏者ツァハウの下に学び,この師によって国際的な視野と感覚を植え付けられた。18歳のとき自由都市ハンブルクへ出てオペラ作曲家として頭角を現し,21歳でイタリアへ赴き,主としてルスポリ公爵の邸宅を中心として活躍し,多くのカンタータを作曲するかたわら,イタリア・オペラの技法と様式を身につける。1709年《アグリッピーナ》によってヨーロッパのオペラ界にデビューした。10年25歳のとき,ハノーファーの宮廷楽長に招かれるが,その地位のままロンドンへ出かけ,オペラ《リナルド》によってイギリスにおける地歩を確保する。14年主君のハノーファー選帝侯がジョージ1世としてイギリス国王となった後は,イギリス王室から給与を得て王室付音楽家としての地位を継続するが,この地位は形式的なものとなり,自由な立場で作曲活動を行う。17年から2~3年の間,彼はカーナボン伯爵(のちのシャンドス公爵)邸で宮廷付作曲家としても活躍した。
20年,35歳のときロンドンにローヤル音楽アカデミーという名のオペラ団体が設立され,ヘンデルはこの団体の音楽監督兼作曲家として精力的な活動を開始する。この団体は貴族たちの出資によって経営される半ば私的な営利企業であったが,当時イギリスにはヘンデルらのイタリア・オペラに反発する動きもあり,その経営はやがて困難をきわめるにいたる。28年に上演されたジョン・ゲイの台本による《乞食オペラ》はアカデミーに手痛い打撃を与え,ヘンデルは挫折を余儀なくされる。その後アカデミーは経営の方式を変えながらいく度か再興を図るが,経済的な困難ばかりでなく,競争団体の設立や分派争い,それに政治的抗争も加わり,37年52歳のヘンデルはついに健康を害し卒中発作を起こして倒れる。しかし,この期間ヘンデルはイタリア・オペラの作曲家としてロンドンに不動の地位を築いたのであった。一方,数多くのオペラのほか,1732年以後ヘンデルは《エステル》(1732)や《アタリア》(1733)などの英語によるオラトリオによって徐々に独自のオラトリオを開拓していく。また《アレクサンダーの饗宴》(1736)のようなイギリス文学との直接の関係を示すオラトリオも試みられた。
ヘンデルは1737年の末,奇跡的な再起を遂げる。そして王妃キャロラインの葬儀のための《葬送アンセム》(1737)やオラトリオ《サウル》(1739),《エジプトのイスラエル人》(1739),またミルトンのテキストによる《陽気な人,ふさぎの人,温和の人》(1740)などの作品によってオラトリオへと決定的な歩みを踏み入れはじめる。オペラの制約から解放され,合唱の役割を高めたオラトリオの可能性が模索される。その背景にはイギリスの民族主義や,貴族階級の没落と中産階級の台頭といった社会的な変化がからんでいる。有名なオラトリオ《メサイア》はアイルランド総督からの依頼によって作曲されたもので,42年彼自身によってダブリンで初演された。《メサイア》は慈善演奏会で演奏され,収益はすべて寄付された。ヘンデルのオラトリオは,《エジプトのイスラエル人》や《メサイア》のように聖書の言葉そのものを用いた宗教的性格の強い作品はむしろ少なく,ミルトンのテキストによる《サムソン》(1743)のようにイギリスの文学に直接関連するか,あるいは旧約聖書の物語を英語で翻案したものが大部分である。また,文学的な内容においては聖書の物語やイギリスの文学に関連しながらも,彼のオラトリオは音楽的にはイタリア・オペラのほか,アンセムやカンタータまた受難曲などを総合した劇作品であり,彼の死後にかけてイギリスの中産階級の健全な娯楽としての機能をもちつづけた。
ヘンデルのオラトリオは1740年から41年のシーズンまではオペラのシーズンの途中で演奏されていたが,43年以後彼はこれらを四旬節の期間に限り,オラトリオによる新しいシーズンを設営することによって,もっぱらオラトリオに集中することになった。《ヘラクレス》や《ベルシャザル》(ともに1745)は彼のオラトリオのピークをなすが,《ユダス・マカベウス》(1747)は政治的な事件を背景として大成功を収めた。四旬節オラトリオと並んで,ヘンデルは50年以後ロンドンの捨子養育院において《メサイア》をはじめとするオラトリオを演奏しつづけ,その慈善演奏は彼のオラトリオをイギリス社会に定着させる結果をもたらした。晩年のオラトリオの中ではとくに《テオドラ》(1750)や《イェフタ》(1752)が名高い。
なお,器楽作品としては,作品3の6曲のコンチェルト・グロッソ,作品6の12曲のコンチェルト・グロッソ,作品4および7のオルガン・コンチェルトのほか,《水上の音楽》や《王宮の花火の音楽》(1749年アーヘンの和約を記念する祝典で初演された)がある。コンチェルト・グロッソやオルガン・コンチェルトのうちのいくつかは,オラトリオの幕間に余興として演奏されたものであり,《水上の音楽》や《王宮の花火の音楽》はいずれも戸外で演奏された作品である。これらはその直接的かつ簡明,単純明快なスタイルによって今日なお多くの聴衆を集めている。
執筆者:渡部 恵一郎
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1685~1759
ドイツの音楽家。バッハと並んでドイツのバロック音楽を大成したが,後半生はイギリスで活躍。オラトリオ「救世主」その他多くのオルガン曲や管弦楽曲を残し,その明快な作風によって広く愛好される。
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…主な作曲家は,A.スカルラッティ,マルティーニ,N.ヨメリ,J.A.ハッセ,ハイドン,モーツァルトなどである。中でもヘンデルは,イタリア語の《復活》(1708)から英語オラトリオ《メサイア》(1742)への道を開いた。その間ドイツではプロテスタント教会音楽の中でオラトリオの独自の型が形成された。…
…ヘンデルの管弦楽組曲。ハレ版《新ヘンデル全集》では22曲。…
…他方,近世に入ってからは,国家的慶事や戦勝祝賀のために,大規模かつ壮麗なスタイルで作曲されることが多い。このジャンルに属する作品には,ベルサイユの宮廷音楽総監督リュリがルイ14世の病気平癒を祝って作った曲(1677),ヘンデルがイギリス国王の戦勝を祝って作曲した《デッティンゲンのテ・デウム》(1743),ベルリオーズがパリ万国博覧会に際して発表した曲(1855初演),ブリテンが第2次世界大戦の終結を神に感謝して作った《フェスティバル・テ・デウム》(初演1945)などがある。なお特定の機会に結びつくものではないが,広く知られた曲に,ブルックナー(1884),ドボルジャーク(1892),ベルディ(1896)の作品がある。…
…およそ16世紀末から18世紀前半にかけての音楽をいう。この時代に活躍した音楽家の中では,J.S.バッハ,ヘンデル,ビバルディらの名が広く知られているが,彼らは後期バロックの巨匠であり,初期を代表するモンテベルディやフレスコバルディ,中期のリュリやコレリらも見落とすことができない。同時代の美術の場合と同じく,バロック音楽を社会的に支えたのは,ベルサイユの宮廷に典型を見る絶対主義の王制と,しだいに興隆する都市の市民層であった。…
…学問と音楽の両面できわめて広範な教育を受けた後,ハンブルク・オペラの歌手,さらには作曲家として活躍。自作オペラの上演のときは,若いヘンデルと大げんかになったが,すぐ仲直りをし,ヘンデルのオペラ《アルミラ》の上演に際してはみずから主役歌手を務めた。1706年からハンブルク駐在イギリス大使の秘書として活躍しながらも音楽界からは退かず,15‐28年にはハンブルク大聖堂の音楽監督を務めた。…
…ヘンデルの宗教的オラトリオの一つ。1741年の夏わずか3週間ほどで作曲され,翌年ダブリンで初演された。…
※「ヘンデル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...