精選版 日本国語大辞典
「ヘースティングズ」の意味・読み・例文・類語
ヘースティングズ
(Hastings)
[三] アメリカ合衆国ネブラスカ州の都市。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉
「ヘースティングズ」の意味・読み・例文・類語
ヘースティングズ(Hastings)
英国イングランド南東部、イーストサセックス州、イギリス海峡に面する都市。海岸保養地。11世紀、ノルマンディー公ウィリアム1世がイングランド王ハロルド2世を破ってイングランド征服(ノルマンコンクエスト)を成し遂げた「ヘースティングズの戦い」の地として知られる。ヘイスティングズ。
ニュージーランド北島東部の都市。19世紀半ばにヨーロッパ人が入植。マオリとヨーロッパ人の間で土地領有をめぐるマオリ戦争の舞台となった。りんご、洋なし、ワイン用のぶどうをはじめ果樹栽培が盛ん。近郊の港湾都市ネーピアとともにワイン産地としても知られる。
ヘースティングズ(Francis Rawdon Hastings)
[1754~1826]英国の軍人。総督兼総司令官として、武力により全インドを支配し、さらにシンガポールを買収するなど、英国のインド・東南アジア支配の強化に尽くした。
ヘースティングズ(Warren Hastings)
[1732~1818]英国の初代ベンガル総督。強硬な統治政策によって英国のインド支配の基礎を固めた。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
ヘースティングズ
Hastings, Warren
[生]1732.12.6. オックスフォードシャー,チャーチル
[没]1818.8.22. オックスフォードシャー,ディルスフォード
イギリスのインド植民地行政官。初代ベンガル総督 (在任 1773~85) 。 1750年,17歳でイギリス東インド会社の書記となってインドに渡り,61年カルカッタの参事会員となり,64年帰国。 69年マドラス参事会の次席参事,72年にはベンガル知事に任命された。 73年の規制法により初代ベンガル総督に昇格し,彼は首都をムルシダーバードからカルカッタに移した。また法律制度や教育面でも改革を行なったが,特に地税徴収の競売請負制を導入し,のちの永代ザミーンダール制の基礎をつくった。さらにロヒラ戦争,第1次マラータ戦争,第1次マイソール戦争を通じてインド支配の拡大,強化をはかった。 85年に退官,帰国したが,議会から在任中の過酷な政策を弾劾され,E.バークや P.フランシスらによって議会でその責任を追及された。下院による弾劾告発 (87) 後,裁判は8年間にわたって続き,結局ヘースティングズの全面的な無罪となって終った。多額の裁判費用を使い経済的窮之に苦しんだが,イギリスのインド支配確立とその維持に貢献した功績により会社から年金を支給された。
ヘースティングズ
Hastings, James
[生]1852
[没]1922.10.15.
スコットランドの長老派牧師,事典編纂者。アバディーンのディビニティ・カレッジに学び,自由教会の牧師となる (1901~11) 。月刊誌"Expository Times"を 1889年に創刊,事典編纂者としても著名である。主著"Dictionary of the Bible" (5巻,1898~1904) ,"Dictionary of Christ and the Gospels" (2巻,06~08) ,"Encyclopaedia of Religion and Ethics" (12巻,08~21) ,"Dictionary of the Apostolic Church" (2巻,15~18) 。
ヘースティングズ
Hastings
アメリカ合衆国,ネブラスカ州南部の都市。 1872年入植。広大なコムギ地帯を背景に,コムギ,トウモロコシなどの集散地で,鉄道交通の中心地でもある。食品加工,自動車部品や農機具製造なども盛ん。人口2万 2838 (1990) 。
ヘースティングズ
Hastings
ニュージーランド,ノース島東部,ホーク湾南岸の都市。ネーピアと連合都市を形成する。「ニュージーランドの果物籠」と呼ばれる農牧地帯の集散・加工地。人口5万 5800 (1990推計) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ヘースティングズ
Warren Hastings
1732~1818
イギリスの植民地行政官。18歳でイギリス東インド会社の書記としてベンガルに着任したが,抜群の能力によってベンガル知事(在任1772~74),ベンガル総督(在任1774~85)の地位まで昇りつめた。乱脈をきわめていた初期の植民地行政の体系化に努力し,地租制度,裁判制度,官僚機構の改革を行った。クライヴの剣が獲得したインド帝国に,ヘースティングズの頭脳が行政機構を与えたと評される。他方では,ロヒラ戦争,第1次マラーター戦争,第1次マイソール戦争などを勝利に導いた。またインド文化に関心を示し,東洋学の研究団体であるベンガル・アジア協会の創立(1784年)を援助した。帰国すると,腐敗の疑惑で弾劾裁判にかけられたが,無罪となった。バークのヘースティングズ弾劾演説は有名である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典 第2版
「ヘースティングズ」の意味・わかりやすい解説
ヘースティングズ【Francis Rawdon‐Hastings,1st Marquess of Hastings】
1754‐1826
イギリスの植民地行政官。アイルランド貴族としては第2代モイラ伯2nd Earl of Moira。インドのベンガル総督(1813‐23)として,グルカ戦争(1814‐16),ピンダーリー掃討(1817‐18)を行い,とくに第3次マラーター戦争によって中央インドの広大な地をイギリス支配下に組み込んだ。イギリス支配は,パンジャーブ以外のインド主要部分に及ぶにいたった。在任中,警察・裁判制度の改定や北インドへの地税制度の導入,確立が行われた。
ヘースティングズ【Warren Hastings】
1732‐1818
イギリスの植民地行政官,初代ベンガル総督。1750年イギリス東インド会社の書記としてインドに赴任し,のちマドラス参事会員などを経て,ベンガル知事(1772‐74)および初代ベンガル総督(1774‐85)になる。65年に会社はベンガルの徴税権を獲得したものの,徴税や行政はインド人の代理人に委託されていた。ヘースティングズはこれを廃し,会社が直接に行政と徴税を担当する体制を作り出した。それぞれの土地については,5年(のちには1年)単位で競争入札によって地税納入者を決め,各地方にはイギリス人の徴税担当官が配置された。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
百科事典マイペディア
「ヘースティングズ」の意味・わかりやすい解説
ヘースティングズ
英国の植民地行政官。軍人としてアメリカなど各地に転戦。1813年ベンガル総督となり(−1823年),ネパールのグルカ,中央インドのピンダリー匪賊(ひぞく)の掃討にあたり,第3次マラーター戦争によって中央インドの広大な地域を英国の支配下に収め,警察・司法制度を改革し,地税を導入した。1819年のシンガポールの買収にも関与した。
ヘースティングズ
英国のインド植民地行政官。東インド会社書記としてインドに渡り,1772年ベンガル知事,1773年―1782年初代ベンガル総督。植民地行政の整理・改革に努力し,武力により領土を広げ,インド支配の基礎を固めた。帰国後,在任中の酷政と腐敗を議会から弾劾されたが無罪。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ヘースティングズ
Warren Hastings
1732〜1818
イギリスの植民地行政官
1772年ベンガル知事,74年初代ベンガル総督となる。植民地行政機構を整え,第1次マラータ戦争・第2次マイソール戦争などを通じて支配権を強化し,イギリス領インドの基礎を固めた。帰国後,議会でその過酷な政策を非難された。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典内のヘースティングズの言及
【ネーピア】より
…人口5万2000(1991)。ホーク・ベイ地方の中心都市で,近くのヘースティングズとともに連合都市として扱われることがある。羊毛,水産加工(缶詰),ブドウ酒などの工業が立地し,羊毛の集散地として知られる。…
※「ヘースティングズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報