ベネチア(英語表記)Venezia

翻訳|Venezia

精選版 日本国語大辞典 「ベネチア」の意味・読み・例文・類語

ベネチア

(Venezia)⸨ヴェネツィアイタリア北東部、アドリア海ベネチア湾湾奥にある港湾都市。七~八世紀ごろから貿易発展中世末には東地中海貿易を独占し共和国樹立ナポレオンに独立を奪われたのち、オーストリア領となったが、一八六六年イタリア王国併合。一二二の小島群を約四〇〇の橋で結んだ「水の都」で、旧市街は現在も運河ゴンドラが行きかう。ベニス

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デジタル大辞泉 「ベネチア」の意味・読み・例文・類語

ベネチア(Venezia)

イタリア北東部アドリア海に臨む港湾都市。市街地は約120の小島を約400の橋で結んだ水の都で、運河が176あり、ゴンドラによる交通が有名。サンマルコ大聖堂など歴史的な建物が多い。7世紀ころから貿易で発展。中世末に共和国を樹立、東地中海に多くの植民地を獲得して繁栄した。1866年イタリア王国に編入。ガラス・宝石皮革などの工芸品を産する。1987年「ベネチアとその潟」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。ベネツィア。英語名ベニス。

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改訂新版 世界大百科事典 「ベネチア」の意味・わかりやすい解説

ベネチア
Venezia

北イタリアのベネト州の州都で,アドリア海の最も奥まった所にある潟(ラグーナLaguna)の上に形成された水の都である。英語ではベニスVeniceという。人口26万9780(2005)。この潟は,堤防のように延びるリドLido島によってアドリア海と隔てられ,その途中3ヵ所にある自然の水門から出入りする海水によって絶えず浄化されている。ベネチアはこのような生きた潟のデリケートな自然環境のうえに誕生し,水辺の困難な条件を克服しながら独特の都市を築き上げた。潟の中には,ほかにもトルチェロ島,ブラノ島,ムラノ島など多くの島が散在する。

 この町は117の小さな島々がモザイク状に集まって成立している。それらの間をリオrioと呼ばれる約150の運河が巡っており,島相互を結ぶ橋の数は400に及ぶ。モザイクの一片にあたる各島は,本来,教区(パロッキア)に相当し(近代を迎えるまでは約70の教区があった),教区教会堂と,方言でカンポcampoと呼ばれる広場をもち,住民にとっての生活共同体となっていた。

 町の中心を逆S字形に大運河(カナル・グランデ)が貫き,中世からバロック時代にかけての華やかな貴族住宅や各国の商館の並ぶ幹線水路となっている。現在でも,市役所などのオフィス,大学,研究所,高級ホテルなどの主要な都市施設が並んでいる。ベネチアは12世紀以降,セスティエーレ(6区制)を採用し,行政的には町全体が六つの地区に分割されている。すなわち大運河の北東には,サン・マルコ,カナレッジョ,カステッロ,南西にはサンタ・クローチェ,サン・ポーロ,ドルソドゥーロ(ジュデッカ島を含む)の区がある。歴史的にみると,町の政治的・経済的中心はサン・マルコ広場周辺にあり,パラッツォ・ドゥカーレ(総督宮),その私設礼拝堂として生まれたサン・マルコ大聖堂,新・旧行政館,図書館,造幣局などの古い公共的建物が集まっている。〈ヨーロッパで最も美しいサロン〉とナポレオンに絶賛されたこの象徴的な広場だけが,古来,イタリア語で広場を指すピアッツァpiazzaの称号を与えられており,現在もここが観光の最大の中心となっている。一方,経済の中心は今日に至るまで,地理的にもこの町のほぼ真中にあたるリアルトRialto地区にある。その中央市場は今なお市民の台所を支えているし,リアルト橋のたもとのサン・バルトロメオのカンポは,仕事が引けた後の市民の出会いの広場としてにぎわいをみせる。また,この海洋都市国家にとって重要な役割を果たした造船所(アルセナーレ)は,東部のカステッロ地区にあり,その周囲には労働者の多い庶民的環境が形成されている。

 ベネチアの表玄関は,もともと潟の水面に開かれ2本の大円柱を構えたサン・マルコの小広場(ピアツェッタ)であったが,近代に本土(テラフェルマ)との間に鉄道橋(1846)と自動車橋(1932)が建設されたために,都市構造が大きく転換し,北西部の鉄道駅と自動車のターミナルが町の新たな玄関となった。しかし,今なお町の中には車はいっさい侵入せず,陸上は完全に歩行者に開放されている。何系統かの水上バスが市民の足として利用され,ゴンドラやモーターボートも日常生活にとって欠かせない。

 現在のベネチア市は,本土側に近代に発展した商工業の中心地,メストレおよびマルゲーラと行政的には一体となっている。古い島部の人口は,観光化,第3次産業化の進行とともに減少の傾向を示し,現在では全市人口のうち島部のそれは約10万にすぎない。

海に開かれたベネチアは,ローマ帝国の地中海支配が崩れた後の中世にあって,オリエントと西欧を結ぶ重要都市であった。そのため経済ばかりか文化面でも東方との交流を強くもち,西欧の中のオリエント都市としての性格をもった。しかも,18世紀末にナポレオンに占領されるまで,1000年もの間,自由と独立を貫く共和体制を堅持し,高い都市文化を築いた。その栄光と繁栄に満ちた水の都の美しさは〈アドリア海の女王〉とたたえられた。

 この町の起源は,5,6世紀ころ,フン族やランゴバルド族などの侵入から身を守るため本土の都市民が潟の中の島々に避難したことに始まる。さらに811年,フランク王国の脅威が迫ったのを背景に,防衛上,衛生上有利な条件をもち伝統にも縛られない現在のリアルトの地に主都を移し,統一的な都市の建設が開始された。当初ベネチアは,ビザンティン帝国の支配下にあったが,823年,アレクサンドリアから盗み出されたマルコの遺体が運ばれてきたのを機に,従来のギリシア系のテオドルスに替えてマルコをこの町の新しい守護聖人とし,宗教的な独立を成し遂げた。このようなベネチア人のすぐれた現実主義的感覚は,歴史のさまざまな局面で発揮された。

 指導者階級の商人・貴族は自ら艦隊を組んで東方の海に乗り出し東地中海一帯に勢力を広げた。とくに10世紀後半からは,イスラム諸国との交易が盛んになり,オリエントの香料,織物,宝石など高価な品物を輸入し,武器,船舶材などを輸出して巨大な利益をあげた。11世紀初めには,総督オルセオロのもとにダルマツィア地方を配下におさめ,その後ギリシア沿岸にまで領土を広げた。十字軍の遠征はベネチアに大きな利益をもたらした。とくに1204年の総督エンリコ・ダンドロの指揮する第4回十字軍は,聖戦を逸脱してコンスタンティノープルを攻略し,ベネチアのかいらい政権であるラテン帝国を創設した。当時ベネチアでは,コンスタンティノープルへの遷都について真剣に議論されたほどである。ベネチアの商人であったマルコ・ポーロの一行は,1270年にベネチアを出発し,はるか中国にいたる世界一周旅行を果たして1295年に帰還している。14世紀に宿敵ジェノバを打ち破り,さらに1416年のガリポリの海戦でトルコ軍も撃破して,バルカン半島,エーゲ海諸島,トルコ,黒海沿岸そして中東にまで植民地を広げ,東方を完全に制したベネチアは,東洋と西洋の結節点にある市場としての役割をもつようになった。

 この中世の興隆期にベネチアでは,独特の共和制民主主義のあり方が確立した。すなわち,共和国の政治機構の頂点に位する総督(ドージェdoge),富裕な商人・貴族階級によって選出され,国政の審議,総督の任命を行う大評議会,またこれによって選出され公安事件などに大きな権限をもつ十人会議などを設けることにより,特定の個人や家族に権力が集中しない集団指導制を実現し,しかも緊急時には敏速に動ける巧妙な機構をつくり出したのである。

 15世紀前半に繁栄の頂点に達したベネチアも,宿敵ジェノバ,ピサに加えオスマン・トルコの脅威に直面し,徐々に後退を余儀なくされた。しかも15世紀末のコロンブスやバスコ・ダ・ガマによる大航海時代の到来によって,世界商業の中心的地位をリスボンに奪われた。これまでもっぱら東方貿易に依存していたベネチアは,一方で,イタリア大陸部の領土支配にも活路を求めた。しかし16世紀のベネチアは,地中海貿易に加え,毛織物をはじめとする手工業,文化産業としての出版業が隆盛を迎え,経済的繁栄を維持した。人口も1575年には,最高の18万強に達した。しかし,この年激しい疫病に襲われ,2年で4万5000人が死んだ。冒険的精神にあふれた建設的時代は終わり,もはや外交,商業,生産活動に関心を失い,土地所有に重点を移した指導者階級の貴族たちは,これまでの富の蓄積の上に内面的生活の充実を求めるようになった。こうして独特の爛熟した都市文化が生まれた。本土側のブレンタ川の流域をはじめ豊かな田園には,この時期に,都市生活から逃れるベネチア貴族の別荘が数多くつくられた。1585年には日本の天正少年使節一行がベネチアを訪れ,総督を訪問したり,造船所を見学したりしている。

 17世紀には,地中海最後の砦クレタをもトルコ軍に明け渡し,海洋国家としての基盤をすっかり失った。商業から手工業へ,さらに農業へと経済的基盤を移したベネチアでは,独占の弊害と貧富の差が大きくなり,社会の動脈硬化が起こった。

 1797年,ナポレオンの占領とともに,栄華を誇った共和国の1000年以上にわたる歴史の幕が閉じた。その支配下で,教区の再編,教会財産の収用による公園や庭園などの新たな都市空間の創設,公共施設の導入,さらに運河の埋立てなど,さまざまな近代化が行われた。その後オーストリア支配を経て,1866年にイタリア王国に編入された。20世紀初めから本土側での開発が進み,マルゲーラMargheraの新しい港と工業地帯の建設に伴い,そのサービスの中心地としてメストレMestreの町が形成された。マルゲーラは第2次大戦後石油化学や重工業地区として発展し,ベネチアの島部は産業の発展から切り離され,その結果,多くの市民が職場と近代的な住いを求めて本土側へ転出する現象が生じた。

このような歴史を背景に生まれたベネチアの文化的特徴をみていこう。まずこの町の建築や都市の容貌には,水との結びつきと東方からの影響とが明白に読み取れる。ベネチアは潟の水面に囲われた天然の要塞であり,しかも政治が安定し内紛も少なかったため,建築は早くから開放的で軽快な様式をとった。軟弱な潟の土地でも,カラマツやカシの杭を地中の堅い層まで打ち込み,その上にイストリア産の石を置く独特の土台を開発したことにより,水から直接立ち上がる建物が可能となった。12,13世紀に,リアルトを中心とした大運河沿いにフォンダコfondacoと呼ばれる商館が登場し,以後のベネチア住宅史の基礎をつくった。トルコ商館をはじめとするこれらの商館は,古代ローマ後期の別荘建築とビザンティン建築にその起源をもつとされ,ベネト・ビザンティン様式と呼ばれるが,さらにイスラム建築からの影響も見のがせない。こうして東方からの影響を受けながら,装飾的で快適な住宅建築がこの町に早い時期から生まれた。

 宗教建築にもビザンティン芸術からの影響が強くみられる。サン・マルコ大聖堂はコンスタンティノープルの聖使徒教会堂を範にしたといわれ,ギリシア十字形式のプランの上に五つのドームを頂く典型的なビザンティン様式の教会堂であり,堂内の上部は全面金のモザイクで覆われている。

 14,15世紀には,アルプス以北からもたらされたゴシック芸術がこの町の東方的な装飾性の中で華麗に展開し,独特のベネチア・ゴシック様式を生み出した。パラッツォ・ドゥカーレやカ・ドーロなどがその最高傑作である。この時代にベネチアの建設活動は黄金期を迎え,高密で有機的な都市を築き上げた。カンポを中心にカッレcalle(小路)で細かく組み立てられた中世的都市構造,明暗の変化に富んだ華麗な町並みの特徴はこの時期にほぼ形成された。

 16世紀に入ると,共和国の本土進出とともにルネサンス文化がこの町にも流入し,建築様式にも大きな変化が生まれた。なかでもローマから来た古典主義建築家J.サンソビーノはサン・マルコ大聖堂の主任建築家として,サン・マルコ広場周辺の図書館,造幣局,ロジェッタ(鐘楼の下部にある柱廊)などの公共建築の建設に手腕をみせた。とくに,パラッツォ・ドゥカーレの対面に図書館がつくられたことによって,小広場(ピアツェッタ)に,〈ムーア人の時計塔〉を焦点とする透視図法的な都市空間がつくり出され,共和国の海からの正面玄関を完成させた。また,図書館のローマ風の古典主義の意匠は,後に登場する新行政館(17世紀),〈ナポレオンの翼〉(1810)にまで引き継がれており,サン・マルコ広場の象徴的造形を生み出した。

 大運河もこの時期に象徴的性格を強め,サンソビーノによるパラッツォ・コルネール,サンミケーリによるパラッツォ・グリマーニなど,従来の中世的スケールを破る豪壮な住宅建築が登場した。木の跳上げ橋だったリアルト橋も,16世紀後半に大きなアーチによる力強いデザインの石の橋に置き換わった。また町の南側では,パラディオによってイル・レデントーレ教会,サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会が実現し,大きなスケールをもつ都市景観が生まれた。バロック時代には,ロンゲーナの手で,水辺に調和する優美なサンタ・マリア・デラ・サルーテ教会,カ・ペーザロなどがつくられた。

 美術の分野でも東方の影響が強く,形態の構成を重視するフィレンツェ派に対し,ベネチア派は光と色彩に鋭い感覚を示す。ビザンティン的画風にゴシック様式を取り入れたヤコポ・ベリーニ(ベリーニ一族)に始まったベネチア派の絵画は,その2人の息子ジェンティーレ,ジョバンニ,さらにカルパッチョ,ジョルジョーネらに引き継がれた。ベネチアはキャンバスの上に油彩技法を用いた最初の町で,近代美術史上大きな意味を担う。16世紀ベネチア派を代表するのは,女性の官能美を描いたティツィアーノ,明暗のコントラストで劇的に表現したティントレット,明るい色彩を求めたベロネーゼの三大巨匠である。後の18世紀には,ベネチアの風景を正確な手法で描いたカナレット,より動的な表現を用いたグアルディが活躍した。これらの風景画の流行は,当時のベネチアの観光都市的性格をよく物語っている。

 音楽では,16世紀に複合唱の手法に触発され,宗教的な声楽の発展がみられた。しかも禁欲的なローマ楽派とは対照的に,自由で華やかな形式が生まれた。17,18世紀にはバロック音楽が開花し,ビバルディらによって器楽のコンチェルトが発展した。

 オペラと演劇は17世紀後半からベネチアで盛んになり始め,18世紀にはこの町がヨーロッパの中心の一つになった。17世紀末のベネチアには17の劇場があった。ラ・フェニーチェLa Feniceは今でも残る数少ない劇場の一つである(1996年焼失,再建)。18世紀の喜劇作者カルロ・ゴルドーニは,脚本のある喜劇の形式を確立し,ベネチアの町や人々の生活をユーモアや皮肉を交えて描いた多くの戯曲を残した。

 ベネチアの支配階級の経済的性格の変化に伴い,彼らに快適な生活を享受させるという役割が都市経済の重要な部分を占めるようになり,観光業の発展によって,それがさらに強まった。このためとくに18世紀のベネチアは祝祭的雰囲気に包まれ,ヨーロッパの人々を魅了した。享楽的文化を生み出す場として賭博場が人気を呼び,仮面をつけた貴族でにぎわった。カーニバル(謝肉祭)も当時のベネチアを彩る重要な祭りだった。3万人もの人がベネチアを訪れ,サン・マルコ広場を舞台に,仮面をつけ黒マントをはおった人々は,階級差を忘れ社会的慣習からも解放されてばか騒ぎに興じた。

 この町の文化と産業を考えるうえで忘れられないのは,ガラス工芸である(ベネチア・ガラス)。オリエントやビザンティン世界から技術を導入し,10世紀ころからその製造が始まった。13世紀末に,火災の危険を避け,しかも技術の秘密を保持するために,すべてのガラス工場をムラノ島に移転させた。15,16世紀には最盛期を迎え,その華麗さを世界中に誇った。このガラス工芸は,モダン・アートとも結びつきながら,今なおベネチアの重要な産業となっている。

 文化産業も伝統的な特徴である。つねに自由と民主体制を堅持したベネチアは,しばしば思想家,芸術家の避難所となった。とくに16世紀のベネチアは文化的創造性にあふれ,各分野の重要な文献がこの町で編集・出版された。この町の獲得した表現の自由と国際都市としての性格は近代に入っても受け継がれ,1895年,町の東部のジャルディーノを会場として国際美術展〈ベネチア・ビエンナーレ〉が開始され,近代美術の世界で大きな役割を果たしてきた。その後,映画祭,音楽祭,演劇祭も始まり,こういった文化的活動がベネチアの今日的な生き方をよく示している。

最後に,ベネチアの保存問題について少しふれておこう。1966年11月4日,ベネチアは押し寄せた高潮の下に沈んだ。この大水害を契機にベネチアの保存問題が注目を浴び,以後ユネスコをはじめとする国際機関,イタリア政府,民間文化団体,市行政当局の手で救済活動が精力的に続けられている。地盤沈下の原因であった本土側工業地帯での地下水汲上げが禁じられ,水理のバランスを崩すことにつながる潟沿岸でのこれ以上の工業地帯の建設が放棄された。潟への海水の進入量を調節するための水門を設置することも目下検討されている。教会やパラッツォなどのおもだった建造物の修復は,ユネスコを中心に国際的協力の下で進められている(1987年,世界遺産リストに指定)。しかし最大の問題は,ベネチアを観光のための博物館都市としてではなく,市民の生活の場としていかに再生できるかという点にあり,目下自治体の手で,歴史的街区を修復・整備し,住民にとっての魅力的な生活空間を取り戻すための再生事業が進められている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベネチア」の意味・わかりやすい解説

ベネチア
べねちあ
Venezia

イタリア北東部、ベネト州の州都、ベネチア県の県都で、アドリア海北岸に臨む港湾都市。英語名ベニスVenice。人口26万6181(2001国勢調査速報値)。ベネチア湾奥のベネト・ラグーン(潟湖(せきこ))に発達した砂州からなる122の小島が中心市街地の地盤であり、これらの島々は約400の橋で結ばれている。それらの橋の一つリアルト橋は、16世紀に木造橋を石組みに改造したもので、アーケードがついた形が美しく、観光名所となっている。市内には176の運河が縦横に走り、有名な大運河(カナル・グランデ)が市内を北西から南東にS字形に貫き、「水の都」「潟湖の都市」とよばれる世界屈指の観光都市となっている。1987年にベネチアとその潟は世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

[藤澤房俊]

交通

島々には至る所に曲がりくねった道が通ずるが、狭小で水路に遮られるため自動車は通行できない。主要な交通路は運河で、交通機関はモーター・ランチと、長さ約10メートル、幅1.5メートルほどのゴンドラである。本土の重化学工業地区メストレMestreと島々とを結ぶ長さ4キロメートルの鉄道が1846年に開通し、その鉄道沿いに1932年開通の自動車道路が通じる。メストレ北東に、1960年に開港した2750メートルの滑走路をもつマルコ・ポーロ空港があり、イタリア各地と結んでいる。また沖合いの砂州上の市街リドには観光客専用の小さな空港もある。中世以来、東西貿易の中継港として発展し、現在もイタリア六大港の一つで、多くの商船が寄港する。

[藤澤房俊]

産業の発展と地盤沈下問題

主産業はガラス製品、宝石、大理石細工、陶器、皮革製品、レース織物などの手工業品の製造である。とくに、11世紀以来、市の北1.6キロメートルに位置するムラーノ島でつくられるベネチア・ガラスは、伝統的な形を維持しつつ最新のデザインや技術をも取り入れ、世界のガラス工芸をつねにリードしている。また大運河の出口に位置するビザンティン・ロマネスク様式のサン・マルコ大聖堂や、かつてベネチア共和国政庁であったドゥカーレ宮殿などの歴史的建築物、アカデミア美術館所蔵のベネチア派の絵画など観光資源は豊富であり、美しい運河の景観と相まって、観光産業は盛んである。市の財源は、観光事業からの収入も大きいが、メストレを中心とする対岸部の化学、冶金(やきん)、製鉄、石油精製、機械製造、造船などの産業に依存している。しかし、工業の著しい発達によって大気や海水の汚染や地下水くみ上げによる地盤沈下が進んだ。とくに地盤沈下の被害は深刻で、サン・マルコ大聖堂の広場は冬季にしばしば浸水し、1966年11月の大風雨の際は全市が水浸しとなった。地盤沈下防止のために市内の井戸水のくみ上げが禁止され、飲料水は市の北西32キロメートルのカステルフランコ・ベネト近くのサンブロージオ・ディ・グリオから送水されている。

[藤澤房俊]

文化・教育

市の東部に位置する現代美術展会場でのベネチア・ビエンナーレ展やベネチア国際映画祭などの文化活動は活発で、それを目的に訪れる外国人も多い。毎年7月末には、飾りをつけた舟が運河を行進するフェスタ・デル・レデントーレ、9月に大運河で行われるレガータ・ストーリカ(ゴンドラの競漕(きょうそう))など、有名な行事もある。1868年創設のベネチア大学は、この町の歴史的伝統を受け継いで東洋研究が盛んで、日本学科もある。

[藤澤房俊]

歴史

5~7世紀、イタリア北部に侵入した西ゴート人、フン人、ランゴバルド人からの避難所として、アドリア海北辺のあちこちの潟地にアクィレイアなど北部諸都市の住民が移住し、先住の漁民とともにいくつかの都市的集落を形成した。混乱のなかで独立性を高めたこの諸集落は一種の連合体を形成し、697年には1人のドージェ(首長)をもった。塩・魚の販売や貿易で富を得たこの連合体の支配をめぐり、ビザンティン帝国とフランク王国とが対立した。8世紀末、後者の攻撃を受けたこの連合体は防衛のため首府をマラモッコからリアルトに移した。この潟中の小島とその周辺の無数の小島の上に形成・発展した都市がやがてベネチアとよばれた。

 810年のビザンティン、フランク、東西両国の条約で、ベネチアはビザンティン帝国に帰属するが、フランク王国との貿易権をもつこととなり、東西貿易の中心となる準備が整った。9、10世紀、ベネチアはアドリア海北辺の競争相手たる海港都市コマッキオを打倒し、また航路として重要なダルマチア沿岸に覇権を樹立した。11世紀、弱体化したビザンティン帝国の要請でアドリア海南辺の海上防衛を引き受けたベネチアは、代償として帝国内での広範な貿易特権を得た。同時に東地中海にも進出して各地のイスラム教徒と貿易していたが、十字軍がシリアに進出すると、十字軍への援助の代償としてそこでの貿易特権を得た。ベネチアは、こうした貿易で得た富と力を背景に、13~16世紀の間、国際政治の場で重要な役割を果たした。だが17世紀には、イギリスなど北西ヨーロッパ諸国の地中海貿易への進出により、ベネチアは没落した。ついで、世界貿易の大動脈から外れて後進地域となってしまった地中海周辺の、自由かつ洗練された歓楽的な雰囲気で名高い一小国として18世紀を迎えた。

 イタリアに侵入したナポレオン1世は、1797年ベネチアを占領して長く続いた共和制を廃止させ、オーストリアに移譲した。1805年ナポレオン支配下のイタリア王国に帰属したが、1815年オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国に帰属した。1861年統一イタリア王国が成立したが、オーストリアによる支配のため、ベネチアはそれには参加しえなかった。プロイセン・オーストリア戦争でオーストリアが敗北すると、1866年人民投票により統一イタリア王国に編入された。その際、従来ベネチアの付属領土だったイストリアやダルマチアがオーストリア領にとどまり、「イタリア・イレデンタ」(未回収のイタリア)として問題化した。

 第一次世界大戦後、港湾施設や産業の近代化が進められ、第二次世界大戦後、世界的観光地になる一方、中世そのままの都市と近代生活との調和を目ざす努力が続けられ注目されている。

[斉藤寛海]

『マクニール著、清水廣一郎訳『ヴェネツィア――東西ヨーロッパのかなめ 1081―1797』(1979・岩波書店)』『ブローデル著、岩崎力訳『都市ヴェネツィア――歴史紀行』(1986・岩波書店)』『F. C. Lane ed.Venice, A Maritime Republic(1973, The Johns Hopkins University Press, Baltimore and London)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベネチア」の意味・わかりやすい解説

ベネチア
Venezia

イタリア北東部,アドリア海北西岸にあるベネト州の州都,港湾都市。ベネチア県の県都でもある。英語ではベニス Venice。ベネチア湾奥の潟湖の多数の島からなり,約 400の橋によってつながれる。市街地を二つに分ける大運河があり,そのほか 200あまりの運河が発達,「水の都」と呼ばれる。 567年頃ロンバルディアからの避難民が湾のほとりに集落をつくったことに始まる。7世紀末に共和政総督 (→ドージェ ) 下に統一。初めはビザンチン帝国の支配下にあったが,十字軍の活動の結果貿易の中心となり,1381年ジェノバを破り,14~15世紀にはベネチア共和国として繁栄の頂点に達した。しかし,オスマン帝国の攻勢の激化と周辺諸国との戦争,さらに大航海時代以後東西貿易の主要港としての地位を喪失したことなどにより衰退が始まり,18世紀末にはナポレオン1世が占領,1866年イタリア王国に併合された。最盛期には多くの芸術家が集まり,絵画ではベネチア派が興り,17世紀にはオペラなどバロック音楽の中心地となった。宝石,工芸品の製造,繊維工業が盛んで,ガラス工芸 (→ベネチア・ガラス ) は特に有名。対岸のマルゲラ港付近のメストレ地区には化学,冶金,製鉄,機械製造,造船,石油化学などの近代工業が興り,公害が問題となっている。湿気と地盤沈下もまた問題化している。ローマ,フィレンツェと並ぶ観光地でビザンチン建築の代表サン・マルコ大聖堂などの名所が多い。 1987年世界遺産の文化遺産に登録された。人口 27万884(2011推計)。

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百科事典マイペディア 「ベネチア」の意味・わかりやすい解説

ベネチア

イタリア北部,ベネト州の州都。英語ではベニスVenice。ベネチア湾に臨み,117の島からなり,本土とは鉄道橋と自動車橋で結ばれる。大運河を中心に運河が縦横に走り,リアルト橋をはじめ約400の橋で各島が結ばれ,交通は水上バスやゴンドラ,モーターボートで,車は進入できない。伝統的にはレース,宝石細工,ガラス器,陶器の製造が盛んだが,現在は本土側のマルゲーラ地区に石油化学,重工業地区が形成されている。1966年の大水害を機に,保存問題が大きな課題となっている。サン・マルコ大聖堂,サン・マルコ広場,パラッツォ・ドゥカーレ,海洋研究所,国立記録保管所などがあり,ベネチアの潟とともに1987年世界文化遺産に登録された。町の起源は5―6世紀で,9世紀初め,フランクの脅威をさけて本格的な町づくりが開始され,サン・マルコを守護聖人とした。10世紀後半以降,東地中海貿易,十字軍遠征により発展し,13―15世紀が全盛期でオリエントと西欧を結ぶ重要都市であった。1797年にナポレオンに占領されるまでの1000年間,共和制を堅持し〈アドリア海の女王〉と讃えられる都市文化を築いた。その後オーストリア支配を経て,1866年イタリア王国に編入された。26万1362人(2011)。
→関連項目ゴンドラ地中海マルコ

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世界大百科事典(旧版)内のベネチアの言及

【ガレー船】より

…したがって商船として用いられる場合には香料のような軽量高価な商品が運ばれた。とくにベネチアは国営造船所で造ったガレー船を市民に貸しつけ,国家による厳重な運航管理のもとに香料の輸送を行う船団(ムーダ)制度を発展させた。インド航路の発見によってベネチアの香料独占が不可能となった後は,ガレー商船の経済的意義は失われた。…

【商業】より

…〈中世農業革命〉あるいは〈大開墾の時代〉と呼ばれるこの現象は10世紀末ぐらいから各地の人口を増大させ,商業活動に刺激を与えることになった。これを受けて地中海地域では,ベネチアやアマルフィのように従来ビザンティン帝国と密接な関係をもっていた都市の商人の活動がさらに活発になり,コンスタンティノープルおよびその周辺だけでなく,シリア,エジプトなどでも活動するようになった。ベネチア人がキプロス,クレタおよび黒海沿岸を除くすべての帝国領内で関税を免除され自由な商業活動を行うことを皇帝アレクシオス1世に許されたのは1082年であった。…

【地中海】より

…それはそこで商売をしたり,食料や水を補給するためでもあった。ベネチアは一時期,東地中海を支配した海上帝国をなしたといわれているが,実際に軍事的に支配していたのは沿岸部のごく狭い帯状の地域であり,海上交易により繁栄していたベネチアにとってはそれだけでこと足りたのである。 しかし,地中海の航海が,見えている地点を目ざした1日行程の航海だけで成り立つわけではない。…

【トルチェロ[島]】より

…イタリア北部,ベネチアの北東約10kmに位置する,ラグーン上の小島。行政上ベネチアに属す。…

【ベネチア派】より

…広義には,ベネチアが都市共和国として政治的経済的な繁栄を誇った中世から18世紀にかけて,この都市(および周辺のベネト地方)で生み出された美術全般をいうが,実質的には,とくに15~16世紀と18世紀に2度にわたって黄金時代を迎えたベネチア絵画を指す。 ベネチアの美術は11世紀以来のサン・マルコ大聖堂のモザイク装飾に始まると言えるが,この都市の地理的・歴史的環境からビザンティン美術の影響が長く残存し,その影響は,十分な発展を遂げなかった同地のロマネスクやゴシック美術の性格をも色濃く規定している。…

【マルコ】より

…アレクサンドリアで布教し,そこで司教となり殉教したという伝説に由来して,頭にターバンを巻いたり,司教服を着ていることもある。9世紀に遺体がアレクサンドリアで発見され,海路ベネチアへ運ばれ,途中数々の奇跡がおこったという伝説の諸場面もよく表される。ベネチアでは,遺骨を納めるため,9世紀にサン・マルコ大聖堂が建てられ(現在の建築は11世紀起工),またベネチアの美術には,同市の守護聖人となったマルコや,市の紋章でもある獅子がよく登場する。…

【ラテン帝国】より

…第4回十字軍とベネチアが,〈ローマニア(ビザンティン帝国支配領域)分割協定〉(1204年3月)に基づき,コンスタンティノープル攻略(1204年4月)後に合作した国家。同協定の定める皇帝選考委員会(ベネチア側,騎士側それぞれ6名から成る)は,自ら従軍したベネチア総督ダンドロEnrico Dandoloの筋書どおり,十字軍指導者のモンフェルラート辺境伯ボニファチオBonifacioをさしおいて,フランドル伯ボードアンBeaudouinを選び,後者は,皇帝を出さなかったベネチア側から選ばれたコンスタンティノープル・ラテン総主教モロシニTomaso Morosini(ベネチア貴族出の修道士)により,アヤ・ソフィア教会でボードアン1世(在位1204‐05。…

※「ベネチア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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