ベルギー(英語表記)Belgium

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改訂新版 世界大百科事典 「ベルギー」の意味・わかりやすい解説

ベルギー
Belgium

基本情報
正式名称ベルギー王国Koninkrijk België, Royaume de Belgique, Kingdom of Belgium 
面積=3万0528km2 
人口(2010)=1088万人 
首都ブリュッセルBruxelles(日本との時差=-8時間) 
主要言語フラマン語オランダ語),ワロン語フランス語) 
通貨=ベルギー・フランBelgian franc(1999年1月よりユーロEuro)

ヨーロッパ北西部にある立憲君主国。北はオランダ,東はドイツ,南東はルクセンブルク,南はフランスと境を接し,西は北海に面して65.5kmの海岸線を形づくりイギリスに対する。面積は日本の九州の約7割。ヨーロッパではオランダと並ぶ高い人口密度(324人/km2。1989)を保つ。現在9州よりなる。国名は,ローマの征服以前この地方に住んでいたケルト系住民ベルガエ族Belgaeに由来し,中世・近世を通じて,この名はネーデルラント全体を表すラテン語名として用いられてきたが,18世紀末のブラバント革命以来,現在のベルギーの地域を指すようになった。国旗(黒黄赤の縦割の三色旗)は,同じくこの時初めて制定されたもの。

 ベルギーは小国ながらも,経済的,文化的に最も発達した国の一つで,その歴史を通してヨーロッパの経済,政治,文化のうえで大きな役割を果たしてきた。他方,この国はゲルマン・ラテン両民族の接点にあり,また西ヨーロッパのほぼ中軸とでもいうべき位置にある。このことがベルギーの経済・文化の発達を大きく促進したのはいうまでもないが,歴史上,まさにこの要衝の位置のゆえに繰り返し列強の争奪の的となって戦禍に苦しめられたり,外国支配下に置かれてきた。そのため,この国の誕生(独立)は1830年と比較的新しく,現在の領域自身もこうした歴史的経過の中でしだいに形づくられたものにほかならない。

ベルギーの地形は全体として平坦であるが,国のほぼ中央を東西に貫くサンブル=ムーズ川の流域を境に,北部のフランドルやケンペンKempenの低地と,中部の丘陵地,南部のアルデンヌ山地に分けることができる。北部は,スヘルデ川(およびその支流のレイエLeie川,デンデルDender川,ネーテNete川,リューペルRupel川)の流域で標高100m以下の低地が広がる。土質は河岸に粘土の沖積層がみられるほかは,オランダ南部から続く洪積層の砂質で,一部に砂質・粘土,砂・黄土が見られる。海岸はオランダと同様砂丘が連なって内陸の低地を保護している。海岸の内側は海面以下の干拓地で,オランダの場合ほど大規模ではないにしても肥沃な牧場をなしている。中部は,ムーズ川の北(エスベーHaysbaye)が標高100mの丘陵地,南(コンドローCondroz)が100~200mの石炭紀層で,長い間ベルギー産業の中心地であった。ここは石灰質,片岩質の肥沃な土壌に恵まれている。その南がアルデンヌ山地でドイツのアイフェル丘陵から続く標高200m以上の高原のところどころに500m台の山がそびえ(最高は,リエージュ南東のボトランジュBotrange山で694m),ほとんどが美しい森林に覆われ,その間をムーズ川の支流の急流が台地を刻んでいるので,夏の行楽地として名高い。この高原を南に下ると,ベルギー領ロレーヌの丘陵にぶつかる。

 気候は,高緯度にあるにもかかわらず,メキシコ湾流の影響で沿岸部は比較的温暖で,降水量もそれほど多くはない。しかし,アルデンヌ山地は全国平均気温より4℃低く,冬には降雪も多い。冬には北風が吹くが,全体としては偏西風が優越している。

ベルギーは,ゲルマン系のフラマン人Flamand(フランデレン人)とラテン化したケルト系のワロン人Wallonの二つの民族からなる複合民族国家であるが,スイスやカナダのような連邦制を採用していない。もともと,現在のベルギーの地域はラテン化したケルト人の居住地であったが,ローマ帝国末期から10世紀までの間に北部や東部からゲルマン人が移住し,西フランドル州ムースクロンMouscronからリエージュ州ラネーLanayeまでほぼ東西に延びる言語境界線は,それ以来ほとんど変わることなく続いている。

 北のフラマン人は,オランダ人と同じく低地フランク人で,低地ドイツ語の一種であるフラマン語(フランデレン語。公式にはオランダ語)を用いている。このフラマン語とオランダ語は語彙(ごい)や文法はほぼ同じで,正書法も統一されているが,一部の用語や訛(なまり)に違いが認められる。ワロン語wallonはフランス語の方言の一種であったが,教育を受けた階層は標準フランス語を話すようになり,今日ではほぼフランス語に同化されている。両者の人口比は,さまざまの政治的対立がからむため,1960年の調査が流産に終わり,その後正確な調査は行われていないが,フラマン語とフランス語(ワロン語)をそれぞれ公用語とする地域の人口は,全人口比57%,32%である。なお,首都ブリュッセルは,言語境界線の北側にありながらフランス語が優越し,両言語併用地域に指定されており,人口の約85%がフランス語を常用している。したがって,両言語の人口比は,ほぼ6対4と,フラマン系が数において勝り,人口増加率(1960年代)もフラマン側7.3%,ワロン側2.6%と大きな差がみられる。なお,ドイツと国境を接する東部地帯(オイペンEupen,ザンクト・フィートSt.Vithなど)は,ベルサイユ条約でドイツから割譲された地域で,約6万人(全人口比0.6%)がドイツ語を常用している。ベルギー憲法の制定(1831)以来,両言語は対等の資格を認められていたものの,大国フランスと共通し文化的にも広く用いられていたフランス語は,ワロン系のみならずフラマン人の上流階級の言語となり,国政,経済,文化の面で事実上唯一の公用語としての地位を占めてきた。その不合理な状態の改善は,19世紀末以来80年にもわたるフラマン人の運動の成果と,フランス語の国際的地位の低下の影響によるもので,1963年の言語法により,フラマン,フランス,ドイツ語の3地域で,それぞれの言語が唯一の官庁・教育言語に指定され(境界地域で少数派の権利を保護),ブリュッセルはフラマン,フランス両言語共用地域となった。その結果,フラマン地域では,フランス語の街路表示,看板などが姿を消し,企業内での伝達もフラマン語の使用が義務づけられている。そして,議会ではいずれの言語も用いることができ,閣僚は双方同数と定められている。また,軍隊はそれぞれの言語別に編成され,高級官僚や高級将校は,両言語を完全に話せることが任用条件とされている。

 宗教では,16世紀,八十年戦争(オランダ独立戦争)期にカルバン派や再洗礼派,ルター派などプロテスタントが優位に立ったが,その後再びカトリック化された。現在,人口の90%以上がローマ・カトリックで,八つの司教区に分かれ,ブリュッセル大司教が全体を統括している。1830年の独立以来,信教の自由は保障されているが,カトリック教会があらゆる点でベルギーの大勢力であることには変りはなく,教育のみならず,農民,中小企業者,労働組合,政党などに大きな影響力を及ぼしている。この点,ベルギーは高度の工業社会でありながら,カトリック教会と国家との関連で,他の国にみられない独自の問題をはらんでいるといってよい。

独立直後の1831年に制定された立憲君主制の憲法により国民の基本的人権と主権在民が規定され,議会制民主主義と三権分立の原則が確立された。元首は国王でザクセン・コーブルク家に継承され,1990年から女子の王位継承が認められた。第2次大戦後の危機的時代からベルギーの民族的・社会的対立のなかで統合の象徴として大きな役割を果たしたボードゥアン1世(バウデウェイン1世,1953年即位)が1993年に死去した後を承け,第6代のアルベルト(アルベール)2世が即位した。ベルギーは,長年の民族対立を解決するため,1988年に始まって93年5月までかかった憲法改正で,ついに連邦国家に移行し,国制は大きく変わった。すでに1974年から,文化・教育・医療に関する事項は,それぞれ評議会と大臣を有するオランダ語,フランス語,ドイツ語の三つの言語=文化〈共同体〉の所管となったが,さらにこの憲法改正によって,フランドル,ワロン,〈首都ブリュッセル〉の3〈地域〉が創設されて,独自の議会と政府を組織し固有の財源と連邦政府からの補助金を運用して経済政策,環境,エネルギー,一部の国際関係など重要事項を決定できることになった。この3地域のうち〈首都ブリュッセル地域〉は,オランダ語とフランス語の2言語併用地域とされている。また,フランドル地域はブリュッセルのオランダ語住民代表を参加させ,オランダ語共同体と合体している。またドイツ語地域はワロン地域に含まれるが,独自の共同体を認められている。ベルギーは,このような複合的な分権化の方式で,言語とその使用地域の錯綜した問題を解決しようと試みている。その結果,中央政府および議会は,はっきり連邦政府=議会として位置付けられ,その権限も連邦財政,国防,社会保障,司法,外交などに限定され,首相を除く14名の閣僚は,オランダ,フランスの両言語使用者同数とされている。連邦議会は二院制で上下両院の議決を必要とするが,上院は一部の分野を除き,立法の提案は行わない。下院(代議院)は,18歳以上の有権者の直接普通選挙(比例代表制)によって選出された150名の議員(任期4年)から構成される。上院(元老院)議員71名のうち25名がオランダ語選挙人団,15人がフランス語選挙人団から,またオランダ語,フランス語,ドイツ語の各共同体評議会から10名,10名,1名が選出される。さらにこれら議員がフランドル人6名,フランス人4名の議員を追加指名する。政党は,伝統的に全国的な三大政党(カトリック系のキリスト教国民党,自由進歩党,社会党)を中心としてきたが,1960年代からフランドルとワロンの民族対立のあおりでそれぞれが二分され,両方の地域=民族政党や右翼政党が得票の3割を占めるため,連立内閣はつねに不安定となったが,それでも,1992年以降,キリスト教国民党(オランダ語系)のデハーネ首相のもとでの中道左派5党連立内閣は,閣僚のスキャンダルの打撃や労働組合の大規模なストによる反対を押し切って,財政緊縮や憲法改正の難事業を達成した。

ベルギーでは,先に述べた連邦化によって地方行政も大きく変革され,フランドル地域(東西フランドル,アントウェルペン,フランドル・ブラバント,リンブルフの5州),ワロン地域(エノー,ナミュール,リエージュ,リュクサンブール,ワロン・ブラバントの5州)と首都ブリュッセルの3〈地域〉に分かれ,その下に10州と589の市町村があり,首都ブリュッセルは隣接19自治体を含む。これら州,市町村はそれぞれ議会をもち,州知事は〈地域〉政府から任命され,市町村長はそれぞれの議会より選挙される。

ベルギーは,第1次大戦まで永世中立国であったが,2度の大戦で中立を侵犯された経験から,第2次大戦後は一貫して西側の一員として集団安全保障に頼り,NATO(北大西洋条約機構)の発足当時からその一員である(ドイツに2個旅団駐屯)。また戦後,隣接の同じ小国オランダやルクセンブルクとベネルクス関税同盟を結んだうえ,EEC,ヨーロッパ鉄鋼石炭共同体,EURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)にも発足当初から加盟し,現在EUの本部もブリュッセルに置かれている。

 軍事面では,1995年から徴兵制を廃し,民間人の活用により軍人を大幅に削減した結果,兵力は4万5900人まで縮小された(陸軍3万0600人,海軍2800人,空軍1万2500人,軍事費は958億ベルギー・フラン。1993)。陸軍の一部と空軍の大部分はNATO軍に編入され,また93年からフランス,ドイツとともに欧州合同軍に参加し,94年から海軍はオランダと共通の司令部の下に運用されている。

経済の重心は,産業革命期以来,ワロン地域のサンブル=ムーズ=エーヌ川沿いの製鉄,石炭,機械,化学工業にあり,また首都ブリュッセルも,ヨーロッパ金融の大中心地であった。第2次大戦後の復興期にも,戦災の少なかったこれら地方の工業は大いに繁栄を見せたが,1960年代になると,鉄鋼業の設備は旧式化したのみならず立地も不利となり,またもともと条件のよくなかった石炭業は,石油との競争の前に苦境に立たされた。他方,北部のフラマン地域は,その代表的産業であった繊維工業の不振や機械化による農業人口の過剰により慢性的な大量の失業者を抱えていたため,政府や地方自治体は,工業団地の造成,租税の減免と利子補給や特別融資などの便宜を計って新投資,とりわけ外資の誘致に努めた。このような有利な条件と低賃金,労働組合が穏健なこと,そして諸外国への交通の便のよさがあいまって,石油精製,石油化学,薬品,自動車組立て,電子機器などの新産業を中心に,続々と新工業地帯が誕生した。その重心は,アントウェルペン,ヘント,ゼーブリュッヘZeebruggeなどの臨海工業地帯,そしてアントウェルペン=ブリュッセル枢軸にあるが,それ以外にも,内陸の小工業団地がいくつも誕生している。これら新工業投資の3割を占めたのは,ヨーロッパ市場への進出を企てるアメリカ系多国籍企業であり,そのほかにもドイツ,フランスの化学,自動車産業の進出が続いた。また日本からは,本田技研工業(オートバイ)やYKK,パイオニア,鐘ヶ淵化学などの現地生産の工場が進出している。また,内陸地帯のベルギー,ルクセンブルクなどの諸製鉄企業も,ヘントの郊外に新しい臨海製鉄企業シデマルSIDEMARを共同で設立し,その粗鋼生産高はベルギーの全体の22%に達している。こうして,石油危機直前の72年には,フラマン,ワロン両地域の賃金格差はほとんど解消していた。その後,世界的不況の中で,とりわけ80年代からワロン地域はその代表的産業である鉄鋼の深刻な不況に苦しめられ,人員整理を余儀なくされ,失業率は全国平均14.3%でワロン地域は25.9%と,フランドルの7.4%に比して格段に高い(1994)。このため,ワロン地域の構造改善と大規模な再開発投資が必要となったが,不況と財政難に加え,両民族の対立によって難航した。しかし,ハイテク・精密化学などの新産業への投資で,ようやく蘇生しつつある。

 主要工業としては,まず機械工業が挙げられ,国内工業生産の20%を占め,その3分の2が輸出に向けられる。とりわけ,資本財と輸送機器の両者は他を大きく引き離している。鉄鋼業は今日も世界有数の国の一つで,粗鋼年産は1100万tと,イギリス,フランスの6割以上に達している。化学工業は第2の工業部門で,その総生産の3分の2が輸出されており,石油化学・有機化学製品がその中心である。ベルギーの代表的化学工業会社であるソルベー社は,石炭産業と結びついたソーダなどの重化学を中心としていたため,戦後の石油化学を中心とした技術革新に出遅れたが,その後精力的な研究開発投資によって遅れを取り戻し,ベルギーの化学工業は成長産業の一つに数えられている。このほかベルギーには,繊維(綿,麻,毛織物,レース編),縫製,ビール,精糖,皮革,製紙,ダイヤモンド加工,ガラス(板ガラス,クリスタルガラス),さまざまのハイテク産業など,実に多様の産業部門が展開している。

農業人口は,とりわけ第2次大戦後激減し,現在,有業人口の2.9%,その生産は国民総生産の2.9%を占めるにすぎない。農家経営は2.5~50haの中・小規模経営が大多数を占める。とりわけ東・西フランドル州は中世以来零細な集約経営が密集しており,全国の農家経営の27%が1ha未満である。また,農地・森林面積の71%が借地である。こうした零細農家は工場への出稼ぎや副業労働で生計を立ててきたが,戦後のフラマン地域の工業化やEC諸国の農業・工業双方での競争によって,兼業や出稼ぎは大きく減少した。土地利用面では46%が永久牧草地で,耕地のうち穀作地は22.7%とオランダに比してかなり高い。このほかテンサイ,ホップ,亜麻などの工業用原料,花などの栽培や酪農も盛んである。同国の農業は小規模ながら生産性は高く,現在国内需要の80%を賄っている。

ベルギーは,1950年代までヨーロッパの最も有力な石炭産出国の一つで,それだけに石炭への依存も強かった(1960年代は60%)。しかし,その後の石油の普及とオランダ沖の天然ガスの輸入の増大により,ベルギーの炭鉱はすべて閉山に追いやられた。現在,石油が総エネルギー消費の36.8%を占め,石炭は23.4%(1993年)。このほか天然ガス25.2%,核エネルギーは14.3%を占める。発電量は698億kWhで,うち原子力が60.2%,石炭火力23.3%,石油1.9%,ガス12.9%,水力1.7%となっている。

工業の発達した小国だけに貿易依存度は高く(1994年の対GDP比では,輸出52%,輸入47%),工業生産もその41%が輸出に向けられている。貿易(ルクセンブルクと共通)の相手国はEU諸国が輸出入とも圧倒的比重を占め(輸出74.9%,輸入73.5%。1992),なかでもドイツ(20.2%,20.1%),フランス(19%,16.1%),オランダ(13.2%,17.7%)がぬきんでている。なお,日本の占める割合は輸出1.1%,輸入2.6%である。他方,植民地時代10%台を占めてきたザイール(旧ベルギー領コンゴ,現コンゴ民主共和国)との貿易は,輸出0.1%,輸入0.45%と減少している。輸出品目は,金属・機械・輸送機器37.3%,化学製品15.3%,その他工業製品32%,輸入品目はエネルギー源12.1%,原料12.5%,化学製品12.7%,金属製品・機械・輸送機器27.5%である。ベルギーは,ヨーロッパ通貨制度に加盟したが,その枠内での為替相場は割高で輸出が伸び悩んでいた。1982年2月22日の改訂により,ベルギー・フランが他の通貨に対し3%切り下げ,マルクが5.5%切り上げられたことによって,EU諸国を中心に輸出の伸びを見せた。

 ベルギーの貿易港としては,アントウェルペンが,ロッテルダム,ル・アーブルに次ぐヨーロッパ第3の荷扱量を誇り,ベルギーの海上貿易の90%を占めている。同港はベルギーのみならず,ドイツ,北部フランスとも,鉄道,高速自動車道,ライン・スヘルデ運河(1976完成)によって結ばれ,その貨物の一部も吸収している。ベルギーの商船は,1996年現在52隻,95万トンである。またベルギーの代表的航空会社SABENA(1990年部分民営化)は1923年の設立で,ヨーロッパの主要都市間のみならず,中近東,北アメリカ,極東,アフリカとの間に路線を広げてきた。80年代にはベルギー・フラン高も加わって業績不振に陥ったが,リストラとブリュッセル新空港の開港で立ち直り,1993年には64億人キロの乗客と10億キロトンの貨物輸送の実績を見せている。

ベルギーの中央銀行は,国立銀行(1851設立。日本銀行設立に当たりその模範となった)である。さらに,金融業務は,民間銀行,全国貯蓄・年金金庫Caisse Générale d'Espargne et Retraiteおよび政府系特殊銀行がそれぞれ分担している。金融業務は,二大投資銀行,ソシエテ・ジェネラルとブリュッセル銀行がそれぞれのコンツェルンの持株会社をなしてきたが,1929年の大恐慌により苦境に陥ったのを機に,銀行業務は持株会社から分離された。現在ベルギーには,外国資本によるものも含め金融機関が127(うち外国系41)あり,預金高は2兆6400億ベルギー・フランである。二大銀行のシェアは70%で,残りのベルギーの銀行も両者の系列に属する。一方,全国貯蓄・年金金庫は1世紀の歴史があり,年金業務や住宅貸付などを営んでいる。このほか,政府系産業金融機関では,産業金融公庫(1918設立)に加えて,国立投資会社(1962設立)が,地域開発投資や構造改善事業を支援している。また中小企業・農民向けには,国民職業信用金庫,国立農業信用公社がある。

 財政では,連邦化によって地域と市町村財政の比重が34%まで高まった。国家財政は,すでに1970年代の好況期から社会保障費の膨張で赤字を出していたが,不況の下で租税収入の伸び悩みに加えて,公共事業費の増大や,老齢化や失業増による社会保障費の膨張,そしてなによりも公債費の増大により,赤字は累積し財政危機に陥り,通貨統合を前に緊縮財政を強いられている。

ベルギーは早くに工業化された国でありながら,労働立法や社会保障へ歩み始めたのは19世紀末のことで,その後両大戦間期から本格的整備をみた。労働組合は,社会党系,カトリック系,中立系の分立に加え,フラマン,ワロン間でも組織の分裂が見られる。最大の労働組合連合体は社会党系のベルギー労働総同盟(ABVV,FGTB)111万,カトリック系のキリスト教労働組合総連合(ACV,CSC)90万である。ベルギーの労働組合は,1948年以来,最低賃金制を獲得し,これは物価にスライドして改訂されることになっているため,アメリカの賃金と比べて25%も賃金水準を高めて,国際競争力を弱めた。そのため,このスライド制が労使対立の一つの焦点となってきたが,80年代の不況によって上昇にブレーキがかかり,相対的単位労働コストはドイツの73%まで下がっている。社会保障は,社会保険庁が,失業保険(初年度60%,次年度40%支給),健康・労災保険,遺族・退職年金を一元的に管理しており,労使が双方で4分の3,国が4分の1を拠出している。また,自営業者にも,健康保険,遺族・退職年金が認められている。

教育は,6~12歳の初等教育,12~18歳の中等教育,18歳以上の高等教育に分かれる。義務教育は6~14歳。学校教育における宗教教育の自由をめぐるカトリック派対自由主義・社会主義の対立は,19世紀以来教育の枠を越えてしばしば大政治問題となったが,1959年主要政党間に結ばれた〈教育協定〉により,私立学校は国庫助成によって公立学校と同一の教育待遇と設備を保障され,国民はいずれの地域でも,公立・私立を自由に選択できることになった。1989-90年度では,初等教育では56.1%,中等教育では64.9%と私立学校(カトリック系)が優勢である。いっさいの教育は1963年の言語法により,当該地域言語によって行われる。従来,ベルギーでは父兄による教育言語選択の自由が認められていたため,中等教育以上ではフランス語が圧倒的優位を保ってきたが,今日では両言語の生徒・学生数の比はほぼ人口比なみとなった。大学も両言語均等の原則にのっとり,同数ずつ置かれ,学位を出しうる正式の大学としてヘント,リエージュの,モンスの3国立大学,カトリック私立大学であるルーバン大学および新ルーバン大学(フランス語部門の分離独立),ブリュッセルの両自由大学,ブリュッセル・カトリック大学(オランダ語)があり,このほか,大学進学者の増加にこたえてアントウェルペン,モンス,ナミュール,ハッセルトに小規模単科大学が新設されている。このほか,商学,農学,工学,芸術などの専門単科大学のほか,教育養成などの教育機関および大学院レベルの高等商業学院などが設けられている。

ベルギーは新聞の発達した国で,日刊紙のみで38紙を数え,それぞれ政党の系列下にある。フランス語紙は23紙でフラマン語14紙に比べて多いが,発行部数は,全体の250万部を両言語紙がほぼ均分している(このほかドイツ語紙1)。ラジオとテレビも,フラマン語とフランス語の両放送(国営)に分かれ,ラジオ3チャンネル,テレビ2チャンネルをそれぞれ放送している(このほか,ドイツ語放送1)。通信社としては,ベルガ通信社がある。

現在のベルギーにあたる地域では,中世以来16~17世紀にいたるまで,都市の発展に支えられて美術や音楽の分野で目ざましい活動が見られたが,その後,文化的活動は沈滞し,やっと1830年の独立後,フランス語系文学(ただし,作家の多くはフラマン系)が世界的名声を博した。その先駆はド・コステルCharles De Coster(1827-79)(《オイレンシュピーゲルの伝説と冒険》)で,1881年から《若きベルギーJeune Belgique》誌によったベルハーレン,ロデンバック,メーテルリンクなどが,象徴主義の画家たちとも交流して,その全盛時代を築いた。フラマン語では,コンシャーンスHendrik Conscience(1812-83)が,歴史小説《フランドルの獅子》(1838)でフラマン民族の覚醒を促し,ヘゼレも抒情詩で名高い。このほかベルギーの生んだ文化人としては,シムノン(文学),C.フランク(作曲),ピレンヌ(歴史学),ケトレ(統計学),メルシエ枢機卿(カトリック哲学),ミショー(文学,絵画)が著名で,自然科学の分野では,ボルデ(細菌学),ヘイマンス(生理学)の2人のノーベル賞受賞者を出した。工業技術の面では,ルノアールJ.É.Lenoir(ガス機関),グラム(発電機),ベークランド(合成樹脂)などの発明家を輩出している。
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近代国家としてのベルギーの誕生(1830)は,この地域における初期中世以来の古く豊かな美術伝統の断絶を意味するものではないが,ここでは便宜上19世紀初頭以降のみを扱う。

 フランス新古典主義の領袖ダビッドが1816年から25年に没するまでをブリュッセルで送ったことは,同地を中心とした新古典主義アカデミズムの確立に決定的に作用し,ダビッドの一番弟子ナベスFrancois-Joseph Navez(1787-1869)はアングルを思わせる肖像画によって多大な名声を博した。他方,やや遅れてアントウェルペンでは,ワッペルスGustave Wappers(1803-74),レイスHenri Leys(1815-69)など,自国およびドイツの絵画伝統に根ざしながらフランスのドラクロアを範として自国の歴史的事件を描くロマン主義者が台頭する。ロマン派の中でもウィールツは想像力を幻想的・怪奇的な主題に向けた。写実的描法と現実への愛着がフランドル美術の伝統的特性であったことから容易に想像されるように,写実主義が全ヨーロッパ的隆盛をみた19世紀半ば過ぎには,光に満たされた静謐な室内の情景を描いたデ・ブラーケレールHenri de Braekeleer(1840-88),筆触を生かして詩情豊かな風景を描いたフォーヘルスGuillaume Vogels(1836-96)らの優れた画家が出た。19世紀後半,自国よりむしろパリで活動した画家としては,瀟洒(しようしや)な女性風俗を描いたステバンス,悪魔的あるいは好色的な主題を得意としたロップスや,モローに師事しかつ印象派の影響を受けたエバンプールHenri Evenepoel(1872-99)がいる。一方,〈レ・バン(二十人組)〉が1884年以降ブリュッセルで国際的規模の展覧会を開いたことにより,印象主義,新印象主義等,パリの最新の動向が伝えられた。ベルギーは世紀末の象徴主義の一中心でもあり,〈レ・バン〉の創設者の一人クノップフがこれを代表する。同じく創立会員のアンソールは,独特の幻想世界を創造,強烈な色彩と大胆な筆致により,表現主義の先駆ともなった。

 世紀のかわり目に主として工芸・建築に新風を吹き込んだアール・ヌーボーの運動においても,オルタとバン・デ・ベルデという傑出した建築家を生んだベルギーの役割は大きい。さらに後者は1901-14年にドイツで活動して機能主義の美学を標榜するバウハウス運動を準備し,帰国後は装飾を排した近代建築の推進者となった。19世紀の彫刻は新古典主義に支配され,労働者や農民を写実的かつモニュメンタルに表現したムーニエと象徴派のミンネGeorge Minne(1866-1941)の作品以外は新味に乏しい。後者は後述する第1次〈ラーテム派〉の一員でもある。

 20世紀の主たる美術動向は,キュビスムを別として,ベルギーでも順次その展開をたどりうる。フォービスムは彫刻家でもあったワウテルスに,たくましく構築的なベルギー版表現主義は第2次〈ラーテム派Latemse school〉と呼ばれるペルメーケConstant Permeke(1886-1952)らの画家に代表される。一方,彼らに先立って,20世紀初頭ヘント近郊の小村シント・マルテンス・ラーテムSint-Martens-Latemに住みついた画家デ・サーデレールValerius de Saedeleer(1867-1941)らの第1次〈ラーテム派〉は,自然と自国の伝統を糧として現実の中の神秘を描こうとした。アントウェルペン近郊で制作したスミッツJacob Smits(1855-1928)の芸術にもこれに通ずるものがある。伝統といえば,迫真の写実と奔放な幻想が共にフランドル美術の特質であった以上,ベルギーがマグリット,デルボーというシュルレアリスムの大家を生んだことにはなんの不思議もない。一方でセルフランクスVictor Servranckx(1897-1965)が1917年にベルギー最初の抽象画を発表して以来,ファン・リントLouis van Lint(1909- )その他の抽象主義も確固たる力として近年に至っている。
フランドル美術
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1830年に独立した国であり,それまではベルギーの音楽と呼べるほどのものをもたないが,ここでは現在の国境内における音楽を歴史的に記述する。

 音楽史上,ベルギーで最初に活発な動きをみせた町はリエージュである。10世紀ころから同地の聖歌はその周辺地域に大きな影響を与えていたし,その後のリエージュは音楽理論の中心地となり,ジャック・ド・リエージュJacques de Liège(1260ころ-1330以降)といった理論家を輩出した。12,13世紀には,その近隣地帯で典礼劇が盛んに催され,その写本は現在もいくつか残っている。世俗音楽としては,トルベールの流れをうけているが,ベルギーは地理的にドイツ語圏に近いこともあって,ミンネザングの影響も見のがせない。ポリフォニーのジャンルでは,まずは14世紀に書かれた《トゥールネのミサ曲Missa Tornacensis》(ポリフォニー様式によるミサ通常文の最初の完全なセット)が注目に値する。さらに,15世紀から16世紀にかけてすぐれた音楽家を輩出すると同時に,ブルゴーニュ楽派フランドル楽派の作曲家に活躍の場を与え,多くの宗教曲,世俗曲をうみ出した。16世紀中ごろから,アントウェルペンで楽譜出版業を開始し音楽の普及に努めたスザトTylman Susato(1500ころ-61から64)やファレーズPierre Phalèse(1510ころ-76ころ)らの功績も大きい。17世紀に入ると,イタリアやフランス,ついでドイツの音楽が主流を占めるなかで,オルガン音楽のケルクホーフェンAbraham van den Kerkhoven(1618?-1701),オペラのザンポーニGioseffo Zamponi(?-1662),教会音楽のフィオッコPietro Antonio Fiocco(1650ころ-1714)などが活躍,ハープシコード製作でもリュッケルス一族が名器を作り出していた。また,音楽活動は宮廷や教会のほか,市民の間でも盛んとなり,諸都市に愛好家によるコレギウム・ムシクムcollegium musicum(ラテン語)が誕生した。18世紀には,ブリュッセルやリエージュなどでオペラやバレエが盛んとなり,グレトリーゴセックらが作品を残している。1700年設立のブリュッセルのモネ劇場が活動の中心であったが,この劇場は19世紀に入っても,他国の斬新な劇作品の初演場として名高かった。1830年,ベルギー独立と同時にブリュッセル,リエージュ,ヘントに,ついで43年にはアントウェルペンに音楽院が設立され,新たに国民的な音楽を培うことに力が注がれた。なかでもブリュッセルのフェティスとヘファールトFrançois Gevaert(1828-1908)の音楽学上の業績,アントウェルペンのブノワPeter Benoît(1834-1901)の作曲活動,イザイエに代表されるリエージュのバイオリン楽派は特筆に値する。20世紀の音楽活動は,ワーグナーの流れを受けた作曲家ジルソンPaul Gilson(1865-1942)やヨンゲンJoseph Jongen(1873-1953)に始まり,活発な歩みを続けている。1921年にコラールPaul Collaer(1891-1989)によって設立されたプロ・アルテ演奏会が他国のさまざまな現代音楽を積極的に紹介,これに啓発された音楽家は多い。1958年,プースールがブリュッセルに電子音楽スタジオを開設,この方向の活動もめざましい。このほか,1960年代からの古楽復興活動は注目に値する。ベルギーは,古楽器の可能性を完全に追求した説得力のある新しい古楽解釈の旗頭でもある。
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中世には,現在のベルギーの領域はフランドル伯領(フランドル),ブラバント公領(ブラバント),エノー伯領,リンブルフ公領,ルクセンブルク(リュクサンブール)公領,ナミュール伯領,リエージュ司教領などに分かれ,フランドルの大部分はフランス王国に,残りは神聖ローマ帝国に属していたが,実質上は独立した邦国をなしていた。そして,このなかでもフランドルは,12世紀以来,毛織物工業の中心で,ブリュッヘ(ブリュージュ),ヘント,イーペル,コルトレイクなど多くの都市が密集し,中世の〈ブラック・カントリー〉とさえ呼ばれている。また,ブリュッヘは,イタリアやスペイン,ドイツの商人たちが集まる大商業都市で〈北欧のベニス〉とたたえられた。これらの諸邦がしだいに一つにまとめられていったのは,1384年ブルゴーニュ公(フランス王家の分家)フィリップがフランドル伯領を相続して以来のことで,その後,ブルゴーニュ家およびこれを継いだハプスブルク家は,ネーデルラントの諸邦の君主権を相続や征服によって次々に獲得し,ついにカール5世(神聖ローマ皇帝,スペイン王)は1543年に,リエージュ司教領など二,三の小邦を除く,ネーデルラント全17州(北フランスの一部も含む)の主権を得た。

この17州は,依然,独立の諸邦が共通の君主を戴いていただけで統一国家には遠かったが,歴代君主はブリュッセルに宮廷を設け,全州を扱う政庁や裁判所も設置され,各州議会の代表者を集めた議会も随時召集されていた。そして当時のネーデルラントでは,かつてのフランドルの諸都市は衰退していたものの,これに代わって農村に毛織物工業や麻織物工業も発達し,早くも資本主義的経営もみられ,農村でも荘園領主の賦役はまったく姿を消して,農民の高度に集約的農業経営が一般化していた。また,ブリュッヘに代わって,アントウェルペンがヨーロッパ最大の商業都市として繁栄するなど,当時のベルギーは,経済・文化とも,ヨーロッパの最先進地帯であった。

 しかし,1555年父カール5世からこれを相続したフェリペ2世(スペイン王。在位1556-98)が,当時この地方に浸透していたプロテスタンティズムの弾圧と旧来の各地方や諸身分の特権を無視した絶対主義的な統治を企てたため,八十年戦争(オランダ独立戦争)が勃発した。この独立戦争の中心は,フランドルやブラバントをはじめベルギー地域の方にあったが,独立軍は海からオランダ地域を制圧し,一方,フェリペ2世から鎮圧のために派遣されたアルバ公は,カトリックの貴族たちを味方につけ,これを足がかりにしだいにアントウェルペンをはじめベルギー全域を制圧していった。この過程で,ベルギーのプロテスタント,とりわけ多くの文化人や手工業者・商人が,オランダやイギリス,ドイツに逃れ,その経済・文化は決定的打撃を受け,繁栄はオランダに移ってしまった。その後,独立戦争は,1609-21年の十二年休戦を除いて48年まで続いたが,しだいにオランダに押され,ブラバント北部,フランドルの一部,上マース(ムーズ)地方などがオランダの手に帰した。そして,アントウェルペンは海への出口をオランダに握られ,1648年の講和条約(ウェストファリア条約)で,海への出入りを禁ぜられた。こうして,ネーデルラント17州は,独立を達成した北部のオランダとスペイン王主権下の南部のベルギーとに分裂し,ベルギーはさらに1667-68年フランスの侵略を受け(フランドル戦争),アルトアやフランドル・エノーの一部も奪われた。こうして,ベルギーはスペインの従属国としてスペインと諸列強との戦争に絶えず巻き込まれ,他方でスペインやその植民地との貿易では外国扱いされた。その後スペイン王が嗣子なくして死ぬと,その王位をめぐってフランスとオーストリアが争い,結局1713年のユトレヒト条約でオーストリアがベルギーを得て,95年までこの地を支配し続けた。

こうして長年,外国支配と戦乱に打ちひしがれてきたベルギーに新しい経済発展の兆しが見えてくるのは1750年以降のことで,南部のサンブル=ムーズ川流域の毛織物工業(ベルビエ),鉄工業(リエージュやシャルルロア),石炭(リエージュやモンス)が順調に伸び,またフランドルでも新しい農法(フランドル農法)の発達普及によって人口の伸びが著しかった。そして,アメリカ合衆国の独立,フランス啓蒙思想などの影響下に,しだいに独立と旧体制改革を求める動きが表面化してくる。しかし,フランス革命勃発前後に起こったベルギー最初の独立運動(ブラバント革命。1789-90)は,オーストリアに鎮圧された。次いで95年フランス軍の侵入をうけ,フランスに併合された。フランスは封建制の廃止や営業の自由など革命(1789)の成果を持ち込み,教会財産の多くを没収して競売に付し,各邦や都市の特権を廃して九つの県に整理した。こうして,フランス統治下にベルギーのフランス化が進み,とりわけフランスという大市場に完全に組み入れられ,ナポレオンの大陸制度(1806)によってイギリスの競争から守られたため,ベルギーはフランス内で最も進んだ工業地帯の一つとなり,ヘントの綿工業やベルビエの毛織物工業などを皮切りに産業革命が開始された。

 しかし,ナポレオンの没落後,ベルギーは列強諸国の取引の結果,オランダに統一され,1815年オラニエ・ナッサウ家のウィレム1世を国王に戴くネーデルラント王国Koninkrijk der Nederlandenを形づくった。しかし,同王国では,人口325万のベルギーの利益より,わずか200万のオランダ側のほうが優先され,経済政策においても商業国オランダの利益となる自由貿易政策が工業国ベルギーに押しつけられたことから,しだいにベルギーのブルジョアジー,自由主義者の不満が高まった。またベルギーで大きな勢力を占めるカトリック派も,プロテスタントが主流のオランダに反発して,自由主義者と手を結び,国王に反抗するようになった。そして,1830年8月,フランスの七月革命に触発されてブリュッセルをはじめ各地に暴動が起きると,ブルジョアジーとカトリック派は全土を掌握して臨時政府を組織し,同年招集されたロンドン会議で,ベルギーはフランスとイギリスの支持の下に独立を認められ,永世中立を保障された。次いでベルギーは,当時最も民主主義的な,三権分立と議会制を定めた憲法を制定し,ドイツのザクセン・コーブルク家のレオポルド1世(在位1831-65)を国王に迎えた。なお,リュクサンブール州のうちドイツ語を使用する東部は,オランダ国王が元首を兼ねる大公国としてベルギーから分離された。
ベルギー独立戦争

こうして発足したベルギーでは,独立後の経済的危機に対処するため,国家の手で精力的な鉄道建設が行われ,他方ソシエテ・ジェネラルやベルギー銀行などの投資銀行が次々に新しい株式会社を設立したり産業金融を推進した結果,1840年ころにはヨーロッパ大陸で最初に産業革命が終えられて,安定した資本主義国家が築かれ,48年の二月革命の争乱にもほとんど巻き込まれなかった。そしてベルギーは,ドイツ,フランス,イタリアなど周辺諸国に鉄,石炭,機械などを供給し,また資本や技術も提供しながら,その経済発展を維持した。また80年代以降,有力な市場であったロシアが輸入禁止政策に転ずると,ベルギーの大製鉄企業は続々ロシアに子会社を設立して現地生産に乗り出し,中国でも96年,北京~漢口間の鉄道建設を請け負い借款を提供したほか,天津の市電を経営していた。他方,ベルギーは熱心に植民地獲得を試みたが,いずれも成功せず,ようやく1884-85年のベルリン会議でコンゴ(現,コンゴ民主共和国)が,コンゴ自由国(事実上,国王レオポルド2世(在位1865-1909)個人の領土)として認められた。しかし,植民地から収益を上げようとして現地住民を虐待したことが世界の非難を浴び,コンゴ自由国の統治権は1908年ベルギー国家に移管され,〈ベルギー領コンゴ〉が誕生した。

 ところで,ベルギーの政治や社会を支配してきたのは,フランス語を話す一握りのブルジョアジーで,労働者階級やフランス語の教育を受けていないフラマン人の中・下層階級は無権利状態に置かれていた。1870年代から両者の覚醒が,新しい政治的対立を生み,社会主義政党(労働党。現,社会党)やフラマン運動(またはフランデレン運動。フラマン人の自治要求運動)の政党が勢いを増し,部分的には改革の実績を築いたが,問題の多くが,第1次大戦後に持ち越された。

1914年,第1次大戦が勃発すると,ドイツはベルギーの永世中立を侵してフランスへの侵入を試み,その後4年にわたりベルギーの大半がドイツ軍の占領下に置かれた。激しい攻防戦の場となった諸都市では多数の文化財が破壊され,多数の非戦闘員も巻き込まれた。この間,フランスのル・アーブルに労働党も含めた挙国一致の亡命政権が樹立されていたが,戦後公約に従って普通選挙制を実施し,またさまざまの社会立法を導入した。しかし,フラマン系住民の地位向上については,戦後の親フランス的ムード,あるいはフラマン運動の中から多くの対ドイツ協力者を出したことによって,すっかり抛擲(ほうてき)されていた。しかし,1923年からヘント大学のフラマン語化問題をめぐって対立は再燃し,ついに30年にその完全フラマン語化が,32年にフラマン語地域の行政・教育用語のフラマン語への一本化,39年に軍隊の両言語別編成が実現した。一方,順調に復興したベルギー経済は,1929年の世界恐慌の中で危機に陥り,大量失業とストライキの激発の中でレックス党Rexなどファシズム政党と共産党の勢力が伸びたが,中道諸派の連合で議会制民主主義を守り抜いた。ベルギーは,36年英仏との軍事同盟を断念して中立政策に復帰したが,40年再度ドイツに中立を破られ44年まで全土を占領された。国王レオポルド3世(在位1934-51)は,軍とともにドイツに降伏したが,政府はロンドンに亡命し,抗戦を続けた(このため,国王は戦後復位できなかった)。解放後のベルギーは,マーシャル・プランを活用し,また植民地コンゴでの銅・ウランの産出によって比較的早く復興した。また45年オランダ,ルクセンブルクとベネルクス関税同盟を結び,EECにも発足当初から加盟した。しかし,戦禍をあまり受けなかったベルギー経済も60年代に入って地盤沈下をきたし,これにコンゴ植民地放棄(1960)の打撃が加わったが,幸いにフランドル地域の外資による工業化とEECの市場統合・国際分業に支えられて,新しい再建の道を歩みだした。

 一方,言語問題は,戦後も終始対立がやまず,両地域の対立が内閣を辞任させてきたが,70年の憲法改正によって連邦化の方向が規定された。しかし,その実施,とりわけブリュッセルの扱いをめぐって,77年主要政党間で〈エフモントEgmond協定〉が結ばれたものの,それすら実施に移されないままになっていた。しかし,経済危機を克服するために,ついに1988年,ブリュッセルを両言語同権とする独立地域とすることで連邦化が合意された。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルギー」の意味・わかりやすい解説

ベルギー
べるぎー
Kingdom of Belgium 英語
Koninkrijk België オランダ語
Royaume de Belgique フランス語
Kőnigreich Belgien ドイツ語

北西ヨーロッパの立憲君主国。北海に面し、北部をオランダ、東部をドイツ、南部をルクセンブルク、西部をフランスに接している。面積3万0528平方キロメートル、人口1054万2000(2006年推計)、1075万(2009年推計)。国名は、ローマ時代にこの地に定住していたケルト人の一派ベルガエに由来するといわれる。ヨーロッパの十字路にあたる地理的位置のため、大別すると、北部はゲルマン系民族のフラマン人、南部はラテン系民族のワロン人からなる複合民族国家である。フラマン人はフラマン語、ワロン人はワロン語を用いるが、フラマン語はオランダ語と文法や正書法がほぼ同じであり、またフランス語の一方言であるワロン語も今日ではフランス語に同化されているため、公式にはオランダ語とフランス語が使用言語で、東部のドイツ語とともに公用語となっている。したがって、国名の正称ベルギー王国は、オランダ語でKoninkrijk België、フランス語でRoyaume de Belgique、ドイツ語でKőnigreich Belgienとなる。首都はブリュッセル。

 古くから交通の要地であるが、列強の拡張主義の犠牲となり、帰属がめまぐるしく変化した。今日では、EU(ヨーロッパ連合)およびNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)の原加盟国であり、両組織の本部がブリュッセルに設置されているため、ヨーロッパ統合の中心地となっており、またEUの域外諸国のヨーロッパ進出戦略の要(かなめ)ともなっている。

 国旗は黒、黄、赤の三色旗で、それぞれの色は力、充実、勝利を意味し、1831年ブラバン公の紋章の色から採用された。国歌もブラバン州をたたえる『ラ・ブラバンソンヌ』La Brabançonneである。

[川上多美子]

自然

地形・地質的には、国土は大きく三分される。

(1)北部低地 北海に面する約65キロメートルの海岸には砂丘が発達し、その内側には高度5メートルまでの海岸平野があり、ポルダー(干拓地)地域となっている。さらに内陸には、標高5~50メートルの砂質のフランドル平野が広がる。この平野は北フランスからオランダ南部に連なるもので、北フランスに発するスヘルデ川(スケルデ川)の水系に属する。また平野の東部には標高50~80メートルのケンペン台地があり、台地の南部はケンペン炭田となっている。

(2)中部低位台地 フランドル平野の南につながる標高50~200メートルの波状の起伏のある黄土質の肥沃(ひよく)な地域である。北東フランスに発するサンブル川、ムーズ川(マース川)がこの台地を東西に直線的に切断しており、この河谷には北フランスからドイツのアーヘンに延びる石炭層がある。河谷の南は標高200~350メートルの丘陵地帯で、黄土と砂質土からなる。

(3)アルデンヌ高原 標高500メートル以上のヘルシニア山系片岩質の古期山地で、隆起準平原となっている。東部のボトランジュはこの国の最高点で694メートル。高原の南のベルギー領ロレーヌは標高が300~400メートルとなる。

 西岸海洋性の気候区に属し、偏西風の影響が内陸に広く及ぶ。気温の年較差は少なめであるが、年変異は大きい。年降水量は平野・丘陵部で800ミリメートル、アルデンヌ高原で1200~1500ミリメートル程度。ブリュッセルの平均気温は1月3.1℃、7月17.9℃で、年降水量は823.0ミリメートルである。国土が北緯50度前後に位置するため、冬は日が短くどんよりと薄暗い日が多い季節となる。

[川上多美子]

地誌

フランドル、中部丘陵地帯、アルデンヌ高原の三つに分けられる。

[川上多美子]

フランドル

海岸部は砂丘の耕地化が進み、ポルダーは牧場化されている。オーステンデ、ゼーブルッヘのような海上交通の要地もあり、海浜の保養地域ともなっている。第二次世界大戦後の地域開発政策や1960年代のエネルギー革命の影響で、ベルギー第一の貿易港で第二の人口を抱えるアントウェルペン(アントワープ)の郊外から、運河や高速道路など、交通網の発達した内陸部にかけての地域が発展した。この地域に、アメリカやEU諸国などの外国資本が石油化学、機械組立て、電子機器などの工場を建設し、北海臨海地域の大小工業団地とともに新たな工業地域として、いまでは南部のサンブル・ムーズ河谷にかわってベルギー経済の中心地域となっている。フランドル平野部は土地改良が進み、野菜、花などの園芸作物やジャガイモ、テンサイの栽培、養豚などの小規模集約的混合農業地域である。中世の毛織物工業の伝統がある地域だが、今日ではヘント(ガン)の綿および化学繊維、コルトライクの麻、北西部のじゅうたん製作などの繊維工業は不況に苦しんでいる。東部のケンペン台地はかつてヒースの茂る荒地であったが、20世紀初頭の炭田開発以来、亜鉛などの金属加工業や化学工業が発達した。政府の開発投資もあり、アントウェルペンとリエージュを結ぶアルベール運河沿いに外資系自動車工場などが進出し、発展の目覚ましい地域である。

[川上多美子]

中部丘陵地帯

この国の経済活動の中心部をなしてきた地域である。首都と南南東のシャルルロアを結ぶ線上は、繊維、金属、化学、食品加工の重要な工業地帯をなしている。またもっとも肥沃な土壌地域で、小麦、テンサイの生産や首都近郊では温室園芸がみられる。サンブル・ムーズ河谷は石炭産出と水運に恵まれ、ヨーロッパ大陸最初の産業革命の中心地となった。以来、製鉄、機械、ガラス工業などがリエージュやシャルルロアを中心としてベルギー最大、西ヨーロッパ有数の重工業地域として発達してきた。しかし、1960年代のエネルギー革命による炭鉱の閉山や1970年代の石油危機以降、これら業種の内陸立地の不利化で構造転換を迫られ、不況に苦しんできた。1984年以降、ヨーロッパ委員会やベルギー政府の援助を受け、ワロン地域政府は域内9大学や研究機関と連携する六つのサイエンスパークを創設した。研究開発や投資の奨励、企業への財政補助などにより、IT、バイオ、ナノテクノロジー等の分野で発展し、国際的バイオ企業も進出するようになった。ムーズ河谷南部のコンドロ丘陵地帯は国内でもっとも大規模経営の農業地域で、ライムギや飼料作物栽培が中心である。

[川上多美子]

アルデンヌ高原

高原の約半分は針葉樹林で覆われ、冷涼・湿潤な気候でやせ地のため耕地は少なく、酪農、肉牛飼育、林業地域となっている。地形的に古代より交通・軍事の要衝であるため、中世から18世紀にかけて建設された要塞や貴族の城館が点在している。広大な森や渓谷美、伝統的な郷土料理とあわせ魅力的な観光地となっている。

[川上多美子]

歴史

独立国家としての成立は1831年と新しいが、古い歴史のある地域で、古代にはケルト人の一派が居住していた。ローマ時代には、紀元前57年カエサルに征服され、属州ベルギカとしてローマ化が進み、キリスト教が伝えられた。ローマ帝国の滅亡とともに、ゲルマン人が北部に住むようになってフラマン語を使用し、ロマンス語系の一つワロン語を話す人々は南部に居住するようになった。こうして紀元後4世紀ごろ成立した民族と言語の分布は、ほぼ変化することなく今日に至っている。十字軍をきっかけとして遠隔地貿易が盛んになる12~13世紀には、ワロン人の金属工、フランドルの毛織物工たちがギルドを通じて封建領主らと対抗する実力を得、自治都市が発達し、ハンザ同盟に参加するものも出現した。やがて都市内部、都市と農村の対立などで紛争が続き、フランドルの職工たちはイギリスに移住し、毛織物工業の中心は移動する。14世紀末から15世紀にかけて現在のベルギーの地にフランスのブルゴーニュ公の力が伸びてくる。この支配下で国としてのまとまりの基礎ができたといわれ、経済的、文化的にベルギーの地がもっとも繁栄した時代であった。その後、列強の勢力争いや支配者たちの結婚・相続などの結果、スペイン・オーストリア(ハプスブルク家)の支配を経て、1795年フランス革命政府軍の占領下に入った。ナポレオン1世失脚後のウィーン会議で、ネーデルラント王国の一部としてオランダに併合された。だがオランダ国王ウィレム1世は極端な北部ネーデルラント優先主義の統治をし、また王権の強化がカトリック教会への介入につながることを南部の人々は恐れ、反発が強まっていった。このなかで、フランスに七月革命(1830)が起こるとその影響を受けた市民がブリュッセルで暴動を起こし、工場打ち壊し運動も全国に広まるが、政府にはこれを鎮める力がなく、有産市民軍が治安を回復し、実権を握るに至った。これに対しオランダ国王は武力による鎮圧を試みたため南部の人々は王軍を撃退し、ベルギーの独立を宣言、ドイツのザクセン・コーブルク(サックス・コバーグ)家のレオポルドを国王に迎えた。1831年ロンドン会議で、ベルギーの独立と永世中立が列強によって承認された。オランダが最終取り決めに調印したのは、ようやく1839年になってからである。

 独立後の1840年ごろには、ヨーロッパ大陸で最初に産業革命を達成し、ヨーロッパ有数の工業国となった。1870年代ごろからは、ロシア、エジプト、中国、メキシコなどに、鉄道建設、製鉄工業などで進出した。一方、1885年には、当時の列強の植民地獲得競争のなかで、国王レオポルド2世は個人の資格で本国の約70倍の面積をもつコンゴ自由国(ベルギー領コンゴ、のちにコンゴ共和国、コンゴ民主共和国、ザイール共和国、1997年からコンゴ民主共和国と国名が変化)を領有した。王の植民地経営に問題が生じると、1908年コンゴはベルギー王国に移管され、ソシエテ・ジェネラル銀行や銅・コバルト開発会社ユニオン・ミニエール社(2001年ユミコアに社名変更)などが進出し、1960年のコンゴ共和国(独立時の国名)独立承認まで約半世紀、本国に多くの利益をもたらすこととなった。

 建国時の永世中立政策は二度の世界大戦でドイツ軍に無視された。第二次世界大戦後の1948年には、戦前のルクセンブルクとの関税同盟をベネルックス関税同盟としてさらに発展させた。国内的に民族対立の難題や経済再建の問題を抱えつつも、ECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)、EEC(ヨーロッパ経済共同体)、EC(ヨーロッパ共同体)、EU(ヨーロッパ連合)など一連の西ヨーロッパ統合に積極的役割を果たし、その他の国際機構にも広く参加し、国際協調の道を歩んできた。

[川上多美子]

政治

政治制度は、1831年に制定され数次の改正を経た憲法に基づく立憲君主制であるが、1970年以来、23年間の年月と4回の憲法改正を重ねて、1993年に「共同体と地域からなる連邦国家」となった。国王を元首とする立憲君主制の連邦国家である。国王は1991年の憲法改正で男女による世襲制となり、1993年にアルベール2世が即位した。王は上下両院と権力を分担し、大臣の同意なしには権力の行使ができず、公平なる仲裁人の役割を果たす。

 連邦府は最高15人の大臣からなる。司法制度、通貨政策、財政、社会保障、福祉、軍隊、警察、原子力行政、外交などの権限を有していたが、2001年そのほとんどを地域に移管する法案が成立した。連邦議会は二院制で、下院が上院より強い権限をもつ。下院は普通選挙で直接選出される150人の議員からなる。上院は複雑な構成の71人の議員からなり、言語共同体間の主要な対話の場となっている。フラマン人の要求から成立した言語別の「共同体政府」はオランダ語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体からなる。それぞれの共同体は文化、教育、報道、医療制度(健康保険は除く)などに関する権限をもち、直接選挙による議会と行政府をもつ。またワロン人の要求で成立した「地域政府」はフランデレン、ブリュッセル首都圏、ワロンの三つからなる。地域開発や都市計画、環境保護、雇用、農業、エネルギー政策(原子力を除く)、公共事業などの権限をもつ。フランデレンでは共同体政府と地域政府が合併(フランデレン統合共同体)し、両者に共通の責任をもつ一つの議会と一つの行政府で運営されている。

 政党活動は、フランデレン地域においてはキリスト教民主党、社会党、自由進歩党、フラームス・ベラング(フランダースの利益)などが、ワロン地域では社会党、キリスト教民主党、自由進歩党、環境保護派のエコロなどが、ブリュッセル地域にはこれらの諸政党に加え、仏語派民主戦線がある。

 司法機関は、236の小司法区の治安裁判所、26の第一審裁判所、10の州都の高等巡回裁判所、ブリュッセル、ヘント、リエージュの控訴院、最高機関としての破毀(はき)院から構成されている。

 全国は10州に分かれ、州知事は国王が任命する。州議会は比例代表制によって選出された4年任期の議員で構成される。自治体の最下部に、伝統的に強い自治権をもつコミューヌ(市町村にあたる)があり、かつて2586を数えたが、1977年の合併で589に統合された。

 外交・領事関係を結ぶ各国との協調による安全保障の確保と自国の地位の向上を目ざしており、EUおよびNATO体制を通じて、西ヨーロッパ各国との協力とヨーロッパ統合の推進を重点政策としている。2009年12月、EU新基本条約(リスボン条約)により新設されたEU大統領(ヨーロッパ理事会常任議長)に元首相ファン・ロンパウHerman Van Rompuy(1947― )が就任した。旧植民地のコンゴ民主共和国、旧信託統治地域であったルワンダとブルンジに対しては、独立前後の紛争で困難な関係の時期もあったが、開発のための資金・技術協力、研究・実習奨学資金制度によって強い結び付きを保っている。また近年、アジア新興国も重視する政策をとるようになった。国防の基礎としては、二度の世界大戦で占領された経過から集団安全保障を重視している。フランスからのNATO軍撤退後は、1967年に事務局をブリュッセルに、最高司令部をモンス近郊に迎え、西ヨーロッパ防衛の中心地的役割を担っている。総兵力は約3万8800、うち陸軍1万4300、海軍1600、空軍7300、医療1900、統合軍1万3700(2009)。1994年から徴兵制は廃止された。国連PKOに積極的に参加している。

[川上多美子]

経済・産業

かつて石炭資源に恵まれていたが、産炭コストが高くつくムーズ炭田はECSC加盟後の合理化政策のなかで次々と閉鎖された。エネルギーの外国依存度は76%で、エネルギーの消費構造は石油系40%、ガス36.2%、石炭12.6%、電力そのほかとなっている(2005)。かつて鉄鋼業が工業の中心であったが、エネルギー費の高騰、世界的需要の後退、外国との競合、労働費の高さなどで生産は減退した。主要工業製品は金属製品、機械、食品、化学製品、織物、ガラス、家具、鉄鋼、印刷・出版物などである。第二次産業就業者の割合は23.9%(2006)で、この部門の労働者を中心に失業率も7.0%(2008)と高い。

 国土の約28.7%が農業用地(うち牧場・牧草地17.2%)で、森林は約22.1%である。第一次産業就業者の割合は2.0%(2006)で、国の経済に占める割合は低い。構造改善事業で合理化と経営規模の拡大を奨励してきたが、農業従事者1人当り農地22ヘクタール(2006)で、EU諸国のなかでも中小自営農民が多い国である。だが生産性は高く、食料自給率は約80%。主要生産物はテンサイ、ジャガイモ、豚肉、乳製品、亜麻で、球根、花木の苗などは重要な輸出品となっている。

 貿易は加工貿易型で、国内総生産(GDP)に対する輸出の割合(輸出依存度)は95%、輸入額の割合(輸入依存度)は91%(2007)と世界でもっとも貿易依存度の高い国の一つである。2007年の輸出は4307億7900万ドル、輸入は4131億6300万ドルとなっている。主要輸出品は自動車、医薬品、化学薬品、一般機械、鉄鋼、ダイヤモンドなど、主要輸入品は自動車、医薬品、化学薬品、一般機械、電気機械、ダイヤモンドなどである。とくにダイヤモンド産業はユダヤ人を中心に世界の原石の約70%がアントウェルペンで取引され、開発された高度な技術で研磨されている。貿易相手国はドイツ、オランダ、フランス、イギリスを主とするEU諸国とアメリカである。

 通貨単位はユーロ。GDPは4545億8000万ドル(2007)。財政赤字は1975年以降急増、1999年1月からのヨーロッパ経済通貨同盟(EMU)参加の条件として、財政赤字を国内総生産の3%以下にしなければならず、社会保障費、産業補助金の削減、課税強化などの財政政策を実施してきた。2004~2008年の経済成長率は年平均2.3%であった。

 1835年ブリュッセル―メヘレン(メケレン)間にヨーロッパ大陸初の鉄道が建設された歴史をもち、鉄道網の密度は1950年をピークに世界有数であった。合理化で路線は縮小され、1926年以来国有化されている。またブリュッセルからTGV(テージェーベー)(フランスの超高速列車で、国内外に鉄道網を拡充しつつある)でパリへ約1時間半、英仏海峡トンネルを経由する列車ユーロスターでロンドンへ約2時間20分など、西ヨーロッパ主要都市間の連絡は大変便利である。内陸水路は北のスヘルデ川と南のムーズ川の水系を中心に19世紀末から建設され、内陸工業地帯発展に大きな役割を果たした。総延長1560キロメートル(1984)、うち約20%は1000~1500トンの船が航行可能である。道路網も第二次世界大戦後急速に発達、EUの発展に伴い隣接諸国の主要都市を結ぶ国際高速道路や接続する国内高速道路が拡大している。航空はベルギー政府とスイス航空が資本参加していたサベナ・ベルギー航空が国際線に就航していたが、2001年にスイス航空の経営悪化に伴い破産した。2002年、民間の後継会社SNブリュッセル航空が機材や路線の一部を引き継いで就航した。2007年にSNブリュッセル航空はバージン(ヴァージン)・エキスプレスと合併してブリュッセル航空となった。ヨーロッパ約50都市、アフリカ14都市(2009)に就航している。

[川上多美子]

社会

国民は、北のオランダ語系(フラマン人)57.9%、南のフランス語系(ワロン人)31.8%、首都地域の両語系9.6%、第一次世界大戦後ドイツより割譲された東部のドイツ語系0.7%から構成されている(2003)。人口増加率は北において高く、南は停滞的である。今日ではオランダ語、フランス語、ドイツ語の3言語が公用語とされ、政府出版物は紙幣も含めすべてオランダ語・フランス語両語で表記されている。しかし国家独立時には、憲法上オランダ(フラマン)語、フランス(ワロン)語とも対等に認知されてはいたものの、当時人口数でも経済力でも南部優勢であったので、事実上フランス語が公用語とされた。その後、北部の人々の粘り強いフラマン語の公認化運動があり、1898年オランダ(フラマン)語も公用語とされた。

 その後も言語問題は続き、1950年代から争いが激化した。1963年の言語法による3言語地域の規定を経て、1967~1971年の憲法改正により、オランダ語地域、フランス語地域、ドイツ語地域、首都ブリュッセルの両語地域(ブリュッセルはオランダ語圏に位置するが、首都機能や経済活動上、フランス語系住民が増加している)と、4言語地域の画定が行われた。また国会は各言語地域の文化・教育行政の自治権を、上下両院の議員で構成される各文化評議会に与えた。1968年には、1425年創立のルーフェン(ルーバン)・カトリック大学のフランス語系部門が分離・独立して首都南方のフランス語地域へ移された。さらに1978年には再度の憲法改正が行われ、フランデレン(オランダ語地域)、ワロニー(フランス語地域)、ブリュッセル首都圏の3地域に、より大きな自治権を与えることになった。その後連邦制が1993年に発足し、言語共同体や地域共同体に多くの権限が与えられ、民族対立の解消のためさまざまな努力がなされているが困難をきわめ、政治の不安定が続いている。

 国民の経済的・文化的水準は高いが、1970年代以降は経済不況のなかで伸び悩み、1944年法制化された社会福祉の充実した諸制度も、国家の財政難を受けて見直しが検討された。教育は、1914年以来、6~14歳まで義務教育であったが、1983年に6~18歳に改められた。公立学校とカトリック系を主とする私立学校があり、教育の非宗教化や国家補助をめぐって両者は対立してきたが、1958年から補助は平等化された。中等教育機関は多様化している。高等教育機関には、ヘント、リエージュ、モンス、アントウェルペンなどの国立総合大学と、ルーフェン・カトリック、ブリュッセル自由、アントウェルペンなどの私立総合大学のほかに、多くの国立や私立の単科大学がある。宗教は、国民の約80%がカトリックで、ほかにプロテスタント、ユダヤ教徒、イスラム教徒などがいる。

[川上多美子]

文化

歴史的にオランダやフランスと同一視されることが多いが、ローマ時代からの歴史的風土であるうえ、ラテン、ゲルマン両民族の接点となっているため、両系統の文化が重層をなし、奥深く多様性に富んだものとなっている。国民性は、オランダ語系、フランス語系の区別なく、勤勉で常識を尊重し、自立心が強く、芸術に対する感受性が強い。

 中世には都市が繁栄し、富裕商人や貴族たちが保護者となってファン・アイク、メムリンク、ブリューゲル、ルーベンスなど、いわゆるフランドル派の画家を生み出した。また教会、市役所、同業者組合などの優れた建造物もこの時期にできたものである。科学技術の分野では16世紀の近代解剖学の父といわれるベサリウス、地図学者メルカトルも特筆される。

 独立後の美術分野ではクノップフ、アンソール、デルボー、マグリット、建築ではアール・ヌーボーの父といわれるオルタ、文学ではノーベル文学賞のメーテルリンク、今日世界三大音楽コンクールの一つとされるエリザベート(エリザベト)王妃国際音楽コンクール創設に尽力したエリザベート(エリザベト)皇太后、第二次世界大戦後の難民救済諸事業に対しノーベル平和賞を受けたピール神父らが注目される。

 代表的日刊紙にはオランダ語系、フランス語系の2紙があり、いずれも政党色が強い。そのほかドイツ語紙が1紙と郷土色をよくあらわす地方紙も多く発行されている。テレビ・ラジオ放送は国営放送が中心であるが、1977年以降3言語地域で分離独立し、各言語による放送が行われている。

[川上多美子]

日本との関係

日本とベルギーとの国交は、1866年(慶応2)の修好通商航海条約締結から始まったが、両国関係が緊密化するのは第二次世界大戦後のことである。EC発足以来、日本の自動車などの機械メーカーや商社が対ヨーロッパ戦略の要(かなめ)として進出し、152社(2008)が活動している。両国間の貿易額は双方にとっての重要性は少ないが、ベルギーから日本への輸出は2273億6000万円に対し、日本からの輸入は9293億4700万円であり(2007)、ベルギーの大幅な輸入超過となっている。日本の主要輸出品は一般機械、電気機器、乗用車、自動車部品など、ベルギーからの主要輸入品は医薬品、ダイヤモンド、電気機器、食品(チョコレート、ビール)、有機化合物などである。

[川上多美子]

『今来陸郎編『世界各国史7 中欧史』(1971・山川出版社)』『木内信藏編『世界地理7 ヨーロッパⅡ』(1977・朝倉書店)』『花見忠、J・デャモイエ著『ベルギー日系企業の労使関係』(1979・日本労働協会)』『栗原福也著『世界現代史21 ベネルクス現代史』(1982・山川出版社)』『日本貿易振興会編・刊『貿易市場シリーズ260 ベルギー』(1985)』『C・スィヤール著、谷昌親訳『ベルギーの美術』(1985・同朋舎出版)』『磯見辰典、黒沢文貴、桜井良樹著『日本・ベルギー関係史』(1989・白水社)』『森洋子著『ブリューゲルの「子供の遊戯」』(1989・未来社)』『宮下南緒子著『晴れた日のベルギー』(1994・丸善)』『栗原福也監修『オランダ・ベルギー』(1995・新潮社)』『ジョルジュ・アンリ・デュモン著、村上直久訳『ベルギー史』(1997・白水社)』『玉井美子・篠利幸著『ベルギーの小さな旅』(1997・東京書籍)』『下条美智彦著『ベネルクス三国の行政文化 オランダ・ベルギー・ルクセンブルク』(1998・早稲田大学出版部)』『森田安一編『スイス・ベネルクス史 新版世界各国史14』(1998・山川出版社)』『山田雅彦著『中世フランドル都市の生成 在地社会と商品流通』(2001・ミネルヴァ書房)』『A・フルヒュルスト著、森本芳樹、藤本太美子、森貴子訳『中世都市の形成 北西ヨーロッパ』(2001・岩波書店)』『アンドレ・ジョリス著、瀬原義生監訳、守山記生他訳『地域からみたヨーロッパ中世 中世ベルギーの都市・商業・心性』(2004・ミネルヴァ書房)』『小島健著『欧州建設とベルギー 統合の社会経済史的研究』(2007・日本経済評論社)』


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百科事典マイペディア 「ベルギー」の意味・わかりやすい解説

ベルギー

◎正式名称−ベルギー王国Royaume de Belgique/Kingdom of Belgium。◎面積−3万528km2。◎人口−1104万人(2012)。◎首都−ブリュッセルBruxelles(114万人,2012,大都市域人口)。◎住民−ゲルマン系フラマン人57%,ラテン系ワロン人32%,ドイツ人。◎宗教−カトリック90%。◎言語−フラマン語(オランダ語系),ワロン語(フランス語系),ドイツ語(以上,公用語)。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−国王,フィリップPhilippe(1960年生れ,2013年7月即位)。◎首相−シャルル・ミシェルCharles Michel(2011年10月就任)。◎憲法−1831年制定,1993年改正(連邦制採用)。◎国会−二院制。上院(定員71,うち40は直接選挙,任期4年),下院(定員150,任期4年)。(2015)◎GDP−4976億ドル(2008)。◎1人当りGDP−3万8600ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−1.7%(2001,ルクセンブルクを含む)。◎平均寿命−男77.2歳,女82.4歳(2009)。◎乳児死亡率−3.8‰(2008)。◎識字率−100%。    *    *ヨーロッパ北西部の王国。北はオランダ,東はドイツ,ルクセンブルク,南西はフランスに接し,北西は北海に面する。ムーズ川を境に南東部は標高約500mのアルデンヌ山地が占め,中部,北西部は丘陵,低地。北西部はスヘルデ川流域で,台地はレスにおおわれる。北海岸には砂丘列があり,海面下の低湿地もみられる。気候は緯度のわりに温暖な西岸海洋性気候。ブリュッセルを境に北部ではゲルマン系のフラマン人がフラマン語(オランダ語系)を話し,南部ではラテン系のワロン人がワロン語(フランス語系)を話すが,両者の間では〈言語戦争〉が絶えない。〔歴史〕 古くフランク王国の一部で,中世にはドイツ・フランスの支配下に,近代にはハプスブルク家(オーストリア,スペイン)の支配下に置かれた。1815年オランダに併合されたが,独立運動の結果1831年立憲君主国として独立,永世中立を保障された。第1次大戦後中立を廃棄。第2次大戦後アフリカの植民地コンゴ(現コンゴ民主共和国)を失った。1993年の憲法改正により,フラマン,ワロン,ブリュッセル首都圏の各地域政府,およびフラマン語,ワロン語,ドイツ語の各言語共同体からなる連邦制に移行した。1949年北大西洋条約機構(NATO)に加盟し,1957年EECに発足当初から加盟。首都ブリュッセルにはNATOやEUの事務局が置かれている。〔産業・経済〕 中世以来羊毛を原料とする毛織物や麻織物の生産が盛んで,現在でも西欧における繊維工業の一中心。石炭が豊富で,鉄鋼,機械,化学,ガラス,冶金などの工業も行われ,石油化学工業,電子工業の発達もめざましい。国土の約50%が農業用地で,小麦,大麦,テンサイなどの産があるが,牛,羊,豚の畜産が主で,食糧のかなりの部分を輸入に依存する。地理的な位置に恵まれ,EU諸国をはじめ各国貿易の一中心で,中継貿易が盛ん。社会保障制度は発達している。1999年ユーロ圏始動に参加した。ブリュッセルやアントワープには多数の外国人労働者が流入している。〔政治〕 2010年,ギリシア財政危機に端を発する,欧州信用不安,ユーロ危機ソブリンリスクは,財政不安を抱えるベルギーにも波及,2011年,格付け会社によるベルギー国債の格付けは軒並み下げられた。失業率が高く,貿易依存度の高いベルギーは,財政再建を急がれている。2010年の総選挙以来,オランダ語圏とフランス語圏の対立を背景とする少数党が乱立するベルギーでは暫定政権が続いたが,2011年12月ワロン系社会党のエリオ・ディルポが連立をまとめ首相に就任した。フランス語圏出身者の首相は32年ぶりである。ディルポ政権は,連立合意に基づいて,年金改革や失業手当改革などを実施,財政赤字の削減に尽力する一方,連立合意の枠を超えて,2012年7月に景気回復戦略を発表している。しかし,欧州債務問題が深刻化するなか,2012年は通年でマイナス成長となっている。2013年7月の建国記念日にアルベール2世は退位し,長男のフィリップが即位した。2014年5月の連邦議会選挙では,フラマン語圏ではフランドル地域の自立を目指す新フランドル同盟(N-VA)が,ワロン語圏では社会党(PS)が勝利した。10月11日,連邦議会選挙で第1党となった新フランドル同盟及び,ワロン語系自由党,フラマン語系自由党,フラマン語系キリスト教政党の計4党の連立による政権が発足した。首相には,4党間協議の結果,ワロン語系自由党党首シャルル・ミシェルが,38歳史上最年少で首相に就任。財政再建とともに経済競争力を重視する中道右派による経済・社会政策の実施をめざす。
→関連項目アントワープオリンピック(1920年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベルギー」の意味・わかりやすい解説

ベルギー
Belgium

正式名称 ベルギー王国 Royaume de Belgique(フランス語); Koninkrijk België(オランダ語)。
面積 3万528km2
人口 1158万5000(2021推計)。
首都 ブリュッセル

ヨーロッパ北西部にある国。北はオランダ,東はドイツ,南東部はルクセンブルク,南はフランスに接する。北海に面した北西部のフランドル地方は,干拓地と砂丘からなる平地で,内陸部に向かうにつれて徐々に高度を増し,南部のアルデンヌ高原など中位山地へと移行する。中世にはフランドル地方を中心に商業地として栄えたが,その後ブルゴーニュ公国,続いてハプスブルク家の支配下に置かれ,1815年のウィーン会議の結果,オランダに併合された。1830年に独立を宣言,立憲君主国となった。ドイツとフランスの中間にあり,低平で回廊的地勢をもつため,ナポレオン時代のワーテルローの会戦や第1次世界大戦,第2次世界大戦の戦場となった。気候は沿岸部の温暖湿潤から内陸部の冷涼へと変化し,降水量は年間 750~1000mmと比較的多い。天候の変化が著しいのが特徴。国民は約 60%がキリスト教のカトリック。南東部にドイツ語を話す人々が少数(約 1%)いるが,おおまかに分ければ,南部にはフランス語(→ワロニー方言)を話すワロン人(約 35%),北部にはオランダ語(→フラマン語)を話すフラマン人(約 55%)が住む。公用語はフランス語,オランダ語,ドイツ語。フランス語とオランダ語の使用地域は国のほぼ中央で南北に分けられるが,オランダ語地域のなかの首都ブリュッセルは併用地域で,フランス語が優勢。北西部のヘントを中心とするフランドル地方には中世以来の繊維工業地帯がある。南部には 19世紀以降,炭田と鉄鉱石資源に基礎をおいた重工業地帯が発達したが,20世紀後半にはほとんどの炭田が閉鎖された。リエージュを中心とする各都市でガラス,鉄および金属製品,化学,電機などの工業が発達。近年は,アントウェルペンを中心に,オランダに近い北部で石油精製,化学,金属などの工業の発展がめざましい。アントウェルペンはダイヤモンドの研磨で世界的に有名。農業は酪農と畜産が中心。1944年以降,ルクセンブルク,オランダとベネルックス関税同盟の条約を結ぶなど,ヨーロッパ連合 EUの基礎となる地域経済の統合をはかった。EUと北大西洋条約機構 NATOの原加盟国であり,ブリュッセルには EUと NATOの本部が置かれている。(→ベルギー史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ベルギー」の解説

ベルギー
Belgie[オランダ],Belgium[英],Belgique[フランス]

国名はローマの征服以前にこの地に住んでいたベルガエ族に由来。ゲルマン,ラテン両民族の接点に位置し,ヨーロッパの中軸という地理的条件からしばしば列強の争奪戦の舞台となった。中世においては多くの伯領,公領があったが,フランデレン毛織物工業が栄え,ブリュッヘのような国際商業都市が現れた。14世紀末以降,ブルゴーニュ家とそのあとをついでハプスブルク家が相続,婚姻などを通じて統合を図り,16世紀にカール5世のときにハプスブルク家の主権のもとに属することになった。その支配に対して北部の7州はオランダ独立戦争に立ち上がり,1648年独立を達成したが,カトリックの強かった南部の諸州はスペイン,その後はオーストリアのもとに留まった。18世紀末,フランス革命の影響もあって独立の機運が高まったが,1815年ウィーン会議の結果オランダに併合された。1830年ベルギーとして独立,翌年独立が国際的に認められ,立憲君主国となり,ヨーロッパ有数の工業国の地位を占めるようになった。20世紀には2度の世界大戦においてドイツの侵入を受けた。戦後ヨーロッパ統合の中心的役割を果たしたが,国内においてはフラマン語地域とワロン語地域間での言語戦争が続いたため,1993年から連邦制がとられた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ベルギー」の解説

ベルギー
België

フランスの北東部,北海に面する立憲君主国。首都ブリュッセル
ベルギーの名は帝政ローマ時代からあったが,連続して使用されたのではない。中世〜近世ではフランドル,またはネーデルラントと称された。この国に関する最古の記録は『ガリア戦記』で,ローマ帝国時代には属州ガリアの一部であった。ゲルマン人の移動によりフランク王国領,9世紀後半からフランドル伯領となった。12〜13世紀から毛織物工業と国際商業が栄え,ブリュージュ・ガンなどの自由都市が発達した。イギリス・フランス間の百年戦争も,この地方の経済力の支配権争いが原因の一つであった。14世紀後半ブルゴーニュ公国領,15世紀後半にはハプスブルク家領になり,スペイン−ハプスブルク家の成立とともにスペイン領になり,ネーデルラントの南部10州を構成,オランダの独立後もスペイン領にとどまったが,スペイン継承戦争によりオーストリア領に移った。フランス革命・ナポレオン戦争ではフランスに占領され,ウィーン会議の結果,オランダに併合された。1830年フランスの七月革命の影響下に独立を宣言してレオポルド1世を迎え,31年ロンドン条約で独立が承認され,39年永世中立国になった。独立後,産業革命により工業が発展,労働運動も起こり,政治も民主化して,1913年に普通選挙が実現した。また海外植民にのり出し,コンゴを獲得。第一次・第二次の両世界大戦ではドイツに侵略され,中立を侵害された。大戦後は北大西洋条約機構(NATO)に加わり,ヨーロッパ共同体(EC)の中核的存在となり,ヨーロッパ連合に参加。オランダ・ルクセンブルクとともにベネルクス3国と呼ばれる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ベルギー」の解説

ベルギー

北西ヨーロッパに位置する国。漢字表記は白耳義。中世まではフランドル,オランダとあわせてネーデルラントとよばれ,1830年オランダの支配から独立,永世中立を宣言した。日本との外交関係は1866年(慶応2)締結の日白修好通商航海条約に始まる。翌年江戸幕府の正式な使節として徳川昭武が訪問。73年(明治6)には岩倉遣欧使節団が訪問し,ヨーロッパの模範国と高く評価。日本銀行の設立や帝国憲法の制定などに影響を与えている。関東大震災時には米・英につぐ援助金を送るなど親日的で,とくにベルギー王室と日本の皇室との交際は親密である。第1次・第2次大戦ではドイツに侵略されたが,戦後はNATOやEC,ついでEUに加盟。正式国名はベルギー王国。立憲君主制。首都ブリュッセル。

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世界大百科事典(旧版)内のベルギーの言及

【オランダ】より

…16世紀後半の建国以来ホラント州(現在の南・北ホラント両州)がこの国の政治,経済,文化の中心であったため,〈ホラントHolland〉とも呼ばれる。東は西ドイツ,南はベルギーと国境を接し,北と西は北海に面して長い海岸線を形づくる。国名のネーデルラントは〈低い国〉の意で,現在も国土の約4分の1は標高0m以下にある。…

【フラマン語】より

…ベルギー王国の北半分で話されるオランダ語の通称。ベルギーにおけるフランス語と並ぶ公用語であり,約550万人(1977)により使用される。…

【ベルガエ】より

…また,ベルガエの一部は前75年ころおよびカエサルのガリア征服の際,イングランド南部に渡り,カトゥウェラウニ族Catuvellauniを中心にローマのブリタニア侵略に抵抗した。なお現在の国名ベルギーはこの語に由来する。【後藤 篤子】。…

※「ベルギー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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