スウェーデンの化学者。リンチョーピングに生まれる。父はこの地の学校長。幼時に両親を失い、養父に育てられた。苦学しながらウプサラ大学医学部を卒業し、1802年ガルバニズム(動物電気)の医学への応用をテーマに、学位を得た。1807年ストックホルム外科学校の医学薬学教授となったが、1810年に外科学校が独立してカロリンスカ医学研究所となると、彼は新設の化学薬学教授の職についた。1808年スウェーデン科学アカデミー会員となる。1832年に教授を辞任、1835年に結婚し、男爵となった。
初期のガルバニズムへの興味から電気化学を学んだ彼は、デービーに先駆けて1803年鉱山王ヒシンイェルWilhelm Hisinger(1766―1852)とともに、塩の電気分解を行った。彼は電解現象から、すべての化合物は正負の部分に分けられるという結論を引き出し、この観点で化学を体系化しようと試みた。そして1819年『化学結合論』を出版して、電気化学と原子論を結び付けた理論、電気的二元論を完成した。この考えは、のちにデュマによって否定されるまで、化学界に広く受け入れられた。この理論化の過程で、ドルトンの原子論を知った彼は、ただちにその意義を認め、結合重量の研究を系統的に行い、1818年までに、当時知られていた49の元素のうち四つを残して原子量を決定し、鉱物から有機化合物に至る物質中の元素の結合法則を探った。また1811年には、分子の組成を構成元素の頭文字と数で示す表記法を提案し、近代化学表記法の基礎を定めた。スウェーデン化学の伝統を受け継いだ彼は、吹管分析の技術に優れ、それを応用して1803年にセリウム、1817年にセレン、1828年にトリウムを発見した。また、有機物を原子論的に扱うことにも関心をもち、有機分析を行い、有機物にも結合法則が適用されることを発見した。胆汁、血液、排泄(はいせつ)物などの天然物を分析し、有機物の分析装置を改良している。そのほか、異性現象(1827)、触媒(1835)などの概念も導入している。
彼の実験的研究は化学のあらゆる分野にわたり、報告文の数は200を超した。塩素の元素性の否認などの大きな誤りも犯したが、彼の知識は広範で、ヨーロッパ各地から集まる多くの優秀な学生を育てた。なかでもウェーラーが有名である。94の学会の名誉会員に推された彼は、当時のヨーロッパ化学界の中心的存在であった。
[藤田千枝]
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