ベルリンローマ枢軸(読み)ベルリンローマスウジク

デジタル大辞泉 「ベルリンローマ枢軸」の意味・読み・例文・類語

ベルリンローマ‐すうじく〔‐スウヂク〕【ベルリンローマ枢軸】

1936年、ナチス‐ドイツとファシストイタリアとの間に成立した提携・協力体制。のち、日独伊三国同盟へと発展ムッソリーニが「両国枢軸としてヨーロッパ国際関係は転回する」と述べたことによる。

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精選版 日本国語大辞典 「ベルリンローマ枢軸」の意味・読み・例文・類語

ベルリンローマ‐すうじく‥スウヂク【ベルリンローマ枢軸】

  1. ( ローマはRoma ) ナチス‐ドイツとファシスト‐イタリアの協力体制。一九三六年一〇月、両国の外交上の協調を約する議定書が調印され、この関係をムッソリーニが枢軸と呼んだのに由来する。のちに日独伊防共協定、日独伊三国同盟に拡大

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改訂新版 世界大百科事典 「ベルリンローマ枢軸」の意味・わかりやすい解説

ベルリン・ローマ枢軸 (ベルリンローマすうじく)

1936年11月1日,イタリアの独裁者ムッソリーニはミラノで演説して,〈ローマとベルリンとの垂直線障壁ではなく枢軸である〉と語り,そのときからベルリン・ローマ枢軸という語は,ドイツとイタリアという二つのファシズム国家の提携関係を指すのに広く用いられるようになった。もともとナチス政権出現後も,ドイツとイタリアの関係は,オーストリアの独立保障をめぐって対立していた。しかし1935年10月のイタリアのエチオピア侵略を機に,両国の接近が進んだ。国際的非離の矢面に立たされたイタリアにとって,既存の国際秩序の破壊に踏み切っていたドイツの存在は有利な条件であった。こうしてイタリアは,オーストリア政策をドイツ側に有利に修正し,36年7月スペイン内乱が勃発すると,ドイツとともに反政府側を支持して共同で介入するにいたった。もっともベルリン・ローマ枢軸は,イデオロギーや政治的利害の違いによって,最後まで全面的協力関係には発展しなかった。
第2次世界大戦
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