プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の治下,フィヒテ,シェリング,K.W.vonフンボルト,シュテフェンスらの提言に基づき,1810年にベルリンに創設された大学。正称はフリードリヒ・ウィルヘルム大学Friedrich-Wilhelms-Universitätだったが,第2次大戦後東ドイツの管轄下におかれ,フンボルト大学Humboldt-Universitätと改称された。初代学長はフィヒテであった。神学,法学,医学,哲学という伝統的学部構成をとっていたが,哲学部はもはや旧来のように他学部の下請機関ではなく,大学の中心的学部と考えられた。哲学を基礎科学とし,研究と教育を統一するという新しい理念に立脚したベルリン大学は,世界の大学の模範とされるに至った。ナチス政権の下で農学部を設け,さらに哲学部を文学部と理学部に分割させた。戦後は史的・弁証法的唯物論に立脚した研究教育を展開してきたが,1990年のドイツ統合以降,マルクス・レーニン主義を基礎とした哲学,法学,教育学などを教えていた多くの教授が追放された。1996年現在,法学,医学,数学・自然科学,哲学など14の〈部門〉(研究教育を行う基礎組織)から成っている。教師数約2000,学生数3万1000。
なお,旧西ベルリン地域には,かつてのベルリン大学の教師や学生を母体として,1948年,ダーレム地区にベルリン自由大学Freie Universität zu Berlinが開設された。当初医学,法学,経済,文学,理学,獣医学の6学部制をとっていたが,96年現在,医学,法学,教育,哲学・社会科学など17の〈部門〉から成っている。民主的な大学運営をめざし,1968年前後の大学紛争以前から学生が大学運営に参加していた。教師数約3500,学生数約5万。
執筆者:別府 昭郎
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1810年,プロイセン改革の一環としてフンボルト(兄)によって創立された新時代の大学。「研究と教育の一致」を掲げてフィヒテやサヴィニーなど有力な学者を教授に迎え,その研究・教育上の発展によってドイツや世界の大学に多大な影響を及ぼした。第二次世界大戦後東ドイツに属してフンボルト大学と改称,現在に至っている。
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…18世紀後半になるとこの傾向はフランス,ドイツの大学で決定的になった。こうして生まれた近代大学の一つの典型が,19世紀初めのドイツのベルリン大学である。それは神学部を頂点にすえていた学部構成を改めて,それまで〈神学の僕(しもべ)〉とみられていた哲学を大学の中心に置き(哲学部の優位),これに法学,医学などの諸学部を配するものであった。…
…この経済的自由主義が,ドイツ連邦内でのプロイセンのヘゲモニーへの志向と結びつくところに,1834年のドイツ関税同盟が生まれたのである。 この時期のドイツにはロマン主義の高揚が見られたが,ベルリンは18~19世紀のかわり目以来ロマン主義文学の一中心をなし,ケーニヒスベルク大学のカントに始まるドイツ観念論哲学も,ベルリン大学(1810創立)の講壇から,フィヒテ,ヘーゲルらによって市民層の間にひろめられた。さらに同大学は,ランケの活動を通じてドイツ歴史学の発展に指導的な役割を果たすこととなる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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