ベルリン大学(読み)ベルリンダイガク

デジタル大辞泉 「ベルリン大学」の意味・読み・例文・類語

ベルリン‐だいがく【ベルリン大学】

ベルリンにある国立大学。1809年プロイセン国王フリードリヒ=ウィルヘルム3世の勅令により、フンボルトらが設立。初代学長はフィヒテ大学自治制度を実現し、近代の大学のモデルとされた。第二次大戦後、ドイツ民主共和国東ドイツ)政府の管理下にフンボルト大学改称。一方、多くの教授や学生が西ベルリンに移り、1948年ベルリン自由大学開校。1990年の東西ドイツ統一後も両校とも別個に存続している。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ベルリン大学」の意味・読み・例文・類語

ベルリン‐だいがく【ベルリン大学】

  1. ベルリンにある国立大学。一八一〇年開校。国王ウィルヘルム三世の勅令によりシュライエルマッハーの大学論に基づきフンボルトが立案、創設。初代学長はフィヒテ。教授と研究の自由、哲学による諸科学の有機的統一、教授会を中心とした大学自治制度を実現、近代の大学の模範となった。第二次世界大戦後、東ベルリン地区に位置したためにドイツ民主共和国のもとでフンボルト大学と改称。多数の教授・学生が西ベルリンに移り、一九四八年ベルリン自由大学を開設した。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ベルリン大学」の意味・わかりやすい解説

ベルリン大学 (ベルリンだいがく)

プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の治下,フィヒテ,シェリング,K.W.vonフンボルト,シュテフェンスらの提言に基づき,1810年にベルリンに創設された大学。正称はフリードリヒ・ウィルヘルム大学Friedrich-Wilhelms-Universitätだったが,第2次大戦後東ドイツの管轄下におかれ,フンボルト大学Humboldt-Universitätと改称された。初代学長はフィヒテであった。神学,法学,医学,哲学という伝統的学部構成をとっていたが,哲学部はもはや旧来のように他学部の下請機関ではなく,大学の中心的学部と考えられた。哲学を基礎科学とし,研究と教育を統一するという新しい理念に立脚したベルリン大学は,世界の大学の模範とされるに至った。ナチス政権の下で農学部を設け,さらに哲学部を文学部理学部に分割させた。戦後は史的・弁証法的唯物論に立脚した研究教育を展開してきたが,1990年のドイツ統合以降,マルクス・レーニン主義を基礎とした哲学,法学,教育学などを教えていた多くの教授が追放された。1996年現在,法学,医学,数学・自然科学,哲学など14の〈部門〉(研究教育を行う基礎組織)から成っている。教師数約2000,学生数3万1000。

 なお,旧西ベルリン地域には,かつてのベルリン大学の教師や学生を母体として,1948年,ダーレム地区にベルリン自由大学Freie Universität zu Berlinが開設された。当初医学,法学,経済,文学,理学,獣医学の6学部制をとっていたが,96年現在,医学,法学,教育,哲学・社会科学など17の〈部門〉から成っている。民主的な大学運営をめざし,1968年前後の大学紛争以前から学生が大学運営に参加していた。教師数約3500,学生数約5万。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ベルリン大学」の意味・わかりやすい解説

ベルリン大学【ベルリンだいがく】

近世大学の典型となったドイツの代表的総合大学。1809年プロイセンの首都ベルリンに国王の命を受けてW.vonフンボルトらが創設。初代学長はフィヒテ。その〈教授と研究の自由〉の理念は世界の諸大学にも影響を与えた。第2次大戦後,東ドイツの大学となり,フンボルト大学と改称。1995年現在,14学部。これに対し西ドイツは1948年西ベルリンにベルリン自由大学を新設,当初は学部制だったが,1995年現在22部門で構成。現在は2つの大学が並立している。
→関連項目ベルリンレヴィン

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ベルリン大学」の解説

ベルリン大学(ベルリンだいがく)

1810年,プロイセン改革の一環としてフンボルト(兄)によって創立された新時代の大学。「研究と教育の一致」を掲げてフィヒテサヴィニーなど有力な学者を教授に迎え,その研究・教育上の発展によってドイツや世界の大学に多大な影響を及ぼした。第二次世界大戦後東ドイツに属してフンボルト大学と改称,現在に至っている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ベルリン大学」の解説

ベルリン大学
ベルリンだいがく

1810年,フンボルトらによって設立された大学
プロイセンのシュタイン−ハルデンベルクの改革の一環として開校。哲学を中核とする学問の統合をめざし,やがてその名声は広く世界に認められた。初代総長フィヒテ。第二次世界大戦後は,東ドイツの治下にフンボルト大学として再出発し,西ベルリン地区にはベルリン自由大学が設立された。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のベルリン大学の言及

【大学】より

…18世紀後半になるとこの傾向はフランス,ドイツの大学で決定的になった。こうして生まれた近代大学の一つの典型が,19世紀初めのドイツのベルリン大学である。それは神学部を頂点にすえていた学部構成を改めて,それまで〈神学の僕(しもべ)〉とみられていた哲学を大学の中心に置き(哲学部の優位),これに法学,医学などの諸学部を配するものであった。…

【プロイセン】より

…この経済的自由主義が,ドイツ連邦内でのプロイセンのヘゲモニーへの志向と結びつくところに,1834年のドイツ関税同盟が生まれたのである。 この時期のドイツにはロマン主義の高揚が見られたが,ベルリンは18~19世紀のかわり目以来ロマン主義文学の一中心をなし,ケーニヒスベルク大学のカントに始まるドイツ観念論哲学も,ベルリン大学(1810創立)の講壇から,フィヒテ,ヘーゲルらによって市民層の間にひろめられた。さらに同大学は,ランケの活動を通じてドイツ歴史学の発展に指導的な役割を果たすこととなる。…

※「ベルリン大学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ゲリラ豪雨

突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...

ゲリラ豪雨の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android