改訂新版 世界大百科事典 「ベルリン」の意味・わかりやすい解説
ベルリン
Berlin
ドイツ連邦共和国の首都。ドイツ東部,シュプレー川河畔に位置し,およそ750年の歴史をもつドイツ最大の都市。プロイセン王国(1701成立)の王都から,1871年にはドイツ帝国の首都となり,引き続きワイマール共和国,ナチス〈第三帝国〉時代にも首都の地位にあった。第2次世界大戦後は,冷戦体制のもと,東西二つの都市に引き裂かれ,東ベルリンはドイツ民主共和国(東ドイツ)の首都,西ベルリンはドイツ連邦共和国(西ドイツ)の事実上の一州であったが,1990年10月のドイツ再統一に際して東西ベルリンも統一され,統一ドイツの首都となった。市の総面積は約883km2(旧西ベルリン480km2,旧東ベルリン403km2)で,そのうち約44%は森林,湖,河川などで占められている。人口は339万(2002)。行政上は一州をなし,旧東ドイツのブランデンブルク州と統合の計画があったが,96年住民投票で東側の反対により否決された。標高74mほどの平地に位置し,また海洋性気候と大陸性気候の接点にあたるため,気候は比較的温和(7月の月間平均気温18℃,1月の月間平均気温-0.6℃)である。
歴史
19世紀後半以降,ドイツの政治,経済,文化の中心となるベルリンは,18世紀以前には人口3万にも満たないブランデンブルクの一地方都市にすぎなかった。1800年時点でも,ベルリンは,プロイセンの王都として人口17万を数え,文化都市としての性格を有していたものの,住民の20%以上が軍人およびその家族で占められるという〈兵営都市〉の性格を脱却してはいなかった。ベルリンの発展は19世紀以降のドイツ帝国形成史と軌を一にしており,工業の発展は人口の集中を生み,20世紀初頭には200万人を擁する大都市となる。反面,近代的大都市への急激な変貌は,城壁や市壁に囲まれた伝統的都市構造の改造や都市行政の変革にも影をおとし,伝統と近代の混在する独特の都市構造を生み出した。さらに,ユグノーを受け入れユダヤ人にも寛容であったという歴史的経緯もあって,ベルリンは諸文化のるつぼともなり,ワイマール時代に典型的にみられるようなコスモポリタン的な文化が形成された。こうした〈世界都市〉的性格が,東西に分裂したのちも,ドイツ第一の都市としてのベルリンの地位を支えたといえよう。
交易都市から宮廷都市へ
現在のベルリンの起源となるベルリンとケルンKölln(アルト・ケルン)という二つの町が歴史上初めて文献に登場するのは,1237年および44年のことである。マクデブルクやライプチヒからオーデル川へ抜ける通商路のシュプレー川渡河点に位置する両市は,軍事的色彩の強いシュパンダウSpandauやケペニックKöpenick(1912年にベルリンに合併)とは異なり,商品集積地として発展をとげ,1307年に司法,行政面で一体化するとともに,59年ハンザ同盟に加入し,ブランデンブルクの最重要都市となった。続く15世紀には両市の自治権は,市民の抵抗(〈ベルリンの不満〉と呼ばれる1448年の蜂起)にもかかわらず,ブランデンブルク選帝侯国を支配するに至ったホーエンツォレルン家によって奪い取られるが,15世紀末以降になるとベルリン・ケルンは選帝侯の居城都市として,宮廷を中心にした交易をてこに新たな発展を始める。しかしそれも長くは続かず,1539年に始まる宗教改革,16世紀後半のペストの流行(住民数8000程度であった両市で1576年に4000,98年には3000の死者),さらに直接の戦場にはならなかったものの三十年戦争などの影響を受け,両市は長い沈滞期を迎えた。
この沈滞に終止符を打ったのは,ベルリン生れの大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640-88)であった。彼は1658年から85年にかけ,ベルリンとケルン,および1667年に市となったフリードリヒスウェルダーFriedrichswerderを囲む城壁を築き,これを城塞化するとともに,濠の外にウンター・デン・リンデンUnter den Linden通り(1647敷設)をはさむドロテーンDorotheen市を建設し,さらに,のちにベルリンの中心街となるフリードリヒFriedrich市の建設にも着手した。また新教を保護したため,フランスを去った20万人のユグノーのうち6000人がベルリン(1685年の人口は1万7500)に移住し,繊維産業をはじめ商工業の発展に大きく貢献した。
プロイセン王国の王都
1701年プロイセン王国が成立し,ブランデンブルクは同君連合の関係にあったプロイセンに統合され,ベルリン,ケルンおよび新興の3市は,09年にプロイセンの王都として一つの都市(ベルリン)に合併された。フリードリヒ・ウィルヘルム1世(在位1713-40)時代には,ルイーゼン市区,シュトララウ街,フリードリヒ・ウィルヘルム市区がこれに加わり,有名無実化した城壁は取り壊され,35年に入市税徴収,兵の逃亡防止を目的とした周囲およそ15kmの市壁が新たに築かれた。
続くフリードリヒ2世(フリードリヒ大王。在位1740-86)のもとでベルリンは,啓蒙絶対主義国家プロイセンの王都として,軍事・官僚都市としてばかりでなく,繊維を中心にした産業都市,さらにはフランス啓蒙主義の強い影響を受けた文化都市として大きな発展をとげた。その結果1758年に9万2000余であった人口は86年には14万7000に増えるが,それは同時に,当時世界で最も美しい都市の一つといわれた市壁内のベルリンと,北のローゼンタール門,ハンブルク門,南のシュレジエン門,コトブス門の外に広がる市外区との対照的な発展の開始,すなわち社会問題の登場をも意味していた。
18世紀末から19世紀初めにかけベルリンは,科学アカデミー(1700設立)の会員にA.vonフンボルト,ゲーテ,フィヒテを迎え,しだいにフランス文化の影響を脱しつつあった。ドイツ古典主義の誕生を告げるといわれるブランデンブルク門が造られたのもこの時代(1791完成)である。1806年,ナポレオンはこのブランデンブルク門からベルリンに入り,11月21日,有名な大陸封鎖令を宣言,ベルリンは以後2年間にわたりフランス軍の占領下におかれた。この占領期およびその直後のベルリンは,フィヒテの連続講演《ドイツ国民に告ぐ》(1806-07)やF.L.ヤーンによる体操場の設置(1809年,市郊外のハーゼンハイデ)などを通じて,ドイツ国民意識高揚の中心地の一つとなり,1810年にはドイツ再建の精神的支柱とすべく,K.W.vonフンボルトの尽力によってベルリン大学が設立された。このベルリン大学では19世紀前半には,A.vonフンボルト,グリム兄弟,ヘーゲル,ランケが教えるなどドイツのアカデミズムの新しい中心となり,1836-41年にはマルクスも学んでいる。
工業化の開始と近代都市建設
1808年,一連の〈プロイセン改革〉立法の一つとして発布された〈都市条令〉により,ベルリンも市議会,市参事会を中心とする自治権をもつに至るが,市行政の整備は進まず,1800年の17万から50年の42万へという急激な人口増加は,ベルリンに48年革命へとつながる大きな社会問題をつきつけることとなる。すなわちベルリンは,1830年代にようやく本格化するドイツの工業化過程のなかで,鉄道交通網の中心点となり,手工業都市としての性格を残しながらも,機械工業,既製服産業などの新たな産業部門をてこにドイツの中心的工業都市としての発展を開始する。しかし当面,この産業発展のテンポを上回る大量の流入人口が,都市問題を激化させることとなったのである。そしてそのなかから,すでに18世紀にその端緒のみられた近代ベルリンの基本的な都市構造が明確な姿を現してくる。
まず市壁内では,王宮の置かれたアルト・ケルンの西側のフリードリヒ市区が官庁街,貴族やユグノーらの上層市民の居住区となり,南のルイーゼン市区や1841年に新たにベルリン市に併合されたケーニヒ市区には,小売商人,中小の工場主層が多く集まった。これに対し市壁の外では,フリードリヒ市区に隣接するフリードリヒ市外区,シェーネベルク市外区などがしだいに富裕な市民たちの居住区という性格を強め,これらを除いた他の地域は,新たな工場の立地点,それにともなう労働者居住区となっていく。とりわけオラニエンブルク市外区(1841年に市に併合),モアビート(1861年に市に併合)には金属,機械工場,リックスドルフには繊維産業が進出し,また北のハンブルク門,ローゼンタール門の外を中心に貧民街が形成されていった。
1848年の革命(48年革命)は,こうした首都および工業都市という二つの性格を併せもつ近代都市ベルリンの形成途上で生じた。3月18~19日のいわゆる〈ベルリン三月革命〉は,ベルリン・ケルンという旧市街とフリードリヒ市区のほぼ北半分をプロイセン軍が支配し,これを市民層の消極的支援を得た民衆(中心は手工業的熟練をもった労働者)がほぼ完全に掌握しえた北,東,南の市区や市外区がとり囲むという形で戦われ,民衆側の勝利に帰した。その後ベルリンでは,プロイセン国民議会(5月22日~12月5日),労働者会議(8月23日~9月3日),第2回民主主義者会議(10月26~30日)が相次いで開かれ,ベルリンはドイツにおける民主主義者の活動,さらには労働者運動の中心地となるが,11月の反革命の勝利とともに政治的反動期を迎える。
しかし,1850年代からビスマルクによるドイツ帝国建設(1871)に至る時期は,人口膨張を続けるベルリン(1850年の約42万から71年には約83万へ)の,近代都市としての整備の時期でもあった。鉄道路線に沿って市域が拡大する一方,消防・警察制度の整備,上下水道の敷設(上水道は1856年に供水開始,下水道は73年に着工),市内道路の市有道路化と舗装,街灯の設置(1850年ごろにはすでにガス灯化),市壁の撤去(1865)とそれにともなう市内交通の整備などの事業が行われた。1839年に運行を開始した馬車バスは70年には40路線に拡大し,71年には環状路線が開通した。81年には最初の市電が走り,1902年には地下鉄が開通,これらの都市改造によって中世以来の諸都市の複合体であったベルリンは単一の近代都市としての姿を整えていく。
ドイツ帝国の帝都
ドイツ帝国時代(1871-1918)のベルリンは,官僚・軍事機構の強化により帝都としての性格を強める一方,文化や科学の領域でも多くの人材を引き寄せた。文学ではフォンターネ,ハウプトマン,画家のメンツェル,さらにはベルリンの庶民生活を描き続けたツィレHeinrich Zille(1858-1929)やK.コルビッツ,科学者としては医学のフィルヒョー,コッホ,物理学のプランク,アインシュタイン,そして企業家としてはジーメンス,ラーテナウなどの名を挙げることができる。
これと並んでベルリンは,産業都市としても,従来の産業部門に電気工業,化学工業,出版業などを加え,またドイツの中心的金融都市として発展を続け,1875年に約96万を数えた人口は,1910年には207万に達する。しかしそのなかで,1840年代に顕在化した都市問題は解決されないまま,より先鋭化していった。すなわち,工業の発展にともない市郊外にジーメンス・シュタットのような新たな工場町が建設される一方,富裕な市民は同じ郊外でも西部および南西部へと流出を続け,工業都市ベルリンが吸収した労働者たちは,〈赤いベルリン〉と呼ばれるようになる旧市内や市北部の〈安アパート地区〉に堆積を続けたのである。こうした状況を背景に,ベルリンは1860年代に本格化するドイツ労働運動の中心地ともなり,77年に2名の社会民主党員を帝国議会議員に選出したのを皮切りに,1912年の帝国議会選挙ではベルリンの総投票数の4分の3が社会民主党に投じられた。
黄金の20年代と世界都市ベルリン
19世紀末にベルリンでは,拡大した都市圏を統合する大ベルリン化の構想が俎上にのせられるが,市財政上の問題もさることながら,自治権の喪失や,〈赤い〉したがって貧しいベルリン市と合併することによって生じる租税負担の急増を恐れた郊外諸地域の抵抗にあい,この構想は部分的成果(1912)をあげるにとどまった。大ベルリンが成立したのは第1次大戦の敗戦とワイマール共和国成立(1918)後の,1920年である。この大ベルリンには8市,59町村,27私領区が併合されたが,シュパンダウのように今日までベルリンとは異なる独自性を主張する地域も多い。大ベルリン化により人口386万人を擁するに至ったベルリンは,ワイマール共和国の首都として東ヨーロッパからの大量の亡命者,移民を迎え入れ,ドイツ戦後経済の復興とともに文字どおりの〈世界都市〉として〈黄金の20年代〉を迎える。
この時代のベルリンは〈ワイマール文化〉の中心地として,クレンペラー,B.ワルター,フルトウェングラー,ヒンデミット,シェーンベルクらの活躍した音楽界や演劇(ブレヒトの《三文オペラ》は1928年ベルリンで初演)などの部門のみならず,映画やキャバレーなどの通俗文化においても活況を呈し,クーアフュルステンダムKurfürstendamm周辺(旧西ベルリンの目抜き通り)が映画館,カフェ,キャバレーの集まる新たな繁華街となった。しかしこの繁栄も長続きはせず,世界恐慌のなかの1932年にはベルリンだけで60万人を超える失業者を数えた。翌33年1月30日,ヒトラーが帝国宰相に任命されると,ベルリンではこれを祝う〈ナチス突撃隊〉のたいまつ行進がブランデンブルク門周辺で盛大に行われた。同年2月末の帝国議会議事堂の炎上事件などを利用してヒトラー政権は一党支配への道を進むが,これに抵抗するものとしてベルリンでは,同年9月にM.ニーメラーを中心に国家への服従を拒否する〈告白教会〉が組織された。ヒトラー政権は1936年のベルリン・オリンピックを頂点とする絶頂期ののち,39年に第2次大戦に突入,45年5月の終戦までに,たび重なる爆撃と砲火にさらされたベルリンの人口は,435万から280万に減少し,市内の全建造物の5分の1が完全に破壊された。
ベルリンの東西分裂
第2次大戦の終了にともない,ドイツはアメリカ,イギリス,フランス,ソ連の4ヵ国の占領下におかれ,ソ連占領区内に位置した大ベルリンは,1945年7月11日,これら4ヵ国の占領区に分割され,市行政も4ヵ国による共同管理下におかれた。しかしこの状態は,占領政策をめぐる西側3国とソ連の対立により長続きはせず,ソ連は48年3月にドイツ管理理事会を脱退し,ドイツの西側占領地区で通貨改革が実行に移されるや,同年6月24日,ベルリン封鎖(西側占領地区からベルリンへの陸上交通路の封鎖)を開始した。西側3国はこれに対しアメリカを中心に食糧などの空輸で対抗,ベルリンは東西間の〈冷戦〉の焦点となった。
この封鎖は翌49年5月に解除されるが,この間にソ連占領下の東ベルリンと西側3国占領下の西ベルリンの分裂は決定的なものとなった。そして同年10月,ドイツ民主共和国の成立にともない,東ベルリンはその首都と宣言された。53年6月17日,東ベルリンでは〈労働ノルマ〉強化への反発に端を発した大規模な反政府暴動が起こるが,東西ベルリン間の交通はその後も依然自由であり,若年労働者を中心に東から西への亡命が相次ぎ,東ドイツ経済を大きく脅かした。このため61年8月12日から13日にかけ,東ドイツ政府は〈ベルリンの壁〉の構築を開始,東西ベルリンの交通を完全に遮断した。
総延長156kmに及ぶ壁により陸の孤島と化した西ベルリンの地位は,69年に自由民主党との連立内閣の首相となった社会民主党のブラント(1957-66,西ベルリン市長)の下で進められた一連の〈東方外交〉により,ようやく安定したものとなった。すなわち71年9月3日に調印されたソ連をも含むベルリン四ヵ国協定により,ベルリンをめぐる東西両陣営の対立は一応終止符を打ち,西ドイツと西ベルリンおよび東西ベルリン間の交通も保障された。また西ベルリンは西ドイツ政府の統治は受けられないものの,外交をはじめ政治,経済その他の領域では西ドイツとの統合が進み,他方東ベルリンの地位は,1968年のドイツ民主共和国憲法第1条においてその首都と明記された。
戦後の西ベルリンの特徴として,二つの総合大学(ベルリン自由大学(1948年設立,96年の学生数5万)。ベルリン工科大学(1799年設立,1946年総合大学となる。学生数3万7300))や芸術大学など多くの単科大学を有するドイツ最大の学生都市となったことがあげられる。1967年以降の学生運動の世界的広がりのなかで西ベルリンは主導的な役割を果たし,西ドイツにおける反核,女性解放,住宅占拠など,さまざまな運動の中心地の一つとなった。また西ベルリンは,政府や市の積極的な援助により,音楽,演劇,博物館などの文化面においても,西ドイツのなかで依然重要な位置を占めていた。
他方,東ベルリンは西ベルリンとは対照的に,政治,経済,文化面において首都としての性格を保持し,かつての王宮跡には〈共和国宮〉が建てられ,東ドイツの国会にあたる人民議会が開かれた。
1989年11月9日,民主化運動が高揚するなかで,東西ベルリンを隔てていた壁が開放され,翌90年のドイツ統一へと歴史は急展開した。91年統一ドイツの首都に復帰した。
執筆者:川越 修
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報