ペブスナー(Nikolaus Bernhard Leon Pevsner)(読み)ぺぶすなー(英語表記)Pevsner, Sir Nikolaus

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ペブスナー(Nikolaus Bernhard Leon Pevsner)
ぺぶすなー
Nikolaus Bernhard Leon Pevsner
(1902―1983)

ドイツ生まれのイギリスの美術史家、建築史家、建築批評家ライプツィヒに生まれる。実家は富裕な毛皮商。郷里の聖トマス学校、ライプツィヒ大学で学んだ後、ミュンヘンベルリンフランクフルトの各大学で美術史家ハインリヒ・ウェルフリン、アドルフ・ゴルトシュミットAdolph Goldschmidt(1863―1944)、ルドルフ・カウチュRudolf Kautzsch(1868―1945)に学ぶ。郷里に戻り、1924年ライプツィヒ大学でライプツィヒのバロック建築に関する論文を提出して学位を取得。ドレスデン絵画館の学芸員助手、ゲッティンゲン大学の美術史・建築史の私講師を経て、33年(35年説もある)イギリスに渡る。44年から69年までロンドン大学バークベック・カレッジの美術史の教授を務めるかたわら、49年から55年までケンブリッジ大学のスレイド美術講座(フェリックス・スレイドFelix Slade(1790―1868)が提供した資金によってオックスフォードケンブリッジ、ロンドンの各大学に設けられた美術の講座)教授、68年から69年までオックスフォード大学のスレイド美術講座教授(1869年、最初にこのポストについたのがジョン・ラスキン)を兼任した。63年にアメリカ、エール大学のヘンリー・エリアス・ハウランド記念賞、67年にRIBA(英国王立建築家協会)のロイヤル・ゴールド・メダルを受賞したのをはじめ多くの賞・名誉学位を受けている。69年ナイトに叙爵。

 1925年に「反動宗教改革とマニエリスム」という最初の論文を発表し、28年に最初の単行本『ライプツィヒのバロックLeipziger Barokを刊行して以来、『近代運動のパイオニアたち』Pioneers of the Movement from William Morris to Walter Gropius(1936。1949年にPioneers of Modern Design from William Morris to Walter Gropiusに改題増補、邦訳『モダン・デザインの展開』)、『英国のインダストリアル・アート研究』An Enquiry into Industrial Art in England(1937)、『美術アカデミーの歴史』Academies of Art, Past and Present(1940)、『ヨーロッパ建築序説』An Outline of European Architecture(1942)、『ハイ・ビクトリアン・デザイン』High Victorian Design(1951)、『英国美術の英国性』The Englishness of English Art(1951)、『モダン・デザインの源泉The Sources of Modern Architecture and Design(1962)、『美術・建築・デザインの研究』Studies in Art, Architecture and Design(1968)、『19世紀の建築著作家』Some Architectural Writers of the Nineteenth Century(1972)、『ビルディング・タイプの歴史』A History of Building Types(1976)などの多数の著書半世紀にわたって刊行しつづけた。

 アカデミックな経歴の一方で、1941年から45年まで(顧問としては75年まで)『アーキテクチュラル・レビュー』Architectural Review誌の編集に関わり、ピーター・ドナーPeter F. R. Donnerの筆名で自身多くの建築批評記事を書いた。また学術的信頼性のきわめて高いペリカン美術史叢書の創立編集者であり、51年から74年まで46巻を刊行した「英国の建築」The Buildings of England叢書の編者、書き手でもあった。その他『世界建築事典』A Dictionary of Architecture(1966)、『反合理主義者たち』The Anti-Rationalists(1973)を編集・執筆するなど、編集者・批評家としても活躍した。

 ワルター・グロピウスとバウハウスを中心に据えた近代建築運動のイデオローグとしての言論活動に対して一定の批判もあるが、研究対象は近代にとどまらずマニエリスム、バロックから広く19世紀に及んでおり、その著作の量と影響力は20世紀最大の建築史家の名に値する。

[吉田鋼市]

『小林文次ほか訳『ヨーロッパ建築序説』(1954、新訳版1989・彰国社)』『白石博三訳『モダン・デザインの展開』(1957・みすず書房)』『中森義宗・内藤秀雄訳『美術アカデミーの歴史』(1974・中央大学出版部)』『小野二郎訳『モダン・デザインの源泉』(1976・美術出版社)』『鈴木博之・鈴木杜幾子訳『美術・建築・デザインの研究』1・2(1980・鹿島出版会)』『友部直・蛭川久康訳『英国美術の英国性』(1981・岩崎美術社)』『鈴木博之訳『ラスキンとヴィオレ・ル・デュク』(1990・中央公論美術出版)』『Leipziger Barock; Die Baukunst der Barockzeit in Leipzig (1928, Jess, Dresden)』『An Enquiry into Industrial Art in England (1937, Macmillan, New York)』『High Victorian Design (1951, Architectural Press, London)』『Some Architectural Writers of the Nineteenth Century (1972, Clarendon Press, Oxford)』『A History of Building Types (1976, Princeton University Press, Princeton)』『N・ペヴスナー、J・M・リチャーズ編、香山壽夫・武沢秀一・日野水信編訳『反合理主義者たち』(1976・鹿島出版会)』『ニコラウス・ペヴスナーほか著、鈴木博之監訳『世界建築事典』(1984・鹿島出版会)』『Nikolaus Pevsner ed.The Buildings of England 1~46 (1951~74, Penguin Books, Harmondsworth )』


ペブスナー(Antoine Pevsner)
ぺぶすなー
Antoine Pevsner
(1886―1962)

ロシア出身のフランスの彫刻家。オリョール生まれで、本名はNatan Abramovich Pevzner。キエフ(現、キーウ)の美術学校で学び、1911年パリへ出かけ、アルキペンコ、モディリアニと親交を結ぶ。1917年モスクワに戻り、マレービチ、タトリンらの構成主義運動に共鳴、1920年最初の個展を街頭で開く。1923年にパリへ亡命。1927年弟のナウム・ガボとともにディアギレフのバレエ団のために舞台装置を担当。1930年フランス国籍を得、「抽象=創造(アプストラクシオン・クレアシオン)」などに参加して、ガボとともにヨーロッパにおける構成主義の代表的彫刻家と目された。『展開された円柱』(1942、ニューヨーク近代美術館)、『力学的構成』(1947、パリ国立近代美術館)などの代表作がある。

[木村 浩]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

ペブスナー
Pevsner, Sir Nikolaus

[生]1902.1.30. ライプチヒ
[没]1983.8.18. ロンドン
ドイツ生れのイギリスの美術史家,建築史家。ドレスデン国立美術館に勤務,ゲッティンゲン大学の講師となったが,ナチスの圧迫により 1934年にイギリスに渡り,のちにケンブリッジ大学およびロンドン大学の美術史教授。ペンギン書店の『ペリカン美術史』 Pelican History of Artシリーズや『アーキテクチュラル・レビュー』 Architectural Review誌編集委員,寄稿者の一人。主著『モダンデザインの展開』 Pioneers of Modern Design (1936) ,『ヨーロッパ建築概観』 An Outline of European Architecture (43以後,改訂版多数) ,『美術・建築・デザインの研究』 Studies in Art,Architecture and Design (68) ,『各種建造物の歴史』A History of Building Types (76) 。

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改訂新版 世界大百科事典 の解説

ペブスナー
Antoine Pevsner
生没年:1886-1962

ロシア出身の彫刻家。オリョール生れ。最初絵画を学び,パリにも旅行したが,革命後弟のガボの影響を受けて彫刻を制作。1920年生産芸術派に反対してガボの書いた〈リアリズム宣言〉に署名するが,22年ベルリンのロシア美術展に際して出国,翌年パリに定住,以後金属によるダイナミックな構成の抽象彫刻を制作,ガボとともに西欧構成主義の代表作家となる。32年〈抽象・創造(アプストラクシヨン・クレアヨン)〉グループに参加する。
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百科事典マイペディア の解説

ペブスナー

ロシア出身のフランスの彫刻家。オリョール生れ。ガボの兄。画家を志し,キエフ,ペテルブルグの美術学校で学んだのち1911年パリに出て,キュビスムにふれる。1915年第1次大戦のため帰国の途中,オスロでガボと再会,その影響で彫刻に転じ,以後ともに構成主義を推進した。1923年からパリに定住,1930年フランスに帰化。1932年アプストラクシヨン・クレアシヨンに参加した。

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世界大百科事典(旧版)内のペブスナー(Nikolaus Bernhard Leon Pevsner)の言及

【構成主義】より

…同年ロドチェンコらは,社会主義国家建設に際して芸術の果たすべき役割は直接生産活動に参加することだとして生産主義芸術proizvodstvennoe iskusstvoを唱えた。これに同意できなかったA.ペブスナーN.ガボの兄弟はフランスとドイツに亡命し,生涯構成主義の彫刻を作り続けた。生産主義的構成主義者は芸術技術者としていすやランプなどの実用品,ポスター,舞台装置のデザイン,写真などを手がけ,なかにはリシツキーのようにロシアのほかドイツやスイスで活躍した人もいる。…

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