翻訳|Persian
インド・ヨーロッパ語族,イラン語派の西部グループに属する言語で,イランの公用語および主要な文学語として,イラン国内の諸方言の中で政治的・文化的に最も重要な位置を占める。ペルシア語を母語とする人口は,イラン内部で1700万~1800万(1976)とされ,イランの外でも,アラブ諸国,カフカス地方および中央アジアに,ペルシア語の話者が存在する。またアフガニスタンでは,イラン東部のペルシア語方言ないしは中央アジアのタジク語ときわめて近い言語が話されており(1976年現在350万人),パシュト語に次ぐ有力な地位を占めている。
ペルシア語の歴史は,アラブによるササン朝ペルシアの征服(651)とイランのイスラム化に始まる。この政治的変動を契機に,ササン朝の公用語であり,当時の国教であったゾロアスター教の宗教用語であった中期ペルシア語(後に一般にパフラビー(パフラビー語)と呼ばれる)は,書かれた言語としての支持基盤を失った。新しい体制のもとで,イラン人が官職に就き,また学問・芸術の諸分野で活動するためには,アラビア語を習得する必要に迫られた。イスラム期の最高の哲学者,科学者の中に,イブン・シーナー(アビセンナ),ビールーニーをはじめとする多くのイラン人を数えることができるのもこのためである。一方で,話された言語としての,ササン朝末期の中期ペルシア語(ダリーと呼ばれる)は,そのまま一般民衆に用いられつづけた。このダリーを基礎に,次の時代のペルシア語が成立したのである。
書かれた言語としてのペルシア語の復興は,9~10世紀に,イラン東北部ホラーサーン地方から始まった。この地方では,アラビア語の勢力が西南イランほど強くなかったこと,またバグダードのカリフから事実上独立した,サーマーン朝,ガズナ朝などの有力な国家が成立したことが,その背景にある。ついでペルシア語は,オクサス川(アム・ダリヤ)以北の中央アジア地域にも浸透し,アラビア語と並んで公用語として用いられるにいたった。10世紀以後,このような国家の君主の保護のもとに,まずルーダキーやフィルドゥーシーのような大詩人,ついで多くの科学者,哲学者,歴史家がペルシア語で文筆活動を展開し,古典ペルシア語の時代が始まった。この古典ペルシア語の文学作品の権威が,イラン全土で文学語としてのペルシア語を受け入れさせる最大の力となったのである。古典ペルシア語の最良の作品は,ほぼモンゴル時代(13世紀)ないしはそれ以前に集中し,ニザーミー,サーディー,ハーフィズらの大詩人を数えるが,ペルシア語自体は,それ以後も今日までとだえることなく,イラン,中央アジアのペルシア語地域のみならず,その周辺地域でも文学語として用いられつづけている。その発生の地は,イラン西南部パールサ(ファールス)地方でありながら,現代ペルシア語に多くの北方(パルティア語)的要素,および多少の中央アジア(ソグド語)的要素が借用語として含まれるのも,文学語としてのこのような成立の事情による。
言語としての現代にいたるペルシア語は,中期ペルシア語の直接の継続である。表面上の大きな差異は,アラビア文字の採用とアラビア語からの大量の借用語の流入であるといえる。後者は宗教を含む知的活動の全領域にわたり,その役割は日本語における漢語,英語におけるラテン系の語彙に等しい。現代ペルシア語と中央アジアのタジク語はともに古典ペルシア語を基礎として成立しており,古典ペルシア語と現代ペルシア語の差は多少の音韻的単純化にほとんど限られ,文法的にはほぼ等しいといえる。
現代ペルシア語の文法組織は,隣接するアラビア語や,英語以外の現代ヨーロッパのほとんどの言語と比べても,はるかに単純である。名詞の文法的性の区別はなく,複数形も規則的な複数語尾(接尾辞)一つをつければよい。格変化もなく,格関係は前置詞または後置詞で表される。冠詞は存在しないが,定・不定の関係を表現することはできる。動詞の活用組織は,現在語幹と過去語幹の二つを区別し,これに全活用に共通の人称語尾(一・二・三人称,単・複数)を付加する。現在と過去以外の時制や能動に対する受動などを表すには助動詞を用いる。名詞,形容詞,前置詞などと,いくつかの基本的な意味をもつ動詞が結合して,数多くの複合動詞が形成されることも,ペルシア語の特徴の一つである。語順に関しては,動詞は特別の場合以外は文末に位置し,形容詞は結合辞をはさんで名詞に後置される。同じ結合辞が所有関係の表現にも用いられ,所有者は被所有者に後置される。関係節は先行詞に後置される。
このような比較的単純な文法組織が,ペルシア語を,イスラム世界の東部,特に中央アジアにおいて,文明語として普及させるのに助けとなったことは疑いない。それと同時に,アラビア語系の語彙がペルシア語の表現力を格段に増して,文化のあらゆる領域で用いられるのにふさわしい言語としてのペルシア語の生命力を支えていることも,まぎれもない事実である。
執筆者:熊本 裕
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派のうち西南イラン語に属する言語で、イランの国語、公用語。歴史的には古代・中世・近世ペルシア語からなるが、一般にペルシア語は、7世紀なかばから今日に至るイスラム時代のペルシア語を意味する。
古代ペルシア語はアケメネス朝(前6~前4世紀)諸王の碑文を刻むのに用いられた言語で、楔形(くさびがた)文字で書かれ、ダリウス大王のビーストゥーン(ベヒスタン)碑文やペルセポリス碑文で名高い。インド・ヨーロッパ語の特色である屈折性を有し、数、性、格ともかなり複雑である。
中世ペルシア語は紀元前4世紀からイスラム期に至る言語で、アルサケス朝、ササン朝の公用語で、とくにササン朝時代にはパフラビー語ともよばれた。ゾロアスター教関係の文献が多く、セム系アラム文字で表記され、ササン朝滅亡後も紀元後9世紀ごろまで一部で用いられた。一文字多音、史的記法、訓読語詞などのためにきわめて難解な言語である。
近世ペルシア語(単にペルシア語)は中世ペルシア語を母体として成立し、アラビア文字28字にペルシア語の音を表す四字を加えて、計32文字で表記され、アラビア語からの借用語が多い。7世紀なかばにイスラム・アラブ軍に征服、支配されて、約2世紀間イランの公用語にはアラビア語が用いられ、この間に近世ペルシアが成立し、主として話しことばとして用いられた。9世紀にイラン系民族王朝が樹立されると、ペルシア語はしだいに文学語として用いられ始め、10世紀にサーマーン朝が樹立され、民族文化復興政策をとった結果、ペルシア語は詩と散文の両分野において完全に基礎を確立した。古代ペルシア語から中世ペルシア語への移行の場合に、すでに文法はかなり簡素化したが、イスラム期において近世ペルシア語はいっそう文法、発音の面で容易になり、イランの文化発展に伴い、中世においてはイランだけでなく、東は北インド、アフガニスタン、西はトルコ、北は中央アジアにわたる広大な地域で公用語、学術語として用いられ、イスラム世界においてアラビア語に次ぐ重要な地位を占めた。10世紀から15世紀末に至る間にペルシア語はもっとも輝かしい時代を迎え、詩においては幾多の大詩人が輩出し、散文においても歴史、地理、伝記などに多くの優れた作品が執筆された。「東洋のフランス語」としても知られるこの甘美な言語は、西欧の東洋学者の研究対象となって久しく、わが国でもいくつかの大学で教育、研究が行われている。
なお、アフガニスタンではダリー語とよばれ、同国の公用語の一つである。
[黒柳恒男]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
インド・イラン語族に属するイラン民族の言語。古代ペルシア語,アヴェスター語,中世ペルシア語をへて近代ペルシア語が成立。7世紀にイランがアラブに征服されイスラーム化して以後,パフラヴィー文字はすたれてアラビア文字が使用された。きわめて多くのアラビア語彙を借用している。中世インド・イスラーム王朝でも公用語として用いられた。10世紀から15世紀にかけて,幾多の優れたペルシア語の詩が生まれた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
※「ペルシア語」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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