ホトトギス

百科事典マイペディア 「ホトトギス」の意味・わかりやすい解説

ホトトギス

俳句雑誌。1897年1月正岡子規の門弟柳原極堂松山で発行。1898年10月子規が東京に移し高浜虚子を発行人とし,河東碧梧桐内藤鳴雪佐藤紅緑寒川鼠骨らが活躍,《日本》派俳句の拠点となった。子規没後は名実ともに虚子継承写生文興隆とともに一時は文芸誌の観を呈し,夏目漱石伊藤左千夫長塚節鈴木三重吉寺田寅彦らが執筆。やがて俳句誌に復し,新傾向派に対抗して守旧派の立場をとり,村上鬼城前田普羅飯田蛇笏渡辺水巴らが輩出。虚子は客観写生による花鳥諷詠を唱道した。大正末には水原秋桜子山口誓子,阿波野青畝,高野素十の〈4S時代〉を現出。さらに,加藤楸邨中村草田男石田波郷の人間探求派が輩出。1959年虚子没後は長男年尾〔1900-1979〕が主宰,その没後は年尾の二女稲畑汀子(いなはたていこ)〔1931-〕が主宰している。
→関連項目馬酔木小川芋銭花鳥諷詠富安風生野上弥生子俳句日野草城松根東洋城

ホトトギス

本州(関東以東)〜九州の山中やぶなどにはえるユリ科多年草。茎は長さ80cm内外,長い粗毛があり,しばしば崖などからたれ下がってはえる。葉は狭長楕円形で長さ8〜15cm,基部は柄がなくて茎を抱く。夏〜秋,葉腋に径3〜4cmの花を少数束生,上向きに開く。6枚の花被片は白色で,濃紫色の斑(ふ)があり,ホトトギス(鳥)の胸毛の斑点に似るのでこの名がある。花柱は三つに分かれ,先が2裂する。近縁ヤマジノホトトギスは茎に下を向く毛があり,花は茎の上方にだけ数個つき,花被片の基部の斑が大きい。ヤマホトトギスは茎に短毛がはえ,花は茎頂および上部の葉腋の花柄上に数個ずつつき,花被片は下半部が急に開く。キバナノホトトギスは暖地の林内にはえ,花は葉腋に少数ずつつき,黄色で濃紫斑がある。チャボホトトギスは前種に似るが,高さ15cm以内,葉には濃緑色の斑紋がある。山中の林にはえるタマガワホトトギスは花が茎頂および上部の葉腋から出る花柄に少数つき,花被片は黄色で斜上する。ジョウロウホトトギスは茎が強く曲がってたれ下がり,黄色の花を下向きに半開する。いずれも山草として植えられる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホトトギス」の意味・わかりやすい解説

ホトトギス
Cuculus poliocephalus; lesser cuckoo

カッコウ目カッコウ科。全長 28cm。日本産のカッコウ類 4種のなかではいちばん小型である。背面はツツドリと同様のねずみ色で,尾羽は黒く先端と羽軸の上に小白斑が点在する。喉と上胸は灰色,下胸以下は白く,黒ずんだ色の横斑がある。雌には赤色型もある。ヒマラヤ地方から中国南部,東アジア,ウスリー地方に繁殖分布し,アフリカ南部や南アジアに渡って越冬する。日本には 5月上旬に夏鳥(→渡り鳥)として渡来し,山麓から亜高山帯の開けた森林に生息する。雄は「てっぺんかけたか」と聞こえる大きな声で昼夜を問わずによく鳴き,このため初夏の風物として多くの和歌,俳句,物語に詠み込まれている。托卵相手はおもにウグイスミソサザイだが,クロツグミセンダイムシクイなどに托卵することもある。

ホトトギス
Tricyrtis hirta

ユリ科の多年草で,北海道を除く日本各地の山地に広く分布する。ときに観賞用として栽培されることもある。茎は高さ 50~80cmとなり,葉とともにあらい毛が目立つ。葉は長さ 10~15cmの長楕円形で先はとがり,基部は鞘のように茎を抱く。夏の終りから秋に,茎頂と上部の葉腋に短い柄のある花を2~3個ずつつける。花被片は6枚あって白色,内面に紫色の斑点があり美しい。6本のおしべと,先が3本に分れためしべがあり,幾何学的な構造をしている。この属の植物には背が低く,葉腋に1個ずつの花をつけるヤマジノホトトギスT. affinis,枝分れした花序に数個の花をつけるヤマホトトギスT. macropoda,黄色に紫点のある花をつけるタマガワホトトギスT. latifoliaなどがあり,いずれも観賞用に植えることもある。

ホトトギス

俳句雑誌。 1897年1月創刊。正岡子規を中心に,四国松山で柳原極堂が創刊したものを翌 98年 10月東京に移し,高浜虚子が主宰刊行した。 1902年子規が没し虚子が主導者となったが,06年頃から夏目漱石の『吾輩は猫である』を掲載するなど文芸誌に変貌した観を呈した。 12年頃から雑詠欄を復活して俳句誌に戻り,河東 (かわひがし) 碧梧桐らの自由律俳句運動に対峙,「花鳥諷詠」の写生句を標榜し,多くの俊秀を相次いで育てた。

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世界大百科事典 第2版 「ホトトギス」の意味・わかりやすい解説

ほととぎす【ホトトギス】

俳句雑誌。松山の俳句団体松風会を母体とし,正岡子規を指導者として,1897年1月に創刊。翌年10月東京に移して高浜虚子が経営。俳句とともに,文章にも力を注いだ。文章では,子規の枕頭で〈山会〉と名付けた文章会も開き写生文を推進した。1902年の子規没後,虚子と河東碧梧桐の対立が誌上で表面化したが,碧梧桐が同誌から遠ざかり,虚子は小説に力を注いだ。小説誌の方向をたどる契機は,直接には夏目漱石の《吾輩は猫である》(1905)を掲載し好評を博したことで,以後,伊藤左千夫の《野菊の墓》(1906),鈴木三重吉の《千鳥》(1906),虚子の《風流懺法》(1907)など同派の作や,ほかに森鷗外の作品も載せ,同時代の自然主義文学と別趣の世界を見せた。

ホトトギス【toad lily】

ユリ科の多年草(イラスト)。白地に紫斑のある花を咲かせ,この斑点が鳥のホトトギスの胸の斑紋に似ていることから和名が付いた。茎は高さ50~80cm,多くは崖縁などに垂れ下がるように生育する。葉は互生し,長楕円形から披針形で,先端はやや細長く伸び,長さ10~15cm,基部は茎を抱く。一般に茎と葉に斜め上向きの毛が多い。10月上~中旬,葉腋(ようえき)に1~数個の花を上向きにつける。花被片の長さは約3cm,外花被片の基部は膨らんで,中にみつを分泌する。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ホトトギス」の解説

ホトトギス

俳句雑誌。1897年(明治30)1月創刊。松山市のほととぎす発行所刊,正岡子規の友人柳原極堂(きょくどう)が発行兼編集人。98年10月から高浜虚子(きょし)が引き継ぎ東京で発行,俳句革新運動の中軸をなした。日本派の拠点となる一方で,子規の文章会(山会(やまかい))で評価された写生文など,俳句以外の作品も積極的に掲載した。子規没後,夏目漱石「吾輩は猫である」を連載したのをはじめ,伊藤左千夫「野菊の墓」など小説の掲載が増加した。大正期に入り,俳句重視の姿勢を鮮明にし,渡辺水巴(すいは)・飯田蛇笏(だこつ)・原石鼎(せきてい)・前田普羅(ふら)・長谷川かな女らを輩出。昭和期には4Sとよばれた水原秋桜子(しゅうおうし)・山口誓子・阿波野青畝(せいほ)・高野素十(すじゅう)や,日野草城(そうじょう)・松本たかし・中村草田男(くさたお)・中村汀女(ていじょ)・星野立子らが活躍。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ホトトギス」の解説

ホトトギス

明治期以来の俳句雑誌
1897年,子規派の俳誌として松山で創刊され,翌年東京に移されて以来高浜虚子が編集。一時虚子は小説に熱を入れ,夏目漱石たち余裕派の作品を掲載。虚子の俳句復帰後,俳壇の中心勢力となり幾多の俊秀を輩出した。1959年虚子没後,子の年尾が主宰し,年尾没後は孫の稲畑汀子が継承,'80年1000号に達し,現在も刊行中。

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