翻訳|Ho Chi Minh
ベトナム民主共和国初代大統領、ベトナム労働党中央委員会主席。ベトナム民族解放の最高指導者で、国民から「ホーおじさん」と敬愛された。伝統的に愛国運動の盛んな中部ベトナム、ゲアン省の貧しい儒者の第3子として生まれる。幼名グエン・シン・クン、のちグエン・タト・タイン。
13歳のとき「自由・平等・博愛」の語を通じてフランスへの知識欲に目覚める。1905~1910年ユエのコクホク大学で学ぶ。1911年バーと名のりフランス船のコックとなり、欧米、アフリカ各地で被抑圧人民の惨状に接し、植民地解放の使命感を固めた。1917~1923年のフランス滞在中にグエン・アイ・コックの名で社会主義運動に参加。1919年のベルサイユ会議にベトナム人民の自決などを求める8項目要求を提出し、一躍その名を高めた。新設コミンテルンを率いるレーニンの「民族・植民地問題に関するテーゼ」に深い感銘を受け、1920年フランス共産党創設に参加、一愛国主義者から共産主義者に脱皮した。翌1921年フランス植民地人民連盟を組織し、機関紙『ル・パリア』(賤民(せんみん))の刊行にあたった。1923年ソ連入り、1924年コミンテルン第5回大会でプロレタリア革命と植民地革命の同盟関係を強調して注目を浴びた。同年コミンテルンから中国に派遣され、まず広東(カントン)でベトナム青年革命同志会を結成、ついで1930年に九竜(きゅうりゅう)でベトナム共産党(その後インドシナ共産党と改称)を創立。1931年香港(ホンコン)でイギリス官憲に捕らわれ、1933年釈放されソ連に赴きレーニン大学で学ぶ。1938年延安で毛沢東(もうたくとう)ら中国共産党指導部、八路軍幹部とともに活動。1940年フランスの対独降伏と日本軍のインドシナ侵攻をみて1941年帰国、共産党を中核とするベトナム独立同盟(ベトミン)を結成。1942年闘争への支援を求めて訪中したが国民党に逮捕され、1943年まで下獄。ホー・チ・ミンと名のり始めたのはこの時期からである。1944年ボー・グエン・ザップを長とするベトナム解放武装宣伝隊を組織。1945年8月日本軍降伏の翌日ベトナム民主共和国臨時政府を樹立。9月2日同大統領として独立を宣言、植民地におけるマルクス・レーニン主義の最初の勝利と位置づけた。
1946年末、植民地復活を目ざすフランスとの交渉を断念し、全人民の徹底抗戦を指導した。1954年ディエン・ビエン・フー攻略でフランスの抗戦意欲を粉砕し、ジュネーブ会議でラオス、カンボジアを含むインドシナ全域の独立を獲得した。フランスにかわってアメリカがジュネーブ協定を無視して南ベトナム経営に着手したため、北部防衛、南部解放、祖国再統一に向けての闘争継続を訴え続けた。1965年のアメリカ軍の北爆開始とアメリカ地上軍の大量投入にも屈せず民族解放の大義の最終的勝利を確信し、1966年「独立と自由ほど尊いものはない」とのアピールを発して全党全軍全人民の革命精神を鼓舞した。同時に救国抗米闘争を支持する中ソ両国の不和を悲しみ、プロレタリア国際主義に基づく連帯を主張し続けた。半世紀に及ぶ献身的闘争の渦中で病を得たホー・チ・ミンは1969年9月3日、79歳の生涯を閉じた。質素な軍服をまとったホーの遺体の足元には愛用のゴムのサンダルが供えられたという。レ・ズアン、ファン・バン・ドンらホーの忠実な後継者は「悲しみを革命的エネルギーへ」と訴え、1975年4月ついにサイゴンを制圧、翌1976年南北統一のベトナム社会主義共和国の実現に成功した。
[黒柳米司]
『内山敏訳『ホー・チ・ミン語録』(1968・河出書房新社)』▽『J・ラクーチュール著、吉田康彦・伴野文夫訳『ベトナムの星――ホー・チ・ミン伝』(1975・サイマル出版会)』▽『チャールズ・フェン著、陸井三郎訳『ホー・チ・ミン伝』上下(岩波新書)』
ベトナム南部の特別市。旧称サイゴンSaigon。1975年まで南ベトナムの首都であったが、ベトナム統一後、ベトナム民主共和国初代大統領であった故ホー・チ・ミンにちなんで現在の名称に改められた。面積1845平方キロメートル、人口341万5300(2003推計)で、同国最大の都市である。広大なメコン・デルタの北に連なるサイゴン川デルタに位置し、河口から97キロメートル上流に展開する。
地理的にカンボジアにも近く、コーチシナの政治・文化・交通の中心地として発展してきたが、元来フランスの植民地都市であるために、歴史的な遺跡はほとんどない。旧サイゴン地区は、サイゴン川の右岸に展開する。行政府、大学、公園や、ベンタイン市場、動物園、カトリック教会などの植民地時代の建物が、碁盤目状に交差した道路の大きな街路樹に囲まれて建ち並び、かつて「東洋のパリ」と称されたおもかげを残している。サイゴン川下流部には港が広がり、川に通じる運河はショロン地区へとつながっている。ショロン地区は中国的雰囲気の活気のある商業地区で、ビール、たばこ、せっけんなどの工場や、メコン・デルタでつくられた米の精米工場などが立地している。旧サイゴン地区とショロン地区の間は、第二次世界大戦後に急速に発展した地域で、庶民的な居住地域となっている。市の人口はフランス占領当時は1万3000程度にすぎなかったが、第二次世界大戦直前には15万となり、ベトナム戦争末期には難民が集中し350万を超えた。
1976年ベトナム社会主義共和国が誕生、1978年からホー・チ・ミン市でも社会主義的施策が行われるようになったが、長年にわたる戦争による生産基盤の破壊、物資の不足は深刻で、さまざまの困難な課題を抱えている。しかし、ベトナム戦争中に途絶していた縦貫道路は再開され、かつてのタンソンニャット国際空港も、その機能を取り戻している。
[菊池一雅]
古くはカンボジアの地で、プレイノコールPrei Nokor(森の国、あるいは綿、カポックの森の意)とよばれた。サイゴンの名は、このクメール語の古名の転訛(てんか)ないしは意訳とする説と、中国人の提岸(中国人街チョロン=フランス人の通称ショロンの漢名)の広東(カントン)音の転訛とする説とがある。17世紀後半、広南(カンナン)阮(げん)(グエン)氏の南進政策によってベトナムの勢力圏に入り、嘉定(かてい)(ザディン)府の管轄下の柴棍(さいこん)(サイゴン、漢字ではのちに西貢)の地に藩鎮営(のちに藩安鎮、さらに嘉定省と改称)が置かれた。嘉定府の中心は、最初辺和(ビエンホア)に置かれたが、18世紀、西山(タイソン)阮氏に追われた広南阮氏の一族阮福映(げんふくえい)(グエン・フク・アイン、後の嘉隆帝)が嘉定に拠(よ)って前者に対抗したころから、柴棍に移された。1802年嘉隆帝による阮朝創設にあたっては、柴棍に総鎮が置かれ、嘉定全体を統轄した(総鎮制は1832年に廃止)。フランスによる本格的なベトナム攻略は、1859年のサイゴン占領で開始され、コーチシナ直轄領の成立とともに、サイゴン=チョロンはその行政的中心地となり、またメコン・デルタの米の集散・出港地として発展した。第二次世界大戦後は1975年まで、ハノイの革命政府に対抗する南政権の首都となった。ベトナム戦争期には、アメリカの援助の下に虚飾の繁栄を示すとともに、他方では農村からの難民が流入し巨大なスラム地区が出現した。
[白石昌也]
ベトナム南部の都市。旧名サイゴンSaigon。1975年まで南ベトナムの首都であったが,北ベトナムによる統一とともに現名に改められた。人口345万(2004)は同国最大である。広大なメコン川デルタの北に連続するサイゴン川デルタ上に位置し,河口から97km上流にある。標高10mで,河港をもち,サイゴン川の川幅はここで250~300m,水深も10mに及ぶため,外洋船もらくに遡航できる。この地方は元来カンボジアの勢力圏でクメール族が多く住み,近世には地方的な商業地であった。17世紀にベトナム中部のチャム族を滅ぼしたベトナム人が,勢いに乗じてこの地方に進出した。サイゴンとはクメール語のプレイコル(〈カポック(パンヤノキ)の茂る森〉の意)のベトナム訳といわれる。18世紀末にはのちのザロン(嘉隆)帝がフランス人に委嘱して城塞をつくった。また当時清朝の支配を逃れて中国からこの地方に移住する人が多く,南西に隣接するチョロン(ショロン)はその結果,1778年に建設された中国人の町であった。19世紀中ごろからフランスのインドシナ侵略の焦点となり,1862年コーチシナ植民地の主都となった。港は市の生命であり,植民地時代にはフランス領インドシナ貿易の70%はここを経由し,輸出の70%までは開拓の進んだ後背地メコン川デルタの米であった。
市街はサイゴン川の西岸に広がり,いくつかの地区に分かれるが,サイゴン川と運河に囲まれた中心部にはかつての政府機関,公園,植物園,中央市場などがある。ここはフランス風の都市計画に従ってつくられた美しい市街で,かつては〈東洋のパリ〉と称された。港はこの中心部をやや離れたサイゴン川下流部にあり,チョロンに至る運河沿いの一画は商業地区,港湾地区である。チョロンは旧都心部の南西方に隣接する中国的雰囲気の商業地区であり,旧都心部とチョロンとの間は第2次大戦後に急速に都市化した地域で,スラムも混在する最もベトナムの庶民的な居住地区となっている。市の人口はフランスの占領当時1万3000にすぎなかったが,第2次大戦直前には15万となり,ベトナム戦争の末期には地方からの難民が集中して350万を超えた。南ベトナム政府の崩壊,北による統一とともに社会主義的政策が施行され,資本主義色の払拭(ふつしよく)が図られている。このためそれになじまない市民や,とくに富裕な中国系家族の大量脱出があり,ベトナム難民として世界に大きな問題を投じた。統一ベトナム政府のもとでホー・チ・ミン市は新たな生き方を迫られているわけである。現在は米の輸出も減少し,港もかつての活気に乏しい。交通上の大きな要地であり,ベトナム戦争中は途絶していた縦貫鉄道も再開されたが,経済不振が交通の面でも強くあらわれている。かつての国際空港タンソンニュットも今は国内線に使われているにすぎない。新政府は市の人口を減らす政策をとっているが,流入人口が多く,顕著な減少をみせていない。
執筆者:別技 篤彦
ベトナム共産党の創立者で,ベトナム民主共和国初代国家主席(大統領)になった革命家。幼名はグエン・シン・クンNguyen Sinh Cung(就学後グエン・タット・タインNguyen Tat Thanh)で,ベトナム中部ゲアン省ナムダン県キムリエン村の,貧しい儒学者の家庭に生まれた。幼少の時から民族主義運動の影響を受けて育ち,フランス植民地支配下の祖国ベトナムの救国の道を宗主国の社会に見いだすべく,1911年フランス船の見習コックとなり出国した。19年ベルサイユ講和会議にグエン・アイ・クオックNguyen Ai Quoc(阮愛国)名で提出した〈安南人民の要求〉は,彼の名を有名にした。その後フランス社会主義者との交際を通じ急速に共産主義に接近し,フランス共産党の創立に参加した。23年ソ連に行って農民インターの大会に参加して以降は,コミンテルンの活動家として国際的に活躍するようになった。この時期の活動は,民族主義から出発して共産主義を受容した革命家として,国際共産主義運動が植民地の被抑圧民族に,積極的関心を払うよう訴えることを軸としていた。植民地人民の民族的エネルギーの強さを実証したのが,彼の指導する祖国ベトナムの解放運動であった。24年中国国民党政府へ派遣されたソ連顧問団の一員として広州に出かけた彼は,そこでベトナムの民族主義的青年を組織し,翌25年にベトナム青年革命同志会を樹立し,これを母体に30年2月にホンコンでベトナム共産党を結成した。その後,投獄や病気のため30年代にはベトナムの運動から離れていたが,41年には30年ぶりに帰国し,ベトミン(ベトナム独立同盟会)の結成を提唱して,45年の八月革命を成功に導いた。彼が独立宣言を起草したベトナム民主共和国の初代国家主席となり,51年の党大会で正式に党主席に選出され,死までその職にあってフランス,アメリカとの戦いに指導的役割を果たした。
〈ホー翁の政府〉〈ホー翁の軍隊〉という表現に示されるように,彼は抗仏・抗米戦争を通じてベトナム人の民族的団結のかなめであった。また中ソ対立が激化してからは,国際共産主義運動の団結を説く指導者として重要な役割を担った。〈独立と自由ほど尊いものはない〉という彼の言葉は,その思想をよく表している。なおホー・チ・ミンという名は1942年中国へ行った時使用した彼の変名の一つであるが,ベトナムの独立後,一般化した。
執筆者:古田 元夫
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1890?~1969
ベトナム建国の父。パリに在住していた1919年,パリ講和会議にグエン・アイ・クォック(阮愛国)名でベトナム人の地位向上の請願を提出。その後フランス共産党の結成に加わり,コミンテルンの活動家として活躍。25年にベトナム青年革命同志会を組織し,これを基礎に30年にベトナム共産党を結成。41年に帰国してベトナム独立同盟を組織し,45年のベトナム民主共和国独立を導く。同国初代大統領(在任1945~69)としてインドシナ戦争,ベトナム戦争を指導した。
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…11月ハイフォン港がフランス軍に砲撃され,次いで12月ハノイでフランス,ベトナム両軍が交戦した。20日臨時政府主席ホー・チ・ミンはここに対フランス全面抗戦を宣言した。 カンボジアでは45年10月,プノンペンに進駐したフランス軍が独立宣言を取り消したが,ソン・ゴク・タン派は北西部に逃れてクメール・イッサラ(自由クメール)を結成して,対仏抗戦を開始した。…
…年平均降水量は1800mmで,大部分は5~9月に降るが,とくに1~3月にはベトナム特有の霖雨(りんう)(クラシャンと呼ぶ)があって米の2期作に有利である。南のメコン・デルタのホー・チ・ミン市では年平均気温27.6℃,年較差も3℃ほどであり,年平均降水量は2000mm,その90%は5~10月に集中し,11~4月は乾季である。中部のアンナン海岸は高温多湿で,フエの年平均降水量は3000mmに及んでいる。…
…ベトナムにおける民族解放革命の達成を第一の戦略目標に掲げ,ホー・チ・ミンが1925年6月に中国の広州(広東)で創立した革命的秘密組織。この同志会の活動を通して,30年に創立されるベトナム共産党の政治・思想・組織面の基盤が形成されたといわれる。…
※「ホーチミン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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