南アメリカ大陸北部をスペインの植民地支配から解放した軍人,政治家で,19世紀初めのラテン・アメリカ独立の指導者。1783年7月24日,ベネズエラのカラカスの富裕な名門クリオーリョ(植民地生れのスペイン人)の家に生まれた。幼少のときに両親を失ったが,家庭教師シモン・ロドリゲスの薫陶を受け,早くからルソー,ロック,モンテスキューなどヨーロッパの啓蒙思想家の著作に接し,それがのちの自由主義的な思想形成の礎石となった。99年,16歳のとき本国のマドリードに行き,そこで貴族の娘と熱烈な恋愛におちて結婚した。1802年にカラカスに戻ったが翌年最愛の妻に他界され,それはその後の彼の人生のコースに大きな影響を及ぼした。彼はのちに〈妻の死がなかったら私は“解放者”にならなかっただろう〉と述懐している。03年再びマドリードに行き,そこからさらにパリを訪れた彼は,ナポレオンが皇帝になったのを見て革命の理念を裏切ったものとして強い幻滅を感じた。パリで当時中南米の旅行から帰ったA.vonフンボルトに会い,イスパノ・アメリカ植民地の独立の機が熟していると伝えられた。その後イタリアの各地を訪れてローマに行き,そこでイスパノ・アメリカの独立に身をささげる決意をして07年にカラカスに戻った。
08年のナポレオンによるスペイン侵略を機としてイスパノ・アメリカの各地で独立の動きが始まるが,10年カラカス市の市議会は総監を追放して臨時政府を樹立した。ボリーバルはロンドンに使者として赴き,イギリス王室に独立の承認と援助を求めたが成功しなかった。しかし当時ベネズエラ解放に失敗してロンドンに亡命していたフランシスコ・デ・ミランダを説得して帰国させ独立運動を指導させた。11年7月ベネズエラは独立を宣言し,ボリーバルは独立軍の将校となった。12年7月ミランダの妥協でベネズエラが再び本国の支配下におかれるや,ボリーバルはコロンビアのカルタヘナに行き,そこで彼の政治思想の最初の表明である〈カルタヘナ宣言〉を発表し,内部の不統一と弱体な政府が敗因であると分析した。ボリーバルが軍人としての傑出した才能を発揮するのはこのころからで,ベネズエラ解放軍の司令官となり,スペイン軍との激しい戦闘の末カラカスを奪回し,〈解放者〉の称号を贈られた。しかし14年スペイン軍に敗北してジャマイカに亡命。亡命先から友人にあてて書かれた〈ジャマイカからの手紙〉は,独立国家の政体やラテン・アメリカの統一など彼の政治思想の精髄を示したものとなっている。ジャマイカから黒人共和国ハイチに赴き,この国の指導者から支援の約束をとりつけたボリーバルは15年に黒人奴隷を解放した。
19年にボヤカの戦闘でスペイン軍を破りコロンビア(ヌエバ・グラナダ)を解放したボリーバルは,この年の12月アンゴストゥーラ(現,シウダード・ボリーバル)でベネズエラ,コロンビア,エクアドルを単一の国家とするグラン・コロンビア共和国を形成し,自分が初代大統領に就任することに同意した。21年にベネズエラとエクアドルを解放しグラン・コロンビアを正式に発足させたのちペルーの解放に向かい,24年のアヤクチョの戦でスペイン軍に大勝してペルーを完全に解放するとともに,イスパノ・アメリカの独立をほぼ決定的にした。さらに25年にはスクレが率いるボリーバルの軍隊がアルト・ペルーを解放し,独立したアルト・ペルーはボリーバルにちなんで国名をボリビアと名づけた。ボリビア共和国の憲法はボリーバルが起草したもので,晩年の彼の政治思想の到達点を示している。26年には長年の念願であったラテン・アメリカ諸国の連帯を実現するための会議をパナマで開催した(パナマ会議)。その後グラン・コロンビア内部での対立の深まりや部下の裏切りなどに失望したボリーバルは,30年にボゴタを去る。結核に侵されていた彼はコロンビアのサンタ・マルタで失意のうちにこの世を去った。
執筆者:加茂 雄三
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南アメリカ独立運動の指導者、大コロンビア共和国大統領。「解放者」el Liberatorの称号をもつ。ボリビア共和国(現ボリビア多民族国)はその名にちなんで命名された。
現ベネズエラの首都カラカスのクリオーリョ(植民地生まれの白人)の名門に生まれる。家庭教師より啓蒙(けいもう)思想の影響を受け、1799年からヨーロッパで学び、この間に植民地独立の志を固めた。ナポレオンのスペイン占領をきっかけに独立の気運が高まるなか、1810年に亡命中の独立運動の先駆者ホセ・ミランダとロンドンで会い、両者は帰国して翌1811年ベネズエラを独立させた。しかし大地震の打撃もあって1812年同国は崩壊しボリーバルは亡命した。同年、亡命地で「カルタヘナ宣言」を発表して独立運動の続行を宣言、ヌエバ・グラナダ(現コロンビア)住民の協力のもとに、1813年ベネズエラをふたたび解放した。しかし翌1814年、オリノコ川流域の牧畜民(リャネロス)に支援された王党派に敗れ、ジャマイカへの亡命を余儀なくされた。ここで「ジャマイカからの手紙」を発表、また奴隷制廃止を約束してハイチ共和国の支援を受け、ベネズエラ上陸作戦を決行したが失敗した。
以後戦略を転換して、1817年にはオリノコ川をさかのぼってアンゴストゥーラ(現シウダー・ボリーバル)を占領した。この後パエスの率いるリャネロスを味方につけ、またナポレオン戦争の終わったイギリスから武器や兵員を調達したのち、1819年にアンデス山脈を越えてボゴタを占領、同年末、現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドルからなる大コロンビア共和国の独立を宣言した。1821年には北進してベネズエラを解放、1822年には南進してエクアドルも解放、さらに同年7月、ラ・プラタ(現アルゼンチン)から進撃してチリおよびペルーを解放していたサン・マルティンとグアヤキルで会談、ペルーでの指導権も握った。1824年にはアンデス山岳地帯を支配していた最後のスペイン軍を撃滅(アヤクチョの戦い)、1825年ボリビア共和国を独立させた。翌1826年にはパナマでスペイン系諸国の国際会議を開催し(コロンビア、ペルー、メキシコ、中央アメリカ諸国が参加)、これら諸国の団結と共同防衛を目的とした条約を成立させ、ラテンアメリカ連帯の先駆者となった。しかしこのころから各共和国内の対立や分離運動、国際紛争が激化し、ボリーバルの努力もむなしく、1830年にはついに大コロンビア共和国も三国に分離解体した。結核に苦しむボリーバルは失意のうちに引退し、ヨーロッパへの途上コロンビアのサンタ・マルタで病死した。
[野田 隆]
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1783~1830
南アメリカ独立運動の指導者。ベネズエラの名家に生まれ,ヨーロッパの啓蒙思想に接する。1811年ベネズエラの独立に参加するが,14年スペイン軍に敗退してジャマイカに亡命。19年ボヤカーの戦いによりコロンビアを解放,ベネズエラとエクアドルを含めた大コロンビア共和国を建国し,初代大統領(在任1819~30)となった。21年カラボボの戦い,24年アヤクチョの戦いに勝利し南アメリカ全体の独立を完成させた。大コロンビア共和国はまもなく解体し,米州の統一という理想は挫折して,失意のうちに没した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…アルゼンチンの軍人。ベネズエラのシモン・ボリーバルと並ぶラテン・アメリカ独立の英雄で,アルゼンチン,チリ,ペルーの解放に貢献した。スペイン人の士官を父に,父が役人をしていたアルゼンチン北東部のヤペジュに生まれ,1785年家族とともにスペインに移った。…
…モンロー主義)を発して,西半球に対するヨーロッパの干渉を拒否した。このような国際環境に恵まれて,中・南米各植民地はS.ボリーバルらの指導のもとに次々と独立を達成した。ただし,独立後もこれらの諸国は,イギリス(のちにはアメリカ合衆国)による事実上の植民地としての支配を受け,低開発状態を脱することができないでいる。…
…1826年S.ボリーバルの提唱で開催されたラテン・アメリカ諸国による最初の国際会議。1824年末,当時グラン・コロンビアの大統領であったボリーバルは,独立直後のラテン・アメリカ諸国に対しその独立を確保する手段について協議するための会議をパナマ市で開くよう呼びかけた。…
…正式名称=ベネズエラ共和国República de Venezuela面積=91万2050km2人口(1996)=2231万人首都=カラカスCaracas(日本との時差=-13時間)主要言語=スペイン語通貨=ボリーバルBolívar南アメリカ大陸最北端にある共和国。北はカリブ海に面し,東はガイアナ,南はブラジル,西はコロンビアに接している。…
… ラス・カサスに対する評価は二分され,〈インディアスの使徒〉と高く評価される一方,〈黒い伝説〉誕生の責任者として非難される。いずれにせよ,ヨーロッパ人の征服行為に絶対的な不正をみてとり,被征服民族の人間としての権利を擁護しつづけたラス・カサスは,S.ボリーバルらラテン・アメリカの独立運動を進めた人々やインディヘニスモの推進者に影響を与え,今日も大きな歴史的価値をもっている。黒い伝説【染田 秀藤】。…
※「ボリーバル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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