日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボース」の意味・わかりやすい解説
ボース(Satyendra Nath Bose)
ぼーす
Satyendra Nath Bose
(1894―1974)
インドの物理学者。カルカッタ(現、コルカタ)のプレジデンシー・カレッジに学び、ダッカ大学助教授となる。1924年ヨーロッパに留学、帰国して1927年ダッカ大学教授、1945年カルカッタ大学教授。その後、インド科学院総裁。光量子に対する新しい量子統計を考案したボースは1924年にその論文をアインシュタインに送り、アインシュタインは英語論文をドイツ語に訳して『物理学雑誌』に発表した。またアインシュタインがボースの考えを使って理想気体の量子論を展開した。こうしたことからこの統計は「ボース‐アインシュタイン統計」とよばれる。ボース粒子、ボソンはボースの名にちなむ。
[渡辺 伸 2018年11月19日]
ボース(Subhāsh Chandra Bose)
ぼーす
Subhāsh Chandra Bose
(1897―1945)
インド、ベンガル出身の民族主義者。一般に「ネータージー(指導者)」と親称される。1919年イギリスに行き、ケンブリッジ大学を卒業。インド文官職(ICS)の資格を得たが、M・ガンディーのサティヤーグラハ(非暴力的抵抗)闘争に刺激され、1921年に辞表を手に帰国し、運動に参加した。1924~1927年、ビルマ(現ミャンマー)のマンダレーに拘禁された。徹底した反英姿勢を貫き、1928年のM・ネルーらの「自治領地位」提案には強く反対。1938年10月にはJ・ネルーと協力して民族経済計画委員会を設立。1938、1939年と連続で国民会議派議長に選出されたが、1939年にはM・ガンディーの反対で辞任に追い込まれ、ベンガルを中心に「前衛ブロック」を結成し、しだいに国民会議派を離れた。第二次世界大戦中に拘留され、1941年1月、保釈中インドを脱出してドイツへ入国した。1943年(昭和18)6月に日本に渡り、日本帝国主義の支援で英印軍捕虜からなる「インド国民軍」を率いてインドのイギリス勢力の打破を図ったが果たさず、1945年8月台湾で飛行機事故によって死去した。
[内藤雅雄]