ポルトガル北西部、ドーロ・リトラル地方の中心都市で、首都リスボンに次ぐ同国第二の都市。人口26万2928(2001)。英語名オポルトOporto。ドーロ川の河口に位置し、同川下流域でつくられるポートワインの積出し港として世界的に有名。市街は河口北岸に発達するが、二階建て構造の鉄橋ドン・ルイス1世橋をはじめ、19世紀にエッフェルやその弟子たちのつくった二つの橋と新しい一つの橋により、南岸の町ビラ・ノバ・デ・ガイアVila Nova de Gaia(人口6万9167、2001)と結ばれる。ワインのブレンドおよび貯蔵はおもにこの南岸の町で行われる。人口の約3分の1はワイン関連産業で働いており、ワインの町、それもことにイギリスとの結び付きが強い点ではフランスのボルドーに似る。ドーロ川の川幅が狭く、また土砂の堆積(たいせき)が進んだため、大西洋に臨む人工港湾レイションイス港Porto de Leixõesが19世紀末から築造され、1932年に拡張された。このレイションイス港周辺に工場地帯があり、繊維、金属、ゴムの諸工業ならびに石油化学プラントが立地している。
ドーロ川沿いの斜面には古い家屋が密集し、石畳の細い坂道が間を縫う。大聖堂は12世紀創建、18世紀まで増改築が繰り返され、ロマネスク、バロックの様式が混合する。クレリゴスの塔は18世紀建造、高さ75メートルで、船乗りの好目標となっている。ほかにゴシック、ロマネスクの教会や教会堂は数多い。16世紀以来の絵画、彫刻、陶器類を収蔵するソアレス・ドス・レイス国立博物館、歴史民族学博物館、ポルト大学(1911創立)などの文化施設が整っている。1996年この歴史地区がオポルトの歴史地区として世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録されている。
[田辺 裕・柴田匡平]
ローマ時代にはポルトゥス・カレPortus Cale(カレの港)として知られ、ポルトガル国名はこの都市に由来する。スエビ王国時代には王国首都ブラガと並ぶ重要な都市であった。8世紀初頭以来イスラム勢力の支配下にあったが、868年キリスト教徒に回復された。ポルトガル独立(1143)後、その支配権をめぐって王権とポルト司教との間に長い闘争が続いたが、ジョアン1世の即位(1385)に際してポルトはリスボンと並んで決定的な役割を果たしたため市民に多くの特権が付与され、貴族は市内での居住が禁じられた。しかし、ポルトが本格的に発展するのは、17世紀末イギリスへのポートワイン輸出が盛んになり始めてからのことである。1500年ごろ約1万にすぎなかった人口もこのころようやく2万を超えた。さらに、18世紀後半にはポンバル侯によって強力に保護され、ポートワインはビラ・ノバ・デ・ガイアからヨーロッパ各国に輸出された。
[金七紀男]
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