1905年9月5日調印された日露戦争の講和条約。日本政府は日本海海戦後,アメリカ合衆国T.ローズベルト大統領に,日露講和の斡旋を希望し,同大統領は6月9日,正式に日露両国に講和勧告書を手交,ついで6月26日,アメリカ北東部,ニューハンプシャー州のポーツマスを日露講和談判地に指定した。一方,日本政府は,韓国の自由処分,ロシア軍の満州撤兵,遼東半島租借権およびハルビン~旅順間鉄道の日本への譲与を絶対条件とし,他に比較的必要条件,付加条件などをもりこんだ日露講和条約の大綱を6月30日閣議決定するとともに,7月には桂=タフト協定,8月には日英同盟の改訂を行い,日本の朝鮮支配について,アメリカ,イギリスの了解を獲得し,講和会議にそなえた。講和会議は8月10日より開かれ,償金および領土の分割をめぐって難航した。しかし,日本政府は8月28日,御前会議で,償金および領土の分割の要求を放棄しても講和を成立させることを決定した。8月29日,日本が賠償金および樺太北半部の割譲要求を放棄して,やっと講和条約は成立した。
9月5日,日本側の小村寿太郎,高平小五郎,ロシア側のウィッテ,ローゼンの4名が記名調印した日露講和条約は15条と追加約款2項からなる。そのおもな内容は,(1)日本が韓国において政治上,軍事上および経済上の優越権をもつことをロシアが認め,かつ日本が韓国において指導・保護および監理の措置をとることをロシアは妨げないこと(第2条),(2)遼東半島租借地・鉄道守備のほかは18ヵ月以内に両国軍隊は満州から撤退すること(第3条),(3)ロシア政府は遼東半島租借地および長春~旅順間の鉄道を清国政府の承認を得て日本に譲渡すること(第5,6条),(4)北緯50°以南の樺太を日本へ譲与すること(第9条),(5)日本海,オホーツク海,ベーリング海のロシア領地沿岸における漁業権を日本国民に認めること(第11条),などである。
この条約により,日本の朝鮮に対する植民地化政策はさらに強化され,さらに満州南部を日本の勢力圏下におくことになった。しかし,日露講和条約は,戦争継続に不安感をつのらせた両国政府の妥協により成立したもので,日本では高まる国権主義的願望と戦争にはらった国民の犠牲の大きさにひきかえ,講和の内容に不満があるとの声が高まり,9月5日,講和問題同志連合会主催の講和反対の大会が東京日比谷で開かれ,いわゆる日比谷焼打事件が起こった。
執筆者:中塚 明
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1905年(明治38)9月4日(日本時間9月5日)、アメリカ合衆国ポーツマスで調印された日露戦争の講和条約。日本は日露戦争の個別戦闘には勝利したが、戦力が限界点に達していたため、日本海海戦の勝利を機にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋(あっせん)を依頼した。日露両国のいずれかが圧倒的勝利を収め、満州を独占することを恐れたアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシアの希望とが一致し、小村寿太郎(じゅたろう)とウィッテを首席全権とする講和会議が8月1日から17回にわたり行われた。ロシアの強硬な態度により日本は償金獲得をあきらめ、次の内容の条約が成立した。〔1〕ロシアは、日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない。〔2〕両国は満州から同時に撤兵し、満州を清国に還付する。〔3〕ロシアは清国の同意を得て遼東(りょうとう)半島南部の租借権、長春(ちょうしゅん)―旅順(りょじゅん)間の鉄道と沿線の炭坑を日本に譲渡する。〔4〕ロシアは日本に樺太(からふと)の北緯50度以南を割譲し、沿海州漁業権を許与する。
日本はこの条約でロシアの満州侵略の遺産を継承し大陸進出の地歩を固めた。しかし戦勝に過大な期待を抱いた国民は賠償金を伴わない条約に失望し、全国的な講和反対運動が起き、9月5日、日比谷(ひびや)公園で開かれた国民大会は内相官邸焼打ちなどの騒擾(そうじょう)となった。
[藤村道生]
『信夫清三郎・中山治一編『日露戦争史の研究』(1959・河出書房新社)』
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日露戦争の結果,1905年9月,アメリカのポーツマスで調印された日本とロシアとの講和条約。ロシアは朝鮮における日本の政治上,軍事上,経済上の優先的権利を認め,韓国に対する日本の指導,保護,監督を妨害しないことを約した。また,南満洲においてロシアが所有していた関東州の租借権,南満洲鉄道およびその付属地の租借権,撫順(ぶじゅん)炭坑その他いっさいの権益を日本に譲渡し,さらに樺太(からふと)島(サハリン)の北緯50度以南を日本に割譲した。
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[日ソ基本条約]
シベリア戦争に結着をつけ,日ソ国交を開いたのは,25年1月20日調印の日ソ基本条約と付属議定書であった。日本はソ連に1905年のポーツマス条約を認めさせ,北サハリンにおける油田の50%の利権供与を約束させた。日本国内ではコミンテルンの指導下に生まれた日本共産党が活動を続けており,知識人の間にソ連への関心がしだいに高まった。…
…アメリカのポーツマスで8月10日から講和会議が開かれ,29日まで十数回の会談が続けられた。日本側が要求した賠償金と領土割譲をロシア側は受け入れず,交渉は難航したが,最終段階でロシア側が譲歩して決着がつけられ,9月5日両国全権の間で日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。その内容は,ロシアが日本の韓国に対するいっさいの指導権を承認し,旅順,大連の租借権と長春以南の鉄道ならびに付属利権を日本に譲渡すること,さらに北緯50゜以南の樺太を割譲し,沿海州とカムチャツカにおける日本の漁業権を認めるというものであった。…
※「ポーツマス条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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