1772年,93年,95年の3回にわたってロシア,プロイセン,オーストリアが行ったポーランドの分割(ただし,オーストリアは1793年の2回目の分割には参加していない)。時期的にヨーロッパでナショナリズム運動が登場してきたときと重なっていたため,重要な意味をもつ事件として注目を集めた。また17世紀のポーランドはヨーロッパの大国であり,それが周辺諸国による分割で簡単に消滅してしまったことは当時のヨーロッパの知識人にとって大きな衝撃であった。以来,ポーランドやヨーロッパ各国で分割の原因をめぐって盛んに議論が展開されたが,これを大きく〈外因論〉と〈内因論〉に整理することができる。〈外因論〉は分割の原因を分割国の領土欲,ポーランド人による改革の試みに対する危機感などに求める議論で,ポーランド人自身に責任はないとするものである。逆に〈内因論〉は分割の原因をポーランド人自身,とくに国内に割拠して外国の宮廷と結び,ポーランドにアナーキーな状態を生み出したマグナート(有力なシュラフタ)のエゴイズムに求める議論で,分割国の行動はその当然の帰結であるとするものである。いずれも道徳論や感情に走りすぎる傾向が強く,また〈分割に至る暗黒史観〉的な前提が濃厚であった。ポーランド分割が学問的な議論の対象となるのは両大戦間期以後,つまりポーランドが独立して分割が現実の問題でなくなってからである。
外国の干渉によって選出された最初の国王はアウグスト2世であるが,分割の前史はこのときに始まると考えてよい。ところが七年戦争の最中の1762年にロシア皇帝がピョートル3世に変わると,アウグスト2世の選出を可能にした国際環境が大きく変化することになった。オスマン・トルコやプロイセンに対抗してオーストリアと同盟を結んでいたロシアが,突如プロイセンと同盟を結んだのである。おかげでプロイセンは七年戦争に勝利し,オーストリア継承戦争でオーストリアから奪ったシロンスク(シュレジエン)を確保することに成功した。トルコとの戦争に備えてポーランドを従順な同盟国にすることを考えたロシア皇帝エカチェリナ2世は64年スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキを国王に選ばせたが,ポーランドはおもわくどおりの従順な同盟国にはならなかった。まず国王がロシアに無断で王権強化の試みを始め,これに反対する〈共和派〉を助けてロシアが武力介入すると,逆に〈共和派〉がフランス,オーストリアの援助を得て武装抵抗を始めた。68年に露土戦争が始まったとき,ロシアは両面作戦を強いられることになったのである。オーストリアはロシアが動きを封じられているのに乗じてプロイセンと同盟を結び,シロンスクを取り戻す代りにポーランド領の一部をプロイセンに与えることを計画した。しかしトルコはロシアの動きを封じるにはあまりに弱く,またプロイセンもロシアとの同盟関係を破棄するつもりはなかった。かえってオーストリアは,バルカン半島に進出してきたロシアをなんとか押さえる必要に迫られることになったのである。
ロシアはモルドバとワラキアの領有を諦め,その代りにポーランド領の一部を獲得することになった。プロイセンのイニシアティブでまずプロイセンとロシアの間で条約が結ばれ,さらにオーストリアがこれに加わる形で3国による分割条約が締結された(1772)。この第1回目の分割でプロイセンは,かねてより領有を望んでいた王領プロイセン(1466年のトルン講和条約でポーランド国王がドイツ騎士修道会から獲得した領土。ただし,グダンスクはロシアの反対で領有できず)を得た。またオーストリアはガリツィア地方の一部(1769年にスピシュ地方を併合済み),ロシアはポーランド領リボニアおよびベラルーシ地方の一部を獲得した。1773年にセイムが召集され,レイタンTadeusz Rejtan(1746-80)ら一部議員が反対したが分割が承認された。
しかし1778年にバイエルン継承戦争でプロイセンとオーストリアの対立が始まり,80年代に入るとトルコとの戦争に備えてロシアとオーストリアが接近を始めた。国際環境がポーランドにとって有利に展開し始めたのである。87年に露土戦争が始まり,翌年にはオーストリアもこれに参戦するに及んで,〈四年セイムSejm Czteroletni〉(1788-92年に活動し,直接に統治を担当することでさまざまな制度の改革を実現しようとした)は,プロイセンの援助でロシアの圧倒的な影響力を排除する挙に出たのである。プロイセンはオーストリアにガリツィア地方を返還させ,その代りにグダンスク,トルン,ビエルコポルスカ地方の併合を計画した。ところが,〈四年セイム〉はこれに同意せず,また92年に露土戦争を終結させたロシアが保守派(タルゴビツァ派)の要請で武力介入を行ったため,〈四年セイム〉の意図は成功しなかった。プロイセンは,〈四年セイム〉が1791年に〈五月三日憲法〉を無断で成立させたことを口実に援助を断ったばかりか,ロシアの武力介入に乗じてグダンスク,トルン,ビエルコポルスカ地方の一部を占領してしまった。
対仏大同盟からの離脱をにおわせるプロイセンの態度に,フランスからの圧力を正面から受けていたオーストリアは2回目のポーランド分割に対して〈無関心〉を表明せざるをえなかった。93年にプロイセンとロシアの間で分割に関する条約が締結され,さらにグロドノに臨時に召集されたセイムがこれを承認した。この2回目の分割で,ポーランドは事実上,国家としての機能を停止したと考えてよい。94年コシチューシュコに率いられた蜂起が起こったが,あてにしていたフランスからの援助は得られず敗北した。95年の条約(第3回分割)でポーランドは,ヨーロッパの地図から消えてなくなるのである。
執筆者:宮島 直機
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
18世紀後半にプロイセン、ロシアおよびオーストリアによって3回にわたって行われたポーランドの分割。17世紀中ごろに衰退の道をたどり始めたポーランド王国は、18世紀中ごろに復興の兆しをみせたが、ロシアのエカチェリーナ2世は武力介入によってポーランドを保護国にしようと図った。これを恐れたプロイセンのフリードリヒ2世(大王)は、ロシアのバルカン進出に反対していたオーストリアを誘い、またさまざまな策謀によってロシアにポーランドの保護国化を断念させ、1772年3国による第一次分割が行われた。その結果、ロシアは西ドビナ川以北とドニエプル川上流域、プロイセンはグダニスクを除く東ポモジェ(西プロイセン)、オーストリアはガリツィアを獲得した。分割はポーランド人に大きな衝撃を与え、その後国政改革の気運がいっそう高まって、啓蒙(けいもう)主義の影響を受けた改革が推進された。そして世論の高まりとフランス革命の影響によって、1791年に「五月三日憲法」が制定され、これによって、17~18世紀の国政上否定的な役割を果たしたシュラフタ(特権的身分)の諸特権が廃止され、社会の近代化が促進された。しかし、新憲法の廃棄をもくろんだ国内の保守的なシュラフタの要請に応じて、ロシアがふたたび武力干渉を行い、これをみてプロイセンも軍隊を送った。このときオーストリアはフランス革命への対応に追われて介入できず、プロイセンの要求に従って、93年1月2国間で第二次ポーランド分割協定が成立した。その結果、ロシアは白ロシアの大半と西ウクライナ、プロイセンはグダニスクと大ポーランド(ポズナニ)を得た。そのため、国家存亡の危機にたたされたポーランド人は独立蜂起(ほうき)を計画し、94年3月コシチューシコの蜂起が起こった。蜂起軍は同年4月末第二次分割前の領土を回復したが、ロシア・プロイセン連合軍に圧倒され、鎮圧された。その結果、95年10月ロシア、プロイセン、オーストリアによって第三次分割が行われ、ポーランドは独立国としての地位を失った。
[安部一郎]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ロシア,プロイセン,オーストリアが1772年,93年,95年にポーランドを分割し,滅亡させた事件。シュラフタ共和政が無秩序化したポーランド‐リトアニアの合同国家は,18世紀にはロシアの保護下にあった。ロシアは,オスマン帝国との戦いのために,ポーランドに多少の改革を促そうとしたが,その政策が内部からの抵抗にあい挫折したことが分割を惹起した。
①〔第1次〕シュラフタが1768年に結成したバール連盟やオスマンと戦うロシアの窮状をとらえてプロイセンが仕組んだ。プロイセンはグダンスクを除く西プロイセン,ロシアはリヴォニアの一部とベラルーシの東部,オーストリアはガリツィアを獲得。
②〔第2次〕ロシア‐トルコ戦争の最中,ポーランドの四年議会(1788~92年)がロシアの意に反して主権の確立と近代化への改革をめざしたため,1792年にロシアとの戦争に至り,またプロイセンがフランスとの戦いを続ける代償として分割を要求。ロシアはベラルーシの中央部とウクライナ,プロイセンは西部ポーランドを併合。オーストリアは不参加。
③〔第3次〕コシチューシコ蜂起の敗北が契機となり,ポーランド国家は消滅した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新