百科事典マイペディア 「マイソール戦争」の意味・わかりやすい解説
マイソール戦争【マイソールせんそう】
→関連項目インド帝国
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1767~99年の間、インドのマイソールMysore王国とイギリス東インド会社との間で戦われた4回(1767~69年、1780~84年、1790~92年、1799年)の戦争。18世紀後半マイソールはハイダル・アリー統治のもとで領土を拡大し、南インドの強大国として、ハイデラバードのニザム、マラータ同盟、カルナータカ戦争の勝利者イギリス東インド会社と対峙(たいじ)していた。このようなマイソール勢力を危険視した東インド会社は、巧みにマラータやニザムと手を組み、再々マイソールへ侵略した。それに対してマイソール側も会社勢力を敵視し、反英反植民地闘争を展開した。しかしこの一貫したイギリスへの抵抗はマラータやニザムなど土着勢力から支持されなかった。1767年ハイダル・アリーのとき開始された戦いも、第二次戦争中の病死で息子ティプに引き継がれたが、その孤立化は戦局には不利で、99年ティプの戦死でマイソール側の完敗に終わった。イギリスはこの戦いで南インド支配を揺るぎないものにした。
[上條安規子]
18世紀後半の南インドの雄マイソール王国と,しだいに勢力を増大してくるイギリス東インド会社との間で,4次にわたって(1767~69年,80~84年,90~92年,99年)戦われた戦争。マイソール王国は,二人の名君ハイダル・アリーとティプー・スルタンのもとで,軍隊の近代化を進めるなど富国強兵策をとっていたが,マラーター同盟とハイダラーバードのニザームという,当時のインドの二大勢力と協力関係を築くことができず,ついに敗北した。これにより南インドの植民地化は決定的となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…1782年父王ハイダル・アーリーの死によって即位し,ニザーム(藩王),マラーター勢力と領土支配をめぐって抗争した。また,イギリス東インド会社ともマイソール戦争を3次・4次にわたって続け,フランスの支援を得るためにモーリシャスやフランス本国まで使節を送ったが失敗した。99年,第4次マイソール戦争において敗北,戦死した。…
※「マイソール戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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