イギリスの政治家、外交官。北アイルランドのアルスターに生まれ、1764年駐露公使となり、イングランド下院議員を務めたのち、1780~1785年にかけインドのマドラス知事の任にあった。1793年9月14日、北京(ペキン)に赴き皇帝に謁見すべしというイギリス政府の訓令と、イギリス人が中国沿岸で居住し貿易ができるよう申し入れたジョージ3世の信任状を携え、乾隆(けんりゅう)帝に熱河で謁見した。そこでは三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)ではなく、片膝(かたひざ)をつき信任状を手渡すという方法がとられた。しかし中国側はあくまでも遠方からの朝貢使節とみなし、実質的な交渉のないまま、マカートニーは北京を退去し、帰路は運河沿いに杭州(こうしゅう)に至り、その後も内地旅行を続け広東(カントン)を経て帰国した。彼は詳細な観察日記を残している。その後、上院議員、喜望峰植民地総督となった。
[浜下武志]
『マカートニー著、坂野正高訳注『中国訪問使節日記』(平凡社・東洋文庫)』
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1737~1806
イギリスの外交家,政治家。1788年上院議員。92年イギリス政府より中国への最初の派遣大使に任命され,93年熱河(ねっか)で乾隆(けんりゅう)帝に謁見した。
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…18世紀中ごろにおけるヨーロッパ人の茶樹と茶栽培についての知識といえば,日本で17世紀末茶を観察し情報を集めたケンペルの記述に頼っていた程度で,茶は依然なぞに包まれた植物であった。1793年イギリスは初めて中国へジョージ・マカートニーを団長とする使節団を派遣したが,その目的の一つは中国の実情についての情報,とくに茶の栽培・製造に関する詳しい情報を集めることであった。彼は中国から茶樹を持ち帰り,カルカッタで移植を試みたが成功しなかった。…
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