マニラ(英語表記)Manila

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デジタル大辞泉 「マニラ」の意味・読み・例文・類語

マニラ(Manila)

フィリピン共和国の首都。ルソン島南西部のマニラ湾に臨む港湾都市。1571年にスペインレガスピが建設し、東洋交易の拠点として繁栄。独立後の1948年に郊外のケソンシティーに首都の座を譲ったが、1975年にケソンシティーとともに隣接地を併合して大マニラを構成。人口、行政区158万(2000)。

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精選版 日本国語大辞典 「マニラ」の意味・読み・例文・類語

マニラ

  1. ( Manila ) フィリピン共和国、ルソン島中西部のマニラ湾に臨む大都市。一六世紀末からスペイン領、のちアメリカ領フィリピンの中心都市として繁栄。一九四六~四八年、また、七六年以降、フィリピン共和国の首都。七五年にケソン市と周辺の地を併合して大マニラ(マニラ首都圏)を構成。

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改訂新版 世界大百科事典 「マニラ」の意味・わかりやすい解説

マニラ
Manila

フィリピン共和国の首都。人口158万,メトロ・マニラの人口1035万(ともに2003)。ルソン島南西部,天然の良湾マニラ湾の東岸に立地し,パシグ川が東西に流れて市内を南北に二分する。年平均降水量は1791mm,その大半が南西モンスーンの卓越する6~11月に集中する。ルソン島屈指の農業地帯である中部ルソン平野と南部ルソンの丘陵地帯を後背地にもつ。

 1571年にスペイン総督レガスピが植民地経営の根拠地をここに移して以降,300年以上にわたりスペインのフィリピン支配と極東におけるスペイン・カトリック権力の中枢で,かつメキシコと東洋を結ぶガレオン船の母港であった。またスペイン人到来以前から中国人商人が訪れ,16~17世紀には日本の商人も訪れ,日本人町(南洋日本人町)が形成された。当時はパシグ川河口左岸に築構された城郭都市イントラムロスIntramurosが中心で,そこには要塞はもとより総督府,大司教府,カトリック各派教会,大会堂,市会会館,公立学校,大学,病院などが立ち並び,スペイン人のみがこのなかで生活した。フィリピン人や中国人集落(パリアン)はその周辺に配置された。1834年のマニラ開港後国際貿易がしだいに活発化し,城郭の外側が繁栄して19世紀末までに人口20万の大都市に成長した。アメリカの領有後もさらに発展が続き,植民地特有の首位都市の傾向をいっそう強めた。イントラムロスの成長は19世紀末までに限界に達し,都心機能を果たすのは無理となった。第2次大戦中の破壊がひどく,戦後はいち早く一大スラムと化してしまった。こうして戦後期までにでき上がったマニラの都心部は,パシグ川右岸の卸売業,小売業,金融機関の集中するビノンド,サンタ・クルス,キアポ地区,大統領宮殿のあるサン・ミゲル地区と,左岸に展開する新しい官公庁地区,ホテル,高級ショッピング街のエルミタ,マラテ地区とが連担したものであった。

 マニラ港はパシグ河口をはさんで北港と南港に分かれ,前者に内航船,後者に外航船が接岸するが,この港湾地区と都市地区の間にはさまれたトンド,ニコラス,イントラムロス地区がスラムを含む低所得階層の住宅地帯を形成し,パシグ川沿いのパコも中級住宅地区からしだいに下級住宅地区化した。他方,高級住宅地区はケソン・シティ,サン・フアン,マカティMakati町などマニラ郊外へと東進した。市域面積が32km2でしかないマニラの発展が,早くから市域を越えて隣接市町に拡大したことはいうまでもない。とくにそれが顕著となるのは1950年代以降であった。例えばマニラ市の人口は1948年から80年にいたる32年間に98万から163万へと65万の増加をみたにすぎないが,ケソン・シティでは11万から117万へと10倍以上の大幅増加をみたし,カロオカン,マカティなどの周辺地域も同様であった。こうして60年代には大マニラ,首都圏マニラという新しい概念が登場し,75年にはついにマニラ市を含む4市13町が合併,ここにメトロ・マニラが公式に誕生し,マルコス大統領夫人イメルダがその初代知事に就任した。この間に都心地区の分化が起こった。1960年代から建設が始まっていた近代都市マカティに,金融機関,外国企業,在外公館,高級ショッピング・センター,ホテル,レストラン街といった近代的CBD(中心業務地区)構成要素がすべて吸収され,ビノンドやエルミタ地区の成長力がおおいに減退した。
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百科事典マイペディア 「マニラ」の意味・わかりやすい解説

マニラ

フィリピン,ルソン島中部西岸にある同国の首都。マニラ湾に臨む港湾都市で,海空交通の要地。貿易が盛ん。中心はマラカニアン宮殿のあるサン・ミゲル。商業地ビノンドやエルミタなどの地区に分かれる。しかし1950年代以降,ケソン・シティ,サン・フアン・シティ,パサイ・シティ,マカティなど周辺地区へ市街が拡大し,都市機能も分散された。1976年,これらを含む4市13町からなるメトロ・マニラが新首都となった。家具,皮革,セメント,繊維などの工業が行われる。〈東洋の真珠〉と呼ばれる美しい都市で,パシグ川が貫流。聖セバスティアン教会,聖トマス大学(1611年創立)はじめ数大学がある。16世紀後半スペインのフィリピン植民地支配の中心およびカトリック勢力の中核となった。ガレオン船の建造地としても知られる。江戸時代における御朱印船の往来など日本との縁も深い。165万2000人(2010)。メトロ・マニラは1000万人を超える。
→関連項目フィリピンフィリピンのバロック様式教会群ルソン[島]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マニラ」の解説

マニラ
Manila

フィリピン共和国ルソン島の中部西岸にある都市。1571年にスペインが根拠地を築いて以来,フィリピンの中心都市。首都機能は1976年に4市13町を合併して誕生したメトロ・マニラにある。天然の良港に恵まれ,国際貿易港として発展した。スペイン統治期に城郭都市イントラムロスが建設され,周囲に中国人居住区などの商業地区が形成された。1898年のアメリカ領有後,城郭都市外に首都機能が拡大し,パシグ河北岸が金融・商業地区として発展した。1942~45年の日本占領の末期に集中砲火をあびて疲弊し,戦後マカティ副都心に金融・商業の中心が移った。地方人口の流入などの人口増加に対処しきれず,スラム化,大気汚染などの都市問題に悩まされている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「マニラ」の解説

マニラ

フィリピンのルソン島南西部マニラ湾に臨む都市。16世紀後半からスペインのフィリピン植民地化の拠点となり,メキシコ・中国との交易で繁栄。17世紀初期にはディラオ,サンミゲルの二つの日本町も成立した。1898年米西戦争の結果アメリカの領有となり,市街はめざましい近代化をとげたが,第2次大戦中日本軍が占領,末期の大規模爆撃により壊滅的打撃をうけた。戦後は首都圏が拡大,日本の企業進出や観光客も多い。1975年ケソンなど4市13町をあわせてメトロ・マニラが誕生,初代知事にイメルダ・マルコス大統領夫人が就任した。フィリピン共和国の首都。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マニラ」の解説

マニラ
Manila

フィリピン,ルソン島のマニラ湾に臨む港湾都市
1571年スペイン人のレガスピが建設し,以後スペインのフィリピン植民統治の中心地,商業上の重要な拠点として栄えた。1898年米西(アメリカ−スペイン)戦争でアメリカ領となったが,1946年の独立後,政治の中心市となった。

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