精選版 日本国語大辞典 「マムルーク朝」の意味・読み・例文・類語
マムルーク‐ちょう ‥テウ【マムルーク朝】
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エジプト、シリア、ヒジャーズを支配したトルコ系マムルークのスンニー派イスラム王朝(1250~1517)。首都はカイロ。バフリー・マムルーク朝(1250~1390)とブルジー・マムルーク朝(1382~1517)の前後2期に分けられる。1250年アイユーブ朝のトルコ系マムルークが反乱を起こし、宮廷女奴隷出身のシャジャル・アッドゥッルが実権を握り、夫のアイバクが初代スルタンとなった。第5代のバイバルス1世はシリアで、モンゴル軍、十字軍、イスマーイール派に対して活発な遠征を行うと同時に、駅逓(えきてい)制をはじめとする内政を整備し、王朝の基礎を築いた。また、モンゴル軍によりバグダードを追われたアッバース朝カリフを擁立し、スンニー派四法学派を公認した。王朝の最盛期は14世紀初頭のナーシルの時代で、安定した農業生産を背景に、インド洋と地中海を結ぶ中継貿易によって繁栄を極めた。
スルタン位は世襲制であったが、ナーシル以後は後継者争いが続き、政権は不安定であった。1382年には、カフカス出身のチェルケス人マムルークのバルクークが即位し、ブルジー・マムルーク朝(スルタンの大多数がチェルケス人であることからチェルケス〈シルカシア〉時代ともよばれる)を開いた。この時代は、スルタン位をめぐって軍閥相互の勢力争いが激化した。また、14世紀なかば過ぎから黒死病(ペスト)が蔓延(まんえん)して人口が減少し、同時に農業生産の低下、飢饉(ききん)、遊牧アラブの反乱などが加わり、経済状態が悪化した。15世紀初頭にはティームールによりシリアが一時占領された。15世紀前半のバルスバイはキプロス占領など勢力を伸長したが、1498年のバスコ・ダ・ガマのインド航路開拓によって中継貿易に大きな打撃を受けた。1516年アレッポ北方のマルジュ・ダービクの戦いで、セリム1世率いるオスマン・トルコ軍に敗れ、翌年にはカイロを占領され滅亡した。
王朝治下のカイロはバグダードにかわりイスラム世界の中心となって繁栄したが、それは当時最終的にまとめられた『アラビアン・ナイト』からもうかがわれる。優れた著作家が輩出したが、マクリージー、イブン・イヤースなどの歴史家、ヌワイリー、ウマリー、カルカシャンディーなど百科事典家のほか、近・現代のイスラム改革運動にも影響を与えたイブン・タイミーヤが現れた。カーイト・バーイ廟墓(びょうぼ)をはじめ壮麗な建造物もこの王朝の特色で、各地に残存している。
[菊池忠純]
『嶋田襄平編『イスラム帝国の遺産』(1970・平凡社)』▽『大原与一郎著『エジプト、マムルーク王朝』(1976・近藤出版社)』
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1250~1517
アイユーブ朝のトルコ人やチェルケス人の奴隷軍人(マムルーク)が政権を握った王朝。エジプトに興り,シリアにも進出。都はカイロ。1382年を境に前期(バフリー・マムルーク朝)と後期(ブルジー・マムルーク朝)とに分かれる。ことに前期に英主が輩出し,十字軍を破り,モンゴル軍を阻止した。戦乱は多かったが,東西通商で市況は繁栄し,建築など見るべきものを多く残した。オスマン帝国に征服された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…なおインドのイスラム建築については〈インド美術〉の項目を参照されたい。 アラブ世界のマムルーク朝(1250‐1517)の建築は,単純素朴ではあるが大規模で安定感のある様式や,モスク,墓廟,マドラサなどの複合的構成,しっくい,モザイク,特に色大理石による装飾(アブラクablaq),ムカルナスを多用した装飾などを特徴とする。代表的遺構としては,スルタン,カラーウーンの墓廟とマドラサをはじめとする建築群(1285),スルタン,ハサンのモスクとマドラサ(1359)が挙げられる。…
…彼らの運送したインド綿布(13世紀中ごろと推定される糸車の導入で生産が増加した)は,東アフリカで黒人奴隷や象牙の購入に用いられるなど,インド洋全域への最も重要な商品であったが,特に東南アジア産の丁子(クローブ),ニクズク(ナツメグ)などの香料入手に不可欠で,彼らは新興のマラッカ王国で大きな影響力をもった。 15世紀初めに経済危機に悩むエジプトのマムルーク朝が香料の国家専売制を導入したことが,結果的に15世紀末のポルトガル人のアフリカ南端迂回ルートによるインド洋への進出を招いた。船上での火器の使用技術に優れたポルトガルの香料貿易独占政策にもかかわらず,16世紀後半には紅海経由のコショウ貿易が復活した。…
…しかしこの繁栄も政治的不安定のために長続きせず,エジプトおよびその首都カイロに主導権を取られてしまった。 13世紀の中ごろにアイユーブ朝に代わってマムルーク朝が成立したが,マムルーク朝(1250‐1517)時代のシリアは,モンゴルの侵入,疫病の流行,マムルーク朝諸侯間の抗争,15世紀初頭のティムールの侵入,地中海貿易での地位の低下,そして経済力の全体的衰退などにより,徐々にその重要性を失っていき,停滞の時期に入っていった。【湯川 武】
【オスマン帝国時代】
オスマン帝国(1299‐1922)は,マムルーク朝から1516年にシリアを奪い,17年には同朝を倒してエジプト,ヒジャーズの支配権を得たが,イスタンブールの中央政府にとって,シリアの重要性には時代的・地域的変化がみられる。…
※「マムルーク朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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