マリア・クリスティナ(スペイン王フェルナンド7世の王妃)(読み)まりあくりすてぃな(英語表記)María Cristina

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

マリア・クリスティナ(スペイン王フェルナンド7世の王妃)
まりあくりすてぃな
María Cristina de Borbón
(1806―1878)

スペインフェルナンド7世王妃。両シチリア王フランチェスコ1世の娘。1833年、フェルナンド死後、自由主義者に支持されて娘イサベル2世の摂政(せっしょう)となり、カルリスタ戦争勝利を収めるとともにブルジョア的諸改革を行った。しかし、保守的傾向を強め、1840年の進歩派によるクーデターで摂政を追われて亡命。1843年に帰国、超保守派として政治に関与し、1854年の進歩派のクーデターでふたたび亡命した。アルフォンソ12世による王政復古後もスペインでの定住は許されず、1878年8月22日、フランスル・アーブル死去

[中塚次郎]


マリア・クリスティナ(スペイン王アルフォンソ12世の王妃)
まりあくりすてぃな
María Cristina de Habsburgo-Lorena
(1858―1929)

スペイン王アルフォンソ12世の王妃。オーストリア大公の家門に生まれる。幼時よりプラハの尼僧院で教育を授けられ、1879年に結婚。1885年の同王夭逝(ようせい)時、懐妊中で、王子出生の場合その摂政(せっしょう)となる意をもって「摂政女王Reina Regente」という変則的地位についた。翌1886年王子出生によりただちにアルフォンソ13世として即位宣言がなされ、1902年の同王の親政開始まで母后摂政を行った。その深い知性と貞潔は宮廷内の信望を高めたが、行き詰まりをみせ始めた寡頭的・人為的二大政党制にたつ国家(「カーノバス体制」という)の統治には消極的で、幼王の教育に専念した。

山本 哲]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

マリア・クリスティナ
María Cristina

[生]1806.4.27. ナポリ
[没]1878.8.23. サンタドレス
スペイン王フェルナンド7世の妃。両シチリア王フランチェスコ1世の娘で 1829年フェルナンドと結婚。フェルナンド7世の没後,娘イサベル2世が即位すると,その摂政となった (1833~40) 。カルリスタ戦争には自由主義者を率いてドン・カルロス (1788~1855) を敗走させた (39) が,40年 B.エスパルテロ将軍の政権掌握とともにフランスに亡命した。

マリア・クリスティナ
María Cristina

[生]1858.7.21. グロースゼーロウィッツ
[没]1929.2.6. マドリード
スペイン王アルフォンソ 12世の妃。オーストリア大公カルル・フェルディナントの娘。 1879年アルフォンソと結婚。アルフォンソ 12世の没後,息子アルフォンソ 13世の摂政となった (1866~1902) 。その治世にアメリカ=スペイン戦争によりによりキューバの独立を認めてアメリカ植民地を失い,フィリピン,グアムを譲渡した (1898) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

20世紀西洋人名事典 の解説

マリア・クリスティナ
María Cristina


1858 - 1929
スペイン国籍。
スペイン王アルフォンソ十二世王妃。
オーストリア生まれ。
別名María Cristina de Habsburgo-Lorena。
幼時よりプラハの尼僧院で教育を受け、1879年に結婚。1885年王が夭逝時に、懐妊中で王子出生の場合その摂政となる位をもって「摂政女王」という変則的地位に就く。1886年王子出生により直ちにアルフォンソ13世として即位宣言がなされ、1902年同王の親政開始まで母后摂政を行う。深い知性と貞潔で宮廷内の信望を高めたが、行き詰まって、寡頭的、人為的二大政党制に立つ国家「カーノバス体制」の統治には消極的で王の教育に専念した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

367日誕生日大事典 の解説

マリア・クリスティナ

生年月日:1858年7月21日
スペイン王アルフォンソ12世の妃
1929年没

マリア・クリスティナ

生年月日:1806年4月27日
スペイン王フェルナンド7世の妃
1878年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報