ミゲル
Miguel, Maria Evaristo de Bragança
[生]1802.10.26. ケルス
[没]1866.11.14. ブロンバハ
ポルトガル王位要求者。通称ドン・ミゲル。ジョアン6世 (温厚王)の第3子。ブラジルで成長し父に伴われて帰国 (1821) 。父王は留守中に布告された立憲制を承認したが,ミゲルはこれに反対してクーデターを起し,1821~24年反動的軍事独裁を行なって失敗,ウィーンに亡命。 26年3月父王が没し,ミゲルの長兄でブラジル皇帝ペドロ1世は,ミゲルと結婚させるという前提で娘マリア・ダ・グロリアをマリア2世としてポルトガル女王にしたが,28年帰国したミゲルは,反動勢力の支持を得てみずから王位についた。ペドロはポルトガルに戻り,ミゲルと戦ってオポルトを占領 (32) ,内乱の鎮圧に努めた。またスペイン,イギリス,フランス各国もマリア2世の正当性を認めたため,ミゲルはエボラで降伏,ポルトガル王位へのすべての要求を放棄し (34.5.) ,ローマに亡命。のちバーデン近郊に移りその地で没した。
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ミゲル【Dom Miguel】
1802‐66
ポルトガル王ジョアン6世の三男。1820年の革命から生まれた立憲王制に反対して,24年オーストリアに亡命。26年父王の死によりポルトガル王ペドロ4世として即位した兄のブラジル皇帝ペドロ1世は同年,王位を幼少の娘(マリア2世)に譲り,ドン・ミゲルを摂政に迎えた。しかし,ドン・ミゲルは絶対専制君主として反動政治を行い,マリア2世を擁立する自由主義陣営との間に内戦(1834‐36)を招き,敗れて再度亡命した。
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ミゲル
ポルトガル王ジョアン6世の子。父の政治改革に反対し,1824年オーストリアへ亡命。父の死後,兄ブラジル皇帝ペドロ1世の娘マリア2世の摂政とて迎えられ帰国した。1828年王位を奪って即位を宣言し,反動的政治を行ったが,内戦(1834年―1836年)を招き失脚してドイツに亡命した。
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ミゲル
生年月日:1802年10月26日
ポルトガル王位要求者
1866年没
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世界大百科事典内のミゲルの言及
【ポルトガル】より
…26年ジョアン6世が没すると,ブラジル皇帝(ペドロ1世)となっていた王位継承者ドン・ペドロは,1822年の急進的な憲法を廃し,王権を強化した憲章を制定して王位をマリア2世に譲った。この立憲王政派に対して絶対王政の回復を図るジョアン6世の次男ドン・ミゲルDom Miguelは,28年王位を簒奪し,自由主義者を弾圧した。こうして,両陣営の間に内戦が勃発したが,2年後自由主義陣営が勝利を収めた。…
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