ムスリム連盟(読み)ムスリムれんめい

精選版 日本国語大辞典 「ムスリム連盟」の意味・読み・例文・類語

ムスリム‐れんめい【ムスリム連盟】

一九〇六年、インド国民会議派に対抗して結成されたイスラム政党ジンナー総裁の一九四七年、パキスタン分離独立を実現したが、のち衰退。全インドムスリム連盟。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「ムスリム連盟」の意味・読み・例文・類語

ムスリム‐れんめい【ムスリム連盟】

All India Muslim League》1906年、インド国民会議派に対抗して結成された政治組織。ジンナーが総裁の1947年、パキスタンの分離・独立を実現したが、のち衰退。全インド‐ムスリム連盟。回教徒連盟

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ムスリム連盟」の意味・わかりやすい解説

ムスリム連盟【ムスリムれんめい】

パキスタンの政党。元来は1906年インドで結成された,インドにおける代表的ムスリム(イスラム教徒)政党で,当時の正称は全インド・ムスリム連盟。インド内でのムスリムの社会的地位の向上を目標にアーガー・ハーンらが指揮し,国民会議派統一行動をとった。しかしジンナーの指導下で1940年にムスリム国家の分離独立をスローガンとするにいたった。1947年8月パキスタンは独立を達成。1958年アユブ・ハーンクーデタにより解散させられたが,1962年新憲法下に復活した。なお,バングラデシュアワミ連盟は1949年にムスリム連盟から分離結成されたもの。
→関連項目アユブ・ハーンパキスタン南アジアミントー

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版 「ムスリム連盟」の意味・わかりやすい解説

ムスリムれんめい【ムスリム連盟 All India Muslim League】

1906年12月,東インドダッカで結成されたムスリムの政治組織。正式には全インド・ムスリム連盟。19世紀末ごろから,インド国民会議派イギリスに対して自治代議制についての要求を高めたが,これに対して,ムスリム間にヒンドゥー優位との不安が高まり始めた。こうしたムスリムの不安を代弁していたのが,サイイド・アフマド・ハーンであった。1905年のベンガル分割令に対する反対運動の中でアリーガル大学を中心としてムスリム独自の政党設立が試みられた。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムスリム連盟」の意味・わかりやすい解説

ムスリム連盟
むすりむれんめい

インド・ムスリム連盟

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ムスリム連盟」の解説

ムスリム連盟(ムスリムれんめい)

全インド・ムスリム連盟

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ムスリム連盟」の解説

ムスリム連盟
ムスリムれんめい

全インド−ムスリム連盟

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムスリム連盟」の意味・わかりやすい解説

ムスリム連盟
ムスリムれんめい

インド・ムスリム連盟」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典内のムスリム連盟の言及

【インド[国]】より

…民族運動の主導権争いはこうして共産党など左翼勢力に不利な形で決着した。 もうひとつは,ムスリム(イスラム教徒)を代表する政党であるムスリム連盟が戦時中に非常にその力を伸ばして国民会議派とならぶ位置を得たことである。連盟はムスリムが多数を占めるパキスタンという名称の国家をインドのムスリム多住地域につくること,つまり植民地インドがインドとパキスタンの二つに分離して独立することを要求するようになったから,連盟の勢力拡大は事態がインドの分割に向けて大きく進んだことを意味した。…

【インド】より

…一方インド人の独立運動は国民会議派が主導して進められ,ガンディーの説くサティヤーグラハという非暴力抵抗が運動の精神となったが,20年代以後には社会主義が叫ばれ,また農民運動と労働運動が独立運動の要素となった。 第2次世界大戦後,イギリス側は行政・軍事の面でインドを統治する実力を失い,高等文官を供給することができず,あらゆる官職のインド人化が急速に進んだが,パキスタンの分離を叫ぶムスリム連盟はムスリムを代表する政党と見なされ,国民会議派と激しく対立したため,インド独立は遅れた。46年には内閣使節団構想に基づいてインド人の中間政府と憲法制定会議が発足したが,後者にはムスリム連盟は参加せず,47年にインド,パキスタン2国が自治領として独立した。…

【国民会議派】より

…そして初め国民会議派に所属して活動していた社会主義者や共産主義者たちは,45‐47年にこれから離れ,それぞれ独自の政党へと結集していく。国民会議派は決して特定の宗教・宗派の成員のみから成るコミュナルな組織ではなく,すべての住民・領域を統合した形でインドをイギリスから独立させることを望んだが,1930年代後半から急速にムスリム大衆を把握し,ムスリム多住地域の分離を強調するM.A.ジンナー指導下のムスリム連盟との長い交渉を成功させ得ず,結局は現実的な立場からインドの分割を容認することになる。 47年の分離独立後,国民会議派は中央およびすべての州の政権を掌握し,ネルーとパテールの共同による卓越した指導力で安定した政府を樹立し,また外交面では米ソいずれにも偏らない非同盟政策を推進することで新興の第三世界諸国の中での地位を高めた。…

【コミュナリズム】より

…これに対してはガンディーの断食によって一定の手直しが加えられたものの,基本的にはこの選挙制度は35年統治法の中に成文化され,これが47年8月のインド・パキスタン分離独立への一つの法的な水路を準備したともいえる。その過程で,ジンナーの指導下でイギリスの分断政策を利用しつつ組織的拡大を遂げ,コミュナリズム思考の一つの帰結ともいうべき〈二民族論〉で理論武装したムスリム連盟(1906創立),一部の国民会議派指導部からの支持を受けつつ,ヒンドゥーの優位性を強調して〈アカンド・ヒンドゥスターン(不可分のインド)〉を掲げるヒンドゥー大連合(1915創設)や民族義勇団Rāṣhtrīy Swayansewak Sangh(RSS,1925創設)の活動が大衆のコミュナリズム感情をかきたてていった。また会議派自体にしても,ネルーはじめその指導部はインド人としての民族意識がインド社会に十分に浸透したと錯覚することで,コミュナリズムの問題に適切かつ果断に対処することができず,そのいっそうの深刻化を助けたとの指摘も無視できない。…

【パキスタン】より


[政治史]
 イギリス領インドにムスリムの独立国家を建設しようとする運動は,1930年にさかのぼることができる。この年のムスリム連盟の年次大会で,詩人・思想家イクバールは〈ムスリム国家〉構想を提唱,しかしその内容は不明確な点を含んでいた。40年,同連盟のラホール年次大会で,連盟議長ジンナーは,インドは文化,伝統をまったく異にするヒンドゥー,ムスリム二つの民族から構成されているという〈二民族論〉を打ち出し,これに基づき少数派のムスリムのための分離独立国家の樹立を主張,ラホール決議として採択された。…

※「ムスリム連盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

推し

他の人にすすめること。また俗に、人にすすめたいほど気に入っている人や物。「推しの主演ドラマ」[補説]アイドルグループの中で最も応援しているメンバーを意味する語「推しメン」が流行したことから、多く、アイ...

推しの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android