ナポレオンによる1812年のロシアへの遠征。ロシアでは一般に祖国戦争Otechestvennaya voinaという。ロシア皇帝アレクサンドル1世は従来のいきさつからナポレオンの大陸封鎖に従った。しかしそれはロシアの経済体制を根本的にゆるがすことであった。したがってアレクサンドル1世は密貿易を黙認し,1810年にはイギリスとの貿易を再開し,対フランス戦争の準備も進めた。一方,ナポレオンの参謀の多くは対ロシア戦争に批判的であったが,征服欲にかられたナポレオンは短期戦で終了しうると考え,59万1000の〈大陸軍〉を率いて,12年6月,ネマン川を渡り,モスクワ遠征を開始した。だが大陸軍のうち24万は外国人で最初から士気は上がらず,頼みのフランス人兵士も近衛軍団を除いては,士気の点で外人部隊と大差はなかった。これを迎えたロシア軍はバルクライ・デ・トリーの第1軍12万7000,バグラチオンの第2軍4万8000,ほかに4万6000の将兵から成っていた。フランス軍は8月スモレンスク,9月にボロジノの戦を経て,9月14日,モスクワを占拠した。
その間,バルクライ・デ・トリーに代わって総司令官に就任したM.I.クトゥーゾフは決戦を避け,兵力を温存して敵軍の消耗を待つことを根本方針とした。これによって遠征軍は物質的,精神的に致命的な打撃をこうむった。兵站線(へいたんせん)はのび,兵員,武器,弾薬,糧食の補給は困難となり,軍団の復元力は衰える一方であった。モスクワに入城したナポレオンは大火によって宿舎と食糧を奪われ,アレクサンドル1世との和平交渉をあせった。しかしアレクサンドル1世に無視され,ナポレオンはついに後退を決意し,10月19日,悲惨な退却への第一歩を踏み出した。前途には予想以上の厳しい〈冬将軍〉が待っていた。クトゥーゾフの〈側面行進〉はフランス軍縦隊の側面にはりついて離れず,奇襲を繰り返した。さらに農民によるゲリラ攻撃も加わり,ネマン川に帰着したフランス軍は2万に達しなかった。このモスクワ遠征の失敗によって,ナポレオン体制からの解放の端緒がヨーロッパに訪れた。
執筆者:山本 俊朗
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1812年にナポレオン1世が行ったロシアに対する遠征。ロシア遠征ともいう。ナポレオンは、1806年11月のベルリン勅令で大陸封鎖を宣言し、翌年のティルジット条約によってロシアにも協力を約させたが、穀物輸出国であるロシアがこれに従わなかったため、12年、64万の大軍を率いてロシアに攻め込んだ。兵力の半分はポーランド、オーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン等の同盟国軍であった。ロシア側は、スウェーデン、イギリス、スペインと同盟を結ぶ一方、バルクライ・デ・トーリ将軍麾下(きか)の第一西部軍(12万7000)、バグラチオン将軍の第二軍(4万5000~4万8000)、トルマソフ将軍の第三軍(4万3000~4万6000)など約23万をもって防衛にあたった。同年6月24日、ネマン川を越えたナポレオン軍は、ビルノ、スモレンスクを経て進撃し、総司令官クトゥーゾフ将軍の率いるロシア軍と9月7日ボロジノで交戦、多大の損害を出しながらも、9月14日モスクワに入城した。
だが、ナポレオンの和平交渉の呼びかけはアレクサンドル1世によって無視され、またモスクワが原因不明の大火で炎上して糧食が乏しくなったのみならず、冬も間近に迫ったので、ナポレオンは10月19日モスクワ撤退に踏み切った。退却は、ロシア軍の追撃と農民のゲリラ攻撃により悲惨を極め、ネマン川を越えて逃げ帰ることのできたのはわずか2万5000人にすぎなかったという。捕虜10万を含めて55万人がこの遠征で失われたともいわれる。遠征は、2年後のナポレオン没落の遠因となった。
[栗生沢猛夫]
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1812年5月ナポレオンは40万の中央軍を指揮し,3軍に分かれてロシアに遠征した。9月14日モスクワを占領したが,焦土作戦をとったロシア軍のため,糧道を奪われて退却のやむなきに至った。
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