モスクワ(英語表記)Moskva

精選版 日本国語大辞典 「モスクワ」の意味・読み・例文・類語

モスクワ

  1. ( Moskva ) ロシア連邦の首都。ロシア平原中央部にあり、オカ川の支流モスクワ川に面する。旧王宮クレムリンと赤の広場を中心に道路が伸び、環状線がそれらを連ねる。一三世紀モスクワ公国の首都となり、一五世紀ロシア国家成立に伴いその首都となった。一七一二年サンクトペテルブルクに遷都したがロシア革命後の一九一八年、再び首都となった。モスコー

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改訂新版 世界大百科事典 「モスクワ」の意味・わかりやすい解説

モスクワ
Moskva

ロシア連邦の首都。またモスクワ州の州都でもある。ロシア連邦の政治,経済,学術,文化,交通の中心であり,かつては社会主義圏全体の中枢でもあって,東欧社会主義諸国のCOMECON(コメコン)(経済相互援助会議)の本部がここに置かれていた。面積約1000km2,人口1010万(2002)。

ヨーロッパ・ロシアのほぼ中央,北に広がる針葉樹林帯と南につづく混合樹林帯の境界上の北緯55°45′,東経37°42′に位置している。これはサハリンの最北端よりさらに北に寄っている。ボルガ川の支流オカ川のさらに支流のモスクワ川が市内をS字形に蛇行しながら貫流している。カスピ海に注ぐボルガ川の河口から約2500kmの上流にあるにもかかわらず,標高はわずか120mにすぎない。気温は1月が最低で月平均-10.2℃,7月が最高で18.1℃であるが,記録に残る最低気温は-42℃,最高気温は37℃である。年間の平均降水量は588mmで,夏季にかたよっている。夏には日照時間も多く,湿度は比較的低い。逆に冬は曇った日がつづき,12月の平均日照時間は月間20時間,1月は30時間をかぞえるのみである。雪はふつう10月から降り始めるが,根雪は平均して11月26日から4月11日まで,積雪量は冬の終りに30~35cm程度である。風は冬に南西風,夏には北西風が卓越する。日本との時差は6時間である。

モスクワは,他の多くのロシアの古い都市と同様に,クレムリンからはじまったという歴史的条件を反映して,クレムリンならびに赤の広場Krasnaya ploshchad'をはさんでクレムリンと向かい合う旧商工業区キタイ・ゴロドKitai-gorodを中心とする環状道路が樹木の年輪のように幾重にも都心部を取り巻いている。その最も外側のモスクワ環状自動車道路(総延長109km)が1960年以来,市の境界の役割を果たしている。モスクワの市街,とりわけその都心部には,中世以降さまざまな時期の建造物と現代的な建築が混在して独特の景観を呈している。

 20におよぶ塔と城門をそなえた厚い煉瓦造のクレムリンの城壁は,15世紀の末につくられたものであり,クレムリン内のウスペンスキー聖堂(15世紀)や赤の広場のワシーリー大聖堂(16世紀)をはじめネギ坊主形の屋根をもつ教会がまだ市内各所に保存されている。18世紀以後,富裕な貴族や商人の建てた古典主義スタイルやロマネスク様式の邸宅は現在,図書館や博物館などの公共施設に転用されており,他方クレムリンから北西にのびるトベリ通り(旧ゴーリキー大通り)や西に向かうノーブイ・アルバート通り(旧カリーニン通り)をはじめ目抜きの道路の両側にはホテル,アパートなどの近代的な高層建築がたち並んでいる。街区の整理はかなりすすんでいるが,それでもたとえばクレムリンに近いクズネツキー・モストやアルバート通りのような横町や裏通りは,狭い曲がりくねった街路と低い家並みに19世紀的な雰囲気をただよわせている。政府の中枢的な機関はクレムリン,キタイ・ゴロドとその周辺に集中しており,その付近には古くからのホテル,デパート,さらにはボリショイ劇場をはじめとする文化的な施設が多い。1971年から始まった総合発展25ヵ年計画にもとづき,工場などの産業施設はなるべく市外に移転させるとともに,人口の急増に対応すべく南西部のユーゴ・ザーパドなど,かつての郊外の随所に大規模な住宅団地がつくられ,10階以上のアパート群の建設がすすんでいる。人口密度(約8700人/km2以上)はかならずしも低くはないが,住宅が完全に高層化していることもあって,市内にはゴーリキー公園やソコーリニキ公園などの公園や並木の緑が多く,都心をはずれると市域内にまだ自然のままの森が広がっている。さらに市境をなしている環状自動車道路の外側には,平均して20km幅の緑地帯が設けられ,市民はそこでピクニックやキノコ狩りを楽しむことができる。

 ロシア革命以前は旧市街が17の警察区から成っていたが,革命後,根本的に区分けが変更され,今では都心から放射状にのびる幹線道路に沿って,あたかも円形のパイを細かく切り分けたときのように,それぞれが細長い扇形をした31の行政区と,唯一の飛地である環状自動車道路外の1区に分けられている。

モスクワは全国の交通の中心の役割を果たしている。レニングラード街道(ショッセとも呼ぶ),ヤロスラブリ街道,ワルシャワ街道など行先の主要な都市の名を冠した幹線道路がモスクワから四方八方にのび,同様に目的地の名をとってレニングラード駅,キエフ駅,カザン駅などと呼ばれる鉄道の始発駅は九つをかぞえる。モスクワ~サンクト・ペテルブルグ間は夜行列車の〈赤い矢〉が運行しているが,1984年からは新幹線が開通して所要時間がそれまでの半分の4時間に短縮された。モスクワ川,ならびにモスクワ川と北のボルガ川を直接結ぶモスクワ運河による河川交通も盛んである。外国や国内の遠隔地との連絡には近年飛行機が利用されることが多く,民間航空のための空港として郊外のシェレメチエボ,ドモジェードボ,ブヌコボ,ブイコボの四つが使われている。1967年に東京との間に定期便が開設されて以来,この線は日本とロシアはむろんのこと,西欧や東欧諸国とを結ぶ役割も兼ねている。

 市内交通で中心的な地位を占めているのは地下鉄である。都心部をかこむ第2環状道路であるサドーボエ・コリツォーにほぼ並行して地下鉄の環状線が走り,それを縦横に横切る形で7本の線が市内の各地を連絡している。地下鉄の駅は100を超え,さらに新線と新駅の工事もすすんでいる。地下鉄は概して非常に深く,一つ一つの駅がそれぞれの場所にちなんだ個性的な壁画や彫像で飾られている。バスやトロリーバスも多くの路線をもっているが,路面電車は相対的にその意義を減じつつある。

モスクワの性別人口構成は,男子に比べて女子がはるかに多く(1975年に男1000人に対して女1222人),子どもの比率は全国平均より少なく,逆に老年人口比率は全国平均を上回っている。1世帯当りの人数は3.2人である。離婚率が非常に高く,1987年には人口1000人当り結婚登録件数10.5に対し,離婚登録件数は4.6をかぞえた。モスクワ市の総人口に対するロシア人の割合は1989年の統計で89.7%,ついでウクライナ人2.8%,ユダヤ人2%,タタール人1.8%,ベラルーシ人0.8%などとなっているが,ロシア人の比率は年々低下する傾向にある。他の共和国やロシア連邦中の諸地方からのモスクワ転入に対してはきびしい法的制限が設けられてきたため,数字にはあらわれないが,親戚縁者を頼って,なかば不法に市内に滞在している人口も少なくない。さらにクラスノゴルスク,ムイチシチ,リュベルツィなど近郊のベッドタウンから市内に通勤している者も多い。

 モスクワの就業人口は総人口の約60%であるが,1985年におけるその主要な内訳をみれば,製造業25.1%,研究機関19.6%,建設10.5%,商業9.4%,交通8.1%,教育7.1%,共産党と諸官庁5.2%などとなっていた。モスクワでは自動車,航空機のほか電子機器などがつくられているが,なかでも最大の工場は〈ジル〉と呼ばれる乗用車を生産するリハチョフ記念自動車工場で,〈モスクビチ〉をつくるコムソモール自動車工場,発電機やクレーンなどの建設機械を製造するディナモ電気機械工場がこれにつづいている。

 最近になって台頭してきた産業部門の一つは観光業である。外国からの旅行者を一手に引き受けているのは,国営で設立されたインツーリストと称する企業で,インツーリスト傘下の外国人専用ホテルは帝政期以来の格式の高い〈ナツィオナーリ〉〈メトロポーリ〉,スターリン的ゴシックと呼ばれる〈ウクライナ〉,現代的な〈ロシア〉〈インツーリスト〉〈コスモス〉など20を超す。そのほか各種団体の所有するホテルを加えれば,1980年代初頭のホテル総数は60,宿泊可能人員は6万に達していた。モスクワ市民の間ではボルガ,オカなどの川旅,黒海,カフカス,中央アジア,極東への旅行が人気を博している。

モスクワの市名は市内を流れる川の名に由来するが,その語源については定説がない。文献史料には1147年に初めて登場する。当時この地を領していたユーリー・ドルゴルーキーの銅像が市ソビエトの庁舎に向かい合ってゴーリキー通りに立っている。モスクワ川に北からネグリンナヤ川が合流する地点の東寄りの小丘陵に56年ユーリーによって木柵と堀をめぐらした砦がつくられた。これがクレムリンの起源である。1237-38年モンゴル・タタールの侵入軍によって砦は破壊されたが,71年にはアレクサンドル・ネフスキーの末子ダニイルDaniil Aleksandrovich(1261-1303)がこの地を本拠と定め,モスクワ大公国を開いた。当初は眇(びよう)たる小国であったが,モスクワ川を擁して交易路の要衝にあったことと,ダニイルの後を継いだ歴代の支配者の手腕によって,モスクワはしだいに領土を広げ,権威を高めていく。

 ダニイルの子のイワン・カリタキプチャク・ハーン国の宮廷にとり入ってその援助を受けて近隣のロシア諸公国の土地を手中に収める一方で,ウラジーミルから府主教を迎えたり,クレムリン内にウスペンスキー聖堂を建立したりして,モスクワを全ロシアの宗教上の中心たらしめようと努めた。14世紀後半のドミトリー・ドンスコイ大公の治世にはクレムリンの周囲に木の柵の代りに石の城壁が築かれ,城外に出城の役割を兼ねてアンドロニコフ,シーモノフなどの修道院がつくられた。それでも1382年にはキプチャク・ハーン国のトフタミシ・ハーンによって町が占領され,焼き払われた。

 15世紀にはモスクワを中心とする全ロシアの統一がすすみ,イワン3世は1480年にキプチャク・ハーン国からの完全な独立を果たすとともに,イタリアからフィオラバンティ,ソラリなどの技術者を招いて,今に伝わるクレムリンの塔と城壁,城内の多稜宮(グラノビータヤ宮殿)Granovitaya palataや石造のウスペンスキー聖堂などを造営した。当時,大公の一族と大貴族,府主教などはクレムリン内に住み,商人や職人たちはほぼ職種ごとにクレムリンの周囲に集落を形成し,15世紀末には人口は15万をかぞえた。

モスクワの都心部が現在のような骨組みを整えるのは16世紀である。まず1534-38年にクレムリンの東隣に三角形の2辺を延長する形で,キタイ・ゴロドがクレムリン同様に煉瓦の厚い城壁で囲まれた。この城壁の一部は今も残っている。このキタイ・ゴロドは早くからクレムリンのポサード(商人・職人の居住地)として開け,主として職人たちが居住して,市の立つ場所でもあった。15世紀末以来,クレムリン内に収容しきれなくなった貴族や聖職者たちの屋敷や諸官庁がここにつくられるようになったが,地方や外国からやってくる商人のための施設や商品倉庫はクレムリンに残り,赤の広場ともども,モスクワの商業の中心であることに変りはなかった。現在赤の広場の名で知られる場所は,最初は単に市(いち)(トルグtorg)と呼ばれた。17世紀末まで業種ごとに小さな木造の屋台がぎっしりとたち並んでいた。1571年の大火のあと,一時は火事の広場と称された。〈赤のkrasnyi〉(当時のロシア語では〈美しい〉を意味した)と呼ばれるようになったのは17世紀の中ごろである。1534年に広場の中央に台座が設けられ,ツァーリや総主教の臨席する儀式がここで執行されたほか,政府の重要な布告がこの壇上から読み上げられた。のちに大規模な農民暴動(ラージンの乱)の指導者ステパン・ラージンがこの台座のわきで処刑されるなど,重大な政治犯の刑場ともなった。16世紀の50~60年代カザン・ハーンに対する勝利を記念して,特徴的な円屋根群をもつポクロフスキー教会が広場の南端に建立された。まもなくこの教会の一隅にユロージビー(白痴の行者)のワシーリーが埋葬されたため,この教会はワシーリー・ブラジェンヌイ(〈至福のワシーリー〉の意)の名で市民に親しまれることになった(ワシーリー大聖堂)。ソビエト時代になってからもメーデーや革命記念日のパレードは赤の広場で行われるならわしになっている。

 1580年代から90年代にかけて,クレムリンとキタイ・ゴロドをつつみこむように,ベールイ・ゴロドBelyi gorod(〈白い町〉の意。〈ツァーリの町〉とも呼ばれた)が城壁でかこまれ,さらにその外側のゼムリャノイ・ゴロドZemlyanoi gorod(〈土の町〉の意)の周囲に土塁が築かれた。土塁にはまもなく木の柵がめぐらされた。このように防備がほどこされたのは,タタール系のクリム・ハーン国の遊牧民による襲撃がしばしば繰り返されたからである。ベールイ・ゴロドの城壁はようやく18世紀の末に取り払われて並木の遊歩道をもつ今のブリワール環状道路となり,ゼムリャノイ・ゴロドの土塁は19世紀になって撤去され,現在のサドーボエ・コリツォーとなった。はじめベールイ・ゴロドにはさまざまの職種の職人たちが住み,ゼムリャノイ・ゴロドには主として銃兵と呼ばれる世襲の職業的な兵士たちの集落が散在していた。商人や職人たちのギルドは早くから形成されていたものの独占的な特権はみとめられず,すべての住民はツァーリに対してきわめて従属的な奉仕義務を負っていた。雷帝イワン4世の恐怖政治によって貴族たちもツァーリに屈従させられた。

 リューリク朝断絶後の17世紀初頭のスムータ(動乱)の時代にモスクワはポーランド軍によって占領されたが,1612年ミーニンとポジャルスキー公の率いる国民軍によって解放され,その翌年にはゼムスキー・ソボル(全国会議)で選ばれたロマノフ朝が成立する。17世紀にはマニュファクチュアが発展し,西ヨーロッパの商人や技術者でモスクワに来住する者が増加して郊外にドイツ村ができるほどであったが,市内の家屋の大部分は木造で,空地も多く畑や草地が見られたので,この時期に西ヨーロッパから訪れた旅行者はモスクワを〈大きな村〉と呼んだ。

17世紀の末にツァーリの位についたピョートル1世はロシアの近代化に着手し,新しい首都としてペテルブルグ(現,サンクト・ペテルブルグ)を建設するが,その後もモスクワは第2の首都と考えられ,歴代の皇帝はここで戴冠式を挙げるのを例とした。主要な官庁は新都に移ったとはいえ,モスクワは全ロシアの商工業の中心地の地位を失わなかったばかりでなく,文化の領域でも1755年には国内で最初のモスクワ大学が創設され,76年にはボリショイ劇場が活動を始めた。貴族たちは依然としてこの地に居をかまえ,西欧的・開明的かつ官僚的なペテルブルグに対して,古いロシアの伝統に根ざした独自の気風をつちかった。ピョートルによる西欧化政策を批判し,モスクワ時代の家父長的な国家社会体制を理想とするスラブ主義が,主としてモスクワに住む貴族インテリゲンチャによって提唱されたのも偶然ではない。

 1812年ナポレオンの率いる大軍の来襲に際しては,住民の大部分が町を退去して抵抗し,折から起こった火災と冬の到来のために侵入軍はたちまち退却を余儀なくされた。1811年に27万余りをかぞえた人口はナポレオンの侵入時に1万人に激減したが,20年代にはもとの水準に戻り,さらに51年のモスクワ~ペテルブルグ間の鉄道開通,61年の農奴解放などを契機に,織物をはじめ軽工業を中心とするモスクワの産業は一段と発展し,19世紀末に人口は100万を突破した。その人口の大半を占めたのはロシア各地の農村から流入した大小の規模の企業で働く労働者や零細な商人たちであり,それら下層の住民の居住区をつつみこんで市域が著しく拡大すると同時に,ゴーリキーの《どん底》の舞台となるヒトロフカKhitrovkaをはじめ市内各地に貧民窟が形成された。他方,モロゾフ家,グチコフ家のように地方の農民から身をおこしモスクワで事業を営んでブルジョア化した例も多く,概して市政の実権は貴族から資本家の手に移った。19世紀を通じて文化面ではモスクワ大学出身者を中心に,すぐれた学者や思想家や作家が輩出し,演劇,音楽,美術の分野でも一種の黄金時代を現出した。また19世紀初めには市内の一部に水道がひかれ,60年代には街路にガス灯がともり,70年代からは幹線道路を軌道馬車が,そして1899年には路面電車が走り始めるなど,市民の生活と町の景観に著しい変化があった。

1905年の革命にあたってモスクワに初めてソビエトが組織され,鉄道労働者が10月政治ゼネストの口火を切り,12月の武装蜂起でも全市にバリケードが築かれて戦闘が行われた。17年の十月革命に際しては,首都で臨時政府が倒された直後から7日間にわたる武力闘争の結果,モスクワでもソビエト権力が樹立された。翌18年3月にはレーニンを首班とする新政府がペトログラードから移ってきて,モスクワはふたたびロシアの首都となるが,革命後の内戦期の混乱と食糧事情の悪化のために,1917年初めに200万を超えていた人口は20年には100万に半減した。レーニンは24年に没し,赤い広場に面したクレムリンの壁ぎわの霊廟(レーニン廟)に遺骸が安置された。この霊廟は最初木造であったが,30年に現在の大理石造に改められた。

 ソビエト当局は内戦終結後モスクワの復興に努め,市内各所の貧民窟を一掃し,宮殿や貴族の邸宅は公共の施設に変え,教会もすべて国有財産とし,宗教色の濃い町名を次々と改称した。小ブルジョアジーの活動をみとめたネップ(新経済政策)期には内戦で疲弊した経済も立ち直り,新しい社会の建設をめざして清新の気にあふれた文化的諸潮流が百花繚乱の趣を呈した。ネップに幕がおろされ,第1次五ヵ年計画が始まるころから,文化活動に対する党のしめつけも強まってくる。30年代には350万人を超えた市民の交通難を解消すべく地下鉄の建設が始められた。それと歩調を合わせて35年に発足したモスクワ市改造計画が終わらぬうちに第2次世界大戦が始まり,一時ドイツ軍は市の北西40kmの地点まで迫った。

 大祖国戦争と呼ばれたこの大戦後になって改造計画は実施されたが,ソ連が社会主義圏の盟主の地位を占めるという新しい国際情勢の中で,モスクワの意義は飛躍的に増大し,その後何回かにわたって立案された都市計画は,完了以前に予想を上回る現実の事態の進展の前に絶えず改訂を迫られている。人口だけをとってみても50年代末には600万,79年には800万を超えており,大都市特有の住宅,交通,環境汚染など深刻な諸問題に直面しながら成長をつづけている。
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百科事典マイペディア 「モスクワ」の意味・わかりやすい解説

モスクワ

ロシア連邦の首都。ヨーロッパ・ロシアのほぼ中央部,モスクワ川(ボルガ川の支流)の両側にまたがる都市。行政上は,ロシア連邦を構成する特別市。政治・経済・文化の中心。自動車,冶金,機械,化学,繊維,染料など各種の工業が行われる。鉄道13線および幹線道路が放射状に延び,モスクワ運河によってボルガ川と連絡している。1962年長さ109kmの環状自動車道路が開通。市内交通の中心である地下鉄網は1935年以後発達。ブヌコボ,シェレメチェボなど4空港がある。市の中央部にクレムリンがあり,その北東部城壁沿いの赤の広場にはレーニン廟がある。ロシア科学アカデミー,モスクワ大学ボリショイ劇場モスクワ芸術座,音楽院,ロシア国立図書館,トレチヤコフ美術館,歴史博物館など文化施設が多い。 モスクワについての最初の記録は1147年に現れるが,1156年モスクワ川とネグリンカ川との合流点に城塞(じょうさい)(クレムリン)が築かれてから集落が発達,13世紀後半以後モスクワ公国(のちモスクワ大公国)の中心として発展。15世紀イワン3世の時,キプチャク・ハーン国から独立した。ロシアの首都となり,1712年のサンクト・ペテルブルク遷都後もここでツァーリ(皇帝)の戴冠式が行われた。1812年ナポレオンによって侵攻されたが,住民は抵抗を続け,ナポレオン軍を撤退させた(モスクワ遠征)。19世紀を通じて産業・文化の面で発展し,ロシアにおける革命運動の一中心で(ロシア革命),ソ連邦成立後はその首都となった。第2次大戦中は,ドイツ軍が北西40kmの地点まで迫ったが退却。戦後は工業都市としての発展をみるが,人口のいちじるしい増加などにともなう住宅,交通,環境汚染など大都市特有の諸問題と直面し,1971年から産業施設の郊外移転,および郊外の住宅団地建設などの対策がとられている。また,戦後は社会主義国の中枢として国際的にも大きな役割を果たすようになった。1991年のソ連解体後も,ロシア連邦の首都および軍事面の中枢としての地位を保ち,現在もモスクワ軍管区指令部がおかれている。1150万人(2010)。(図)
→関連項目ソビエト連邦モスクワオリンピック(1980年)ロシア

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「モスクワ」の解説

モスクワ
Moskva[ロシア],Moscow[英]

考古学的には6世紀からスラヴ人の墳墓があり,年代記では12~13世紀にヴラジーミル大公国の東南を守る砦の町であった。1271年,ダニール公がここを中心にモスクワ公国をつくり,15~16世紀には諸公国をおさえて国土をほぼ統一し,ツァリーズムの基礎をかため,コンスタンティノープルに代わる第3のローマを自称した。18世紀初め,ペテルブルクに都が移ったが,ロシア革命以後ソヴィエト連邦の首都として復活した。大火と蜂起が多く,1610~12年にはポーランド軍,1812年にはナポレオン軍に占領されたが,1945年にはナチス・ドイツ軍を撃退,そのつど国民意識を高めた。現在はロシア連邦の首都。

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旺文社世界史事典 三訂版 「モスクワ」の解説

モスクワ
Moskva

旧ソ連および現ロシア連邦共和国の首都
ヴォルガ川の分流に臨み,ロシアの西方(ヨーロッパ寄り)に位置する。12世紀にその名が現れ,13世紀末モスクワ大公国の首都として発展を始め,15世紀同国の隆盛とともに全ロシアの首都として繁栄した。1712年以後,首都はペテルブルクに移ったが,経済・文化の中心地として発展を続けた。1812年ナポレオン1世のモスクワ遠征によって一時占領された。1917年のロシア革命による社会主義政権の成立後,翌18年に首都となった。第二次世界大戦ではナチスの猛攻にも耐えて撃退した。市の中心にあるクレムリンは帝政時代の宮殿であるが,ソ連時代および現在のロシア連邦共和国時代も政府諸機関が置かれ,ここを中心に市街は放射状に発達している。

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デジタル大辞泉プラス 「モスクワ」の解説

モスクワ

《Moskva》旧ソ連(ロシア)海軍の巡洋艦。モスクワ級ヘリコプター巡洋艦。1967年就役。1996年退役。

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世界大百科事典(旧版)内のモスクワの言及

【第三ローマ論】より

…16世紀初頭におけるロシアの政治理論。モスクワを人類史上最後のキリスト教世界帝国の首都とするもので,プスコフの僧フィロフェイがワシーリー3世らモスクワ大公にあてた書簡のなかで表明された。彼によれば,ローマ帝国とビザンティン帝国(〈二つのローマ〉)は〈真の信仰〉から逸脱したために滅亡したが,モスクワはその後継国家として,世界を終末のときに至るまで支配する,という。…

【ワシーリー大聖堂】より

…モスクワ,赤の広場にある大聖堂。イワン4世がモンゴルに対する戦勝を記念して1555‐60年に建て,勝利の仲介者である聖母マリアに捧げた。…

※「モスクワ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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