精選版 日本国語大辞典 「モスクワ」の意味・読み・例文・類語
モスクワ
- ( Moskva ) ロシア連邦の首都。ロシア平原中央部にあり、オカ川の支流モスクワ川に面する。旧王宮クレムリンと赤の広場を中心に道路が伸び、環状線がそれらを連ねる。一三世紀モスクワ公国の首都となり、一五世紀ロシア国家成立に伴いその首都となった。一七一二年サンクトペテルブルクに遷都したがロシア革命後の一九一八年、再び首都となった。モスコー。
ロシア連邦の首都。またモスクワ州の州都でもある。ロシア連邦の政治,経済,学術,文化,交通の中心であり,かつては社会主義圏全体の中枢でもあって,東欧社会主義諸国のCOMECON(コメコン)(経済相互援助会議)の本部がここに置かれていた。面積約1000km2,人口1010万(2002)。
ヨーロッパ・ロシアのほぼ中央,北に広がる針葉樹林帯と南につづく混合樹林帯の境界上の北緯55°45′,東経37°42′に位置している。これはサハリンの最北端よりさらに北に寄っている。ボルガ川の支流オカ川のさらに支流のモスクワ川が市内をS字形に蛇行しながら貫流している。カスピ海に注ぐボルガ川の河口から約2500kmの上流にあるにもかかわらず,標高はわずか120mにすぎない。気温は1月が最低で月平均-10.2℃,7月が最高で18.1℃であるが,記録に残る最低気温は-42℃,最高気温は37℃である。年間の平均降水量は588mmで,夏季にかたよっている。夏には日照時間も多く,湿度は比較的低い。逆に冬は曇った日がつづき,12月の平均日照時間は月間20時間,1月は30時間をかぞえるのみである。雪はふつう10月から降り始めるが,根雪は平均して11月26日から4月11日まで,積雪量は冬の終りに30~35cm程度である。風は冬に南西風,夏には北西風が卓越する。日本との時差は6時間である。
モスクワは,他の多くのロシアの古い都市と同様に,クレムリンからはじまったという歴史的条件を反映して,クレムリンならびに赤の広場Krasnaya ploshchad'をはさんでクレムリンと向かい合う旧商工業区キタイ・ゴロドKitai-gorodを中心とする環状道路が樹木の年輪のように幾重にも都心部を取り巻いている。その最も外側のモスクワ環状自動車道路(総延長109km)が1960年以来,市の境界の役割を果たしている。モスクワの市街,とりわけその都心部には,中世以降さまざまな時期の建造物と現代的な建築が混在して独特の景観を呈している。
20におよぶ塔と城門をそなえた厚い煉瓦造のクレムリンの城壁は,15世紀の末につくられたものであり,クレムリン内のウスペンスキー聖堂(15世紀)や赤の広場のワシーリー大聖堂(16世紀)をはじめネギ坊主形の屋根をもつ教会がまだ市内各所に保存されている。18世紀以後,富裕な貴族や商人の建てた古典主義スタイルやロマネスク様式の邸宅は現在,図書館や博物館などの公共施設に転用されており,他方クレムリンから北西にのびるトベリ通り(旧ゴーリキー大通り)や西に向かうノーブイ・アルバート通り(旧カリーニン通り)をはじめ目抜きの道路の両側にはホテル,アパートなどの近代的な高層建築がたち並んでいる。街区の整理はかなりすすんでいるが,それでもたとえばクレムリンに近いクズネツキー・モストやアルバート通りのような横町や裏通りは,狭い曲がりくねった街路と低い家並みに19世紀的な雰囲気をただよわせている。政府の中枢的な機関はクレムリン,キタイ・ゴロドとその周辺に集中しており,その付近には古くからのホテル,デパート,さらにはボリショイ劇場をはじめとする文化的な施設が多い。1971年から始まった総合発展25ヵ年計画にもとづき,工場などの産業施設はなるべく市外に移転させるとともに,人口の急増に対応すべく南西部のユーゴ・ザーパドなど,かつての郊外の随所に大規模な住宅団地がつくられ,10階以上のアパート群の建設がすすんでいる。人口密度(約8700人/km2以上)はかならずしも低くはないが,住宅が完全に高層化していることもあって,市内にはゴーリキー公園やソコーリニキ公園などの公園や並木の緑が多く,都心をはずれると市域内にまだ自然のままの森が広がっている。さらに市境をなしている環状自動車道路の外側には,平均して20km幅の緑地帯が設けられ,市民はそこでピクニックやキノコ狩りを楽しむことができる。
ロシア革命以前は旧市街が17の警察区から成っていたが,革命後,根本的に区分けが変更され,今では都心から放射状にのびる幹線道路に沿って,あたかも円形のパイを細かく切り分けたときのように,それぞれが細長い扇形をした31の行政区と,唯一の飛地である環状自動車道路外の1区に分けられている。
モスクワは全国の交通の中心の役割を果たしている。レニングラード街道(ショッセとも呼ぶ),ヤロスラブリ街道,ワルシャワ街道など行先の主要な都市の名を冠した幹線道路がモスクワから四方八方にのび,同様に目的地の名をとってレニングラード駅,キエフ駅,カザン駅などと呼ばれる鉄道の始発駅は九つをかぞえる。モスクワ~サンクト・ペテルブルグ間は夜行列車の〈赤い矢〉が運行しているが,1984年からは新幹線が開通して所要時間がそれまでの半分の4時間に短縮された。モスクワ川,ならびにモスクワ川と北のボルガ川を直接結ぶモスクワ運河による河川交通も盛んである。外国や国内の遠隔地との連絡には近年飛行機が利用されることが多く,民間航空のための空港として郊外のシェレメチエボ,ドモジェードボ,ブヌコボ,ブイコボの四つが使われている。1967年に東京との間に定期便が開設されて以来,この線は日本とロシアはむろんのこと,西欧や東欧諸国とを結ぶ役割も兼ねている。
市内交通で中心的な地位を占めているのは地下鉄である。都心部をかこむ第2環状道路であるサドーボエ・コリツォーにほぼ並行して地下鉄の環状線が走り,それを縦横に横切る形で7本の線が市内の各地を連絡している。地下鉄の駅は100を超え,さらに新線と新駅の工事もすすんでいる。地下鉄は概して非常に深く,一つ一つの駅がそれぞれの場所にちなんだ個性的な壁画や彫像で飾られている。バスやトロリーバスも多くの路線をもっているが,路面電車は相対的にその意義を減じつつある。
モスクワの性別人口構成は,男子に比べて女子がはるかに多く(1975年に男1000人に対して女1222人),子どもの比率は全国平均より少なく,逆に老年人口比率は全国平均を上回っている。1世帯当りの人数は3.2人である。離婚率が非常に高く,1987年には人口1000人当り結婚登録件数10.5に対し,離婚登録件数は4.6をかぞえた。モスクワ市の総人口に対するロシア人の割合は1989年の統計で89.7%,ついでウクライナ人2.8%,ユダヤ人2%,タタール人1.8%,ベラルーシ人0.8%などとなっているが,ロシア人の比率は年々低下する傾向にある。他の共和国やロシア連邦中の諸地方からのモスクワ転入に対してはきびしい法的制限が設けられてきたため,数字にはあらわれないが,親戚縁者を頼って,なかば不法に市内に滞在している人口も少なくない。さらにクラスノゴルスク,ムイチシチ,リュベルツィなど近郊のベッドタウンから市内に通勤している者も多い。
モスクワの就業人口は総人口の約60%であるが,1985年におけるその主要な内訳をみれば,製造業25.1%,研究機関19.6%,建設10.5%,商業9.4%,交通8.1%,教育7.1%,共産党と諸官庁5.2%などとなっていた。モスクワでは自動車,航空機のほか電子機器などがつくられているが,なかでも最大の工場は〈ジル〉と呼ばれる乗用車を生産するリハチョフ記念自動車工場で,〈モスクビチ〉をつくるコムソモール自動車工場,発電機やクレーンなどの建設機械を製造するディナモ電気機械工場がこれにつづいている。
最近になって台頭してきた産業部門の一つは観光業である。外国からの旅行者を一手に引き受けているのは,国営で設立されたインツーリストと称する企業で,インツーリスト傘下の外国人専用ホテルは帝政期以来の格式の高い〈ナツィオナーリ〉〈メトロポーリ〉,スターリン的ゴシックと呼ばれる〈ウクライナ〉,現代的な〈ロシア〉〈インツーリスト〉〈コスモス〉など20を超す。そのほか各種団体の所有するホテルを加えれば,1980年代初頭のホテル総数は60,宿泊可能人員は6万に達していた。モスクワ市民の間ではボルガ,オカなどの川旅,黒海,カフカス,中央アジア,極東への旅行が人気を博している。
モスクワの市名は市内を流れる川の名に由来するが,その語源については定説がない。文献史料には1147年に初めて登場する。当時この地を領していたユーリー・ドルゴルーキーの銅像が市ソビエトの庁舎に向かい合ってゴーリキー通りに立っている。モスクワ川に北からネグリンナヤ川が合流する地点の東寄りの小丘陵に56年ユーリーによって木柵と堀をめぐらした砦がつくられた。これがクレムリンの起源である。1237-38年モンゴル・タタールの侵入軍によって砦は破壊されたが,71年にはアレクサンドル・ネフスキーの末子ダニイルDaniil Aleksandrovich(1261-1303)がこの地を本拠と定め,モスクワ大公国を開いた。当初は眇(びよう)たる小国であったが,モスクワ川を擁して交易路の要衝にあったことと,ダニイルの後を継いだ歴代の支配者の手腕によって,モスクワはしだいに領土を広げ,権威を高めていく。
ダニイルの子のイワン・カリタはキプチャク・ハーン国の宮廷にとり入ってその援助を受けて近隣のロシア諸公国の土地を手中に収める一方で,ウラジーミルから府主教を迎えたり,クレムリン内にウスペンスキー聖堂を建立したりして,モスクワを全ロシアの宗教上の中心たらしめようと努めた。14世紀後半のドミトリー・ドンスコイ大公の治世にはクレムリンの周囲に木の柵の代りに石の城壁が築かれ,城外に出城の役割を兼ねてアンドロニコフ,シーモノフなどの修道院がつくられた。それでも1382年にはキプチャク・ハーン国のトフタミシ・ハーンによって町が占領され,焼き払われた。
15世紀にはモスクワを中心とする全ロシアの統一がすすみ,イワン3世は1480年にキプチャク・ハーン国からの完全な独立を果たすとともに,イタリアからフィオラバンティ,ソラリなどの技術者を招いて,今に伝わるクレムリンの塔と城壁,城内の多稜宮(グラノビータヤ宮殿)Granovitaya palataや石造のウスペンスキー聖堂などを造営した。当時,大公の一族と大貴族,府主教などはクレムリン内に住み,商人や職人たちはほぼ職種ごとにクレムリンの周囲に集落を形成し,15世紀末には人口は15万をかぞえた。
モスクワの都心部が現在のような骨組みを整えるのは16世紀である。まず1534-38年にクレムリンの東隣に三角形の2辺を延長する形で,キタイ・ゴロドがクレムリン同様に煉瓦の厚い城壁で囲まれた。この城壁の一部は今も残っている。このキタイ・ゴロドは早くからクレムリンのポサード(商人・職人の居住地)として開け,主として職人たちが居住して,市の立つ場所でもあった。15世紀末以来,クレムリン内に収容しきれなくなった貴族や聖職者たちの屋敷や諸官庁がここにつくられるようになったが,地方や外国からやってくる商人のための施設や商品倉庫はクレムリンに残り,赤の広場ともども,モスクワの商業の中心であることに変りはなかった。現在赤の広場の名で知られる場所は,最初は単に市(いち)(トルグtorg)と呼ばれた。17世紀末まで業種ごとに小さな木造の屋台がぎっしりとたち並んでいた。1571年の大火のあと,一時は火事の広場と称された。〈赤のkrasnyi〉(当時のロシア語では〈美しい〉を意味した)と呼ばれるようになったのは17世紀の中ごろである。1534年に広場の中央に台座が設けられ,ツァーリや総主教の臨席する儀式がここで執行されたほか,政府の重要な布告がこの壇上から読み上げられた。のちに大規模な農民暴動(ラージンの乱)の指導者ステパン・ラージンがこの台座のわきで処刑されるなど,重大な政治犯の刑場ともなった。16世紀の50~60年代カザン・ハーンに対する勝利を記念して,特徴的な円屋根群をもつポクロフスキー教会が広場の南端に建立された。まもなくこの教会の一隅にユロージビー(白痴の行者)のワシーリーが埋葬されたため,この教会はワシーリー・ブラジェンヌイ(〈至福のワシーリー〉の意)の名で市民に親しまれることになった(ワシーリー大聖堂)。ソビエト時代になってからもメーデーや革命記念日のパレードは赤の広場で行われるならわしになっている。
1580年代から90年代にかけて,クレムリンとキタイ・ゴロドをつつみこむように,ベールイ・ゴロドBelyi gorod(〈白い町〉の意。〈ツァーリの町〉とも呼ばれた)が城壁でかこまれ,さらにその外側のゼムリャノイ・ゴロドZemlyanoi gorod(〈土の町〉の意)の周囲に土塁が築かれた。土塁にはまもなく木の柵がめぐらされた。このように防備がほどこされたのは,タタール系のクリム・ハーン国の遊牧民による襲撃がしばしば繰り返されたからである。ベールイ・ゴロドの城壁はようやく18世紀の末に取り払われて並木の遊歩道をもつ今のブリワール環状道路となり,ゼムリャノイ・ゴロドの土塁は19世紀になって撤去され,現在のサドーボエ・コリツォーとなった。はじめベールイ・ゴロドにはさまざまの職種の職人たちが住み,ゼムリャノイ・ゴロドには主として銃兵と呼ばれる世襲の職業的な兵士たちの集落が散在していた。商人や職人たちのギルドは早くから形成されていたものの独占的な特権はみとめられず,すべての住民はツァーリに対してきわめて従属的な奉仕義務を負っていた。雷帝イワン4世の恐怖政治によって貴族たちもツァーリに屈従させられた。
リューリク朝断絶後の17世紀初頭のスムータ(動乱)の時代にモスクワはポーランド軍によって占領されたが,1612年ミーニンとポジャルスキー公の率いる国民軍によって解放され,その翌年にはゼムスキー・ソボル(全国会議)で選ばれたロマノフ朝が成立する。17世紀にはマニュファクチュアが発展し,西ヨーロッパの商人や技術者でモスクワに来住する者が増加して郊外にドイツ村ができるほどであったが,市内の家屋の大部分は木造で,空地も多く畑や草地が見られたので,この時期に西ヨーロッパから訪れた旅行者はモスクワを〈大きな村〉と呼んだ。
17世紀の末にツァーリの位についたピョートル1世はロシアの近代化に着手し,新しい首都としてペテルブルグ(現,サンクト・ペテルブルグ)を建設するが,その後もモスクワは第2の首都と考えられ,歴代の皇帝はここで戴冠式を挙げるのを例とした。主要な官庁は新都に移ったとはいえ,モスクワは全ロシアの商工業の中心地の地位を失わなかったばかりでなく,文化の領域でも1755年には国内で最初のモスクワ大学が創設され,76年にはボリショイ劇場が活動を始めた。貴族たちは依然としてこの地に居をかまえ,西欧的・開明的かつ官僚的なペテルブルグに対して,古いロシアの伝統に根ざした独自の気風をつちかった。ピョートルによる西欧化政策を批判し,モスクワ時代の家父長的な国家社会体制を理想とするスラブ主義が,主としてモスクワに住む貴族インテリゲンチャによって提唱されたのも偶然ではない。
1812年ナポレオンの率いる大軍の来襲に際しては,住民の大部分が町を退去して抵抗し,折から起こった火災と冬の到来のために侵入軍はたちまち退却を余儀なくされた。1811年に27万余りをかぞえた人口はナポレオンの侵入時に1万人に激減したが,20年代にはもとの水準に戻り,さらに51年のモスクワ~ペテルブルグ間の鉄道開通,61年の農奴解放などを契機に,織物をはじめ軽工業を中心とするモスクワの産業は一段と発展し,19世紀末に人口は100万を突破した。その人口の大半を占めたのはロシア各地の農村から流入した大小の規模の企業で働く労働者や零細な商人たちであり,それら下層の住民の居住区をつつみこんで市域が著しく拡大すると同時に,ゴーリキーの《どん底》の舞台となるヒトロフカKhitrovkaをはじめ市内各地に貧民窟が形成された。他方,モロゾフ家,グチコフ家のように地方の農民から身をおこしモスクワで事業を営んでブルジョア化した例も多く,概して市政の実権は貴族から資本家の手に移った。19世紀を通じて文化面ではモスクワ大学出身者を中心に,すぐれた学者や思想家や作家が輩出し,演劇,音楽,美術の分野でも一種の黄金時代を現出した。また19世紀初めには市内の一部に水道がひかれ,60年代には街路にガス灯がともり,70年代からは幹線道路を軌道馬車が,そして1899年には路面電車が走り始めるなど,市民の生活と町の景観に著しい変化があった。
1905年の革命にあたってモスクワに初めてソビエトが組織され,鉄道労働者が10月政治ゼネストの口火を切り,12月の武装蜂起でも全市にバリケードが築かれて戦闘が行われた。17年の十月革命に際しては,首都で臨時政府が倒された直後から7日間にわたる武力闘争の結果,モスクワでもソビエト権力が樹立された。翌18年3月にはレーニンを首班とする新政府がペトログラードから移ってきて,モスクワはふたたびロシアの首都となるが,革命後の内戦期の混乱と食糧事情の悪化のために,1917年初めに200万を超えていた人口は20年には100万に半減した。レーニンは24年に没し,赤い広場に面したクレムリンの壁ぎわの霊廟(レーニン廟)に遺骸が安置された。この霊廟は最初木造であったが,30年に現在の大理石造に改められた。
ソビエト当局は内戦終結後モスクワの復興に努め,市内各所の貧民窟を一掃し,宮殿や貴族の邸宅は公共の施設に変え,教会もすべて国有財産とし,宗教色の濃い町名を次々と改称した。小ブルジョアジーの活動をみとめたネップ(新経済政策)期には内戦で疲弊した経済も立ち直り,新しい社会の建設をめざして清新の気にあふれた文化的諸潮流が百花繚乱の趣を呈した。ネップに幕がおろされ,第1次五ヵ年計画が始まるころから,文化活動に対する党のしめつけも強まってくる。30年代には350万人を超えた市民の交通難を解消すべく地下鉄の建設が始められた。それと歩調を合わせて35年に発足したモスクワ市改造計画が終わらぬうちに第2次世界大戦が始まり,一時ドイツ軍は市の北西40kmの地点まで迫った。
大祖国戦争と呼ばれたこの大戦後になって改造計画は実施されたが,ソ連が社会主義圏の盟主の地位を占めるという新しい国際情勢の中で,モスクワの意義は飛躍的に増大し,その後何回かにわたって立案された都市計画は,完了以前に予想を上回る現実の事態の進展の前に絶えず改訂を迫られている。人口だけをとってみても50年代末には600万,79年には800万を超えており,大都市特有の住宅,交通,環境汚染など深刻な諸問題に直面しながら成長をつづけている。
執筆者:中村 喜和
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ロシア連邦の首都。東ヨーロッパ平原の中部、ヨーロッパ・ロシア中央部を貫流するオカ川支流のモスクワ川が、蛇行しながら市内を流れる。英語名モスコーMoscow。交通の便と付近に手工業の原料産地が存在したこと、また北東ロシア諸都市の中心であったことなどの理由により発展した。市域面積994平方キロメートル、人口863万0400(2000推計)。平均標高120メートル、最高点は南西部の旧レーニン丘のボロビヨーブイ・ゴールイВоробьёвы Горы/Vorob' yovï Gorï(雀(すずめ)が丘)253メートルである。
[中村泰三]
比較的温和な大陸性気候を示し、年平均気温5.3℃、最寒月1月零下7.5℃、最暖月7月18.4℃である。気候の年変動は大きく、寒暖の移行も急激であるので、パリに比べれば居住条件はよくない。年降水量705ミリメートルで、夏と秋に雨が多い。積雪量は40センチメートルほどであるが、冬季除雪車が活躍するので、市内の道路交通は常時維持されている。
[中村泰三]
1970年の人口は717万2000であったが、その後25年ほどで150万人増加した。人口密度は1平方キロメートル当り約8700人で、ロシアの他の大都市に比べて高い。出生率は1000人当り8.0人、死亡率は16.9人(1995)で、以前に比べて自然減が大きい。1989年より死亡率が出生率を上回っている。したがって、流入人口により人口減を補ってきたが自然減を補えず、人口は1989年の約900万人以降、減少している。住民の80%強はロシア人で、ほかにウクライナ人、ユダヤ人、タタール人、ベラルーシ人など多民族が居住している。他方、市民1000人当りの婚姻は8.2人、離婚は4.6人(1995)で、離婚率が高い。また、人口構成は老齢人口比率が高く(年金生活者は1995年、230万人)、幼年人口が少ない。
[中村泰三]
就業者は約520万人であるが、1965~95年の30年間に、工業従事者の比重が50%減少し、かわって建設、商業、教育・文化・芸術、金融、保険業従事者などが大きく増えた。工業部門の従事者は、全就業者の18.0%で、次に商業16.0%、建設13.5%、科学研究とそのサービス部門10.8%、教育・文化・芸術9.6%、交通7.2%と続き(1995)、多機能都市になっている。
工業生産はロシアの約5%を占めるといわれ、ロシアの工業生産の大中心地である。従業者は年々減少しているが、労働生産性は上昇している。従業者数からみて、主要工業部門は機械・金属加工業で、工業従事者の50.2%を占める。この部門は全工業部門のなかで成長率が非常に高い。次に軽工業14.0%、建築資材13.7%、食品7.5%、化学3.7%、建築資材13.7%と続くが(1992)、成長率が高いのは、機械工業を除けば印刷工業で、軽工業、食品工業生産は低下している。
研究、デザインとその管理、サービスなどを扱う科学研究・サービス部門は、従業者が約60万人を占め、ロシアのこの分野の従事人口の4分の1以上が首都に集中していることになる。モスクワには各分野の科学アカデミーをはじめ1000近くの科学、デザインやそのインフォメーションに関する機関があり、バルジン記念鉄冶金(やきん)中央研究所、ギドロプロエクト(水力発電所の開発)、ギドロメズ(冶金工場の設計・デザイン)、ビニテイ(全ロシア科学・技術インフォメーション)などの諸機関が立地している。
商業と金融に従事する人々も多くなっている。かつてこの分野は未発達であったが、市場経済への転換により、私営の小規模商業企業が著しく増加した。モスクワの人口1人当り商品販売高はロシアの大都市のなかで非常に高く、ロシア平均の2倍以上、サンクト・ペテルブルグより50%高い。1991年の体制変革後は外国製品の輸入が増大し、国産品の販売を圧迫している。スーパーマーケット方式の店舗やコンビニエンス・ストア形式の店が増えた。飲食店の数も以前に比べて増加しており、カフェー、ビュッフェを入れて8190(1993)を数える。その多くは企業、学校に付属する施設であるが、最近は独立経営の店が増えている。銀行は国営銀行以外に民間商業銀行の設立が認められて以来急増、モスクワにロシアの銀行の約40%が集中し(1996)大規模銀行が多い。
[中村泰三]
モスクワはロシアの大交通中心地で、四つの空港、10本の鉄道、1号から11号までの連邦道、三つの河港によりロシア各地や外国と結ばれている。モスクワ郊外にあるシェレメティエボ国際空港など四つの空港の旅客機の発着は頻繁で、ロシアの玄関として外国との連絡に重要な機能をもつのみならず、広大なロシア各地を結ぶうえで大きな役割を果たしている。鉄道も遠距離輸送に重要な役割をもっているが、近年は長距離よりもモスクワ近郊の都市や集落と連絡する役割が増え、通勤、レクリエーションなどに利用する人々が多くなっている。市内では乗客輸送に占める市電の重要度は低くなったが、かわって地下鉄が発達し、11路線総延長255キロメートル(1995)に達する。乗客輸送ではバスを抜いて全乗客の45%(1995)を地下鉄が運んでいる。バスは市内の乗客を運ぶうえでなお大きな比重を占めているほか、1960年代以降、近郊バスや遠距離バスの交通も発達している。市内に三つある河港はモスクワ内外の重要な物資の運搬にも、また旅客輸送の発着点としても利用されている。ここからボルガ川河口のアストラハンまで走る長大な航路も、モスクワ近郊の地点との間を結ぶ短距離の航路もあり、水中翼船が市内観光だけでなく近郊への航路にも就航している。
[中村泰三]
モスクワは学生の町でもある。モスクワ大学をはじめとして高等教育機関は80あり、学生数は1995年度45万人と以前より減少しているが、80年代の終わりごろから、私立大学や公立大学が設立され始めた。劇場数は61、美術館・博物館は106、図書館450を数える。6000人近い収容数をもつクレムリン大宮殿、ボリショイ劇場、マールイ劇場やクレムリン美術館(武器庫)、トレチャコフ美術館、プーシキン美術館や世界最大の規模を誇るロシア国立図書館(旧レーニン図書館)など、世界に知られた施設が多い。このほか、ロシア様式の歴史的建造物が集まるコロメンスコエなどが保存されて博物館などに利用され、壁に囲まれた15世紀の城塞(じょうさい)クレムリンの中にはウスペンスキー寺院、ブラゴベシチェンスキー寺院など、15、16世紀の寺院も多い。クレムリンの北東に隣接する「赤の広場」には、16世紀ロシアの代表的建築物であるワシリー大聖堂などがあり、内外の観光客が多数訪れる。年間の劇場観客数は830万人、美術館・博物館訪問者は3774万人を数える(1992)。
[中村泰三]
市域の約3分の2の面積に建物が建ち、約20%が緑地である。1950年代後半以降の大量の住宅建設により、市境に近い縁辺部に大規模な団地が次々と形成され、景観に大きな変化をもたらした。第二次世界大戦前に建てられた住宅は全住宅面積の9%強にすぎなくなり、1970年代に建設された新しい住宅が3分の1を占めるようになった。それとともに高層住宅が増え、10階建て以上のアパートが全住宅面積の60%に近く、16階建て以上が20%(1995)になっている。その結果、水道、下水道、集中暖房設備が100%近く普及し、ガス設備が60%強となっている。
[中村泰三]
モスクワ市内は通常3地帯に分けられる。サドーボエ環状道路内が都心で、ここに行政、商業、文化施設が集中している。その外側の1960年までの市域が中間地帯で、クレムリンまで平均7.4キロメートルあり、工業・住宅地区と交通中心地(鉄道ターミナル)が混在しており、再開発が進み、常住人口の減少が著しい。第三の地帯はモスクワの新市域で、クレムリンまで平均14キロメートルあり、市の総面積のなかば以上を占めている。この地帯がモスクワの新しい住宅団地の造成地で、緑地も多い。ここまでが主要市域で、全長109キロメートルの高速環状自動車道が市域を境していたが、1986年より環状線外の若干の地区にも市域が広がった。ここから外に森林公園地帯(幅10~15キロメートル、面積1800平方キロメートル)があり、都市、集落が点在し、別荘もあり、150万人以上の人々が住んでいる。この外側に近郊地帯があり、モスクワ市境から50~70キロメートルの範囲内にある。この地域は約80の都市、町を含み、250万を超える人口を抱え、モスクワ市内への通勤地帯に入り、この地帯までをモスクワ・メガロポリス(モスクワ大都市圏)とよんでいる。
モスクワの都市計画では土地利用の集約化、明確な機能区分、交通網の整備、環境の保全など種々の問題の解決に力が注がれている。また、モスクワだけでなく、モスクワ都市圏の整備も考慮して計画が進められている。しかし計画どおりにかならずしも進んでいないのは、モスクワの膨張を防ぐため早くから人口制限が行われてきたにもかかわらず、モスクワとその周辺への人口集中が計画を上回る速さで進んだことからもわかる。
またそのほかに、工業部門での業種転換(先端技術部門の育成、公害を引きおこす工場の移転、軍需工場の民需製品生産工場への転換)、森林地帯で進む都市化の防止、大気汚染の著しい市域における環境悪化の改善、郊外でのレクリエーション、休養施設の確保と充実など、さまざまな問題の早急な実施が求められている。
[中村泰三]
11世紀末にすでに相当規模の集落が存在していたことが知られているが、市名が年代記の記録上に最初に現れるのは1147年のことである。当時それはスズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーYurii Dolgorukii(?―1157)の領地であったので、今日では彼が市の創始者とみなされている。
モスクワの本格的な発展は、アレクサンドル・ネフスキー公の末子ダニールDaniil Aleksandrovich(1261―1303)が1276年ごろここをモスクワ公国の首都とするに及んでのことである。公国は地理的利点と歴代諸公の巧妙な内外政策により急速に発展するが、モスクワ市の発展もそれと不可分に結び付いていた。すでに14世紀前半のイワン1世治世には、モスクワはウラジーミルにかわって北東ロシアの政治・宗教上の中心となった。14世紀後半、1238年より続いたキプチャク・ハン国(タタール)支配に対し、ロシア人の反タタール闘争が起こったが、モスクワはその中心的役割を果たすようになり、1380年にはモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイがクリコボの戦いで初めてタタールの大軍を撃ち破った。
15世紀後半のイワン3世治世下に、ロシアがキプチャク・ハン国から独立するとともに市の急速な発展が始まる。クレムリンが今日みられるような形になったのも、基本的には彼とその子ワシリー3世Vasilii Ⅲ(1479―1533、在位1505~1533)の治世下のことである。この時期、商工業の中心はクレムリンの東方に広がる地域で、大ポサードとよばれた。それは16世紀にはキタイ・ゴロドとよばれるようになるが、そのなかの「市場」(17世紀中葉から「赤の広場」とよばれるようになる)には多数の店舗が並び、活発なにぎわいをみせた。
16世紀のモスクワは、外敵(とくにクリミア・タタール)の侵入に備えて堅固な防備を施された。クレムリンはいうまでもなく、キタイ・ゴロドも1535~1538年、さらにその外側のベールイ・ゴロドも1586~1593年に石の城壁で囲まれた(これは18世紀末から19世紀初めに撤去され、今日のブリワール環状道路となる)。さらに第三の外壁ゼムリャノイ・バール(「土塁」)が1591~1592年につくられた。これは当時のモスクワの境界線でもあったが、19世紀前半に撤去され、今日サドーボエ環状道路となっている。町の周辺には要塞(ようさい)化された修道院(アンドロニコフ、ノボジェービチー、ドンスコイなど)が配置されていた。今日赤の広場の南端に独特な姿を見せているワシリー大聖堂もこのころイワン4世(雷帝)治世下に建立された。市はリューリク朝断絶後の動乱時代の1610~1612年に、ポーランド軍によって占領され大きな被害を受けたが、ロマノフ朝成立後まもなく復興され、市域もゼムリャノイ・バールを越えて発展し、17世紀なかばには人口も20万に達した。
ピョートル大帝治世の1712年、首都は新たに建設されたサンクト・ペテルブルグに移された。だがモスクワは第二の首都として依然として経済・文化の中心であり続けた。すでに18世紀初頭には一般市民のための学校教育の基礎が置かれ、1755年にはロシア最初の大学、モスクワ大学が創設された。最初の公共劇場が開設され、印刷新聞が発行されたのもこの地においてである。遷都後も18世紀末までの通算20年間にわたり、政府と中央機関の多くがこの地で活動した。市域も拡大し、市の境界は1742年に築かれた土塁カメル‐コレシスキー・バール(全長37キロメートル余)となった。
19世紀に入ってもモスクワの重要性は衰えなかった。そのことは1812年にロシアに侵入したナポレオン軍が一路モスクワを目ざし、占領したことからもうかがえる。このときモスクワを襲った大火は1週間続き、全市の4分の3が失われた。侵入軍は39日後に撤退したが、それに先だってクレムリンの一部を爆破した。戦後ただちにモスクワ市建設委員会が発足し、モスクワは急速に復興した。クレムリンの西側を走るネグリンナヤ川が暗渠(あんきょ)となり、その上にアレクサンドロフスキー庭園ができたのはこのときのことである。ベールイ・ゴロドの城壁とゼムリャノイ・バールも撤去された。またボリショイ劇場(すでに前世紀に活動を始めていた)やマールイ劇場、調馬場(マネージ)なども建造された。
市の居住条件も改善された。とくに公共交通の発達が顕著であった。1840年代には最初の公共交通機関である大型四輪馬車が、1870年代には馬車鉄道が、1899年には市街電車が走り始めた。人口も1827年には対ナポレオン戦争前の水準を超え(27万5000)、1862年には31万7000となった。農奴解放(1861)後の人口増はさらに急で、1897年には100万を超えた。人口の急増は資本主義発達期のモスクワの経済的・文化的発展の反映であったが、他方ひずみも出てきた。20世紀初頭において90%以上の家屋は木造の1ないし2階建てであったし、都市整備の恩恵を受けたのは中心部に住む人々だけであり、70%以上の住民は生活上の基本的な設備もない狭い住居にひしめいていた。
モスクワは、ロシア革命が開始された1905年に続き、1917年にもロシア革命の主要な舞台となった。同年の十月革命後、1918年3月11日、ソビエト政権はペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)からモスクワへ移り、モスクワはふたたび首都となった。内戦と干渉戦の危機を乗り越えたソビエト社会主義共和国連邦は、モスクワを拠点に社会主義建設に乗り出した。1940年には、モスクワの全工業生産は第一次世界大戦前(1913)のそれの21倍に達した(金属加工業は実に96倍であった)。1935年には地下鉄の建設が始められた。人口も増え、1939年には454万に達した。第二次世界大戦(大祖国戦争)はソビエト国家に大きな被害をもたらした。ドイツ侵入軍はモスクワの西方数十キロメートル地点で撃退されたが、戦争による人的・物的損害は甚大であった。それだけに戦後の復興と発展は目覚ましかった。すでに1950年には、モスクワの工業生産高は戦前(1940)の2倍に達し、1964年には4.9倍となり、文字どおり世界有数の大都市となって、今日に至っている。
[栗生沢猛夫]
『レフ・コロドヌイ著、宮沢俊一訳『モスクワ物語』(1979・ナウカ)』▽『B・A・ギリャロフスキー著、村手義治訳『帝政末期のモスクワ』(1985・中央公論社)』▽『木村浩著『世界の都市の物語〈11〉/モスクワ』(1992・文芸春秋)』▽『下斗米伸夫著『スターリンと都市モスクワ1931―34年』(1994・岩波書店)』
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考古学的には6世紀からスラヴ人の墳墓があり,年代記では12~13世紀にヴラジーミル大公国の東南を守る砦の町であった。1271年,ダニール公がここを中心にモスクワ公国をつくり,15~16世紀には諸公国をおさえて国土をほぼ統一し,ツァリーズムの基礎をかため,コンスタンティノープルに代わる第3のローマを自称した。18世紀初め,ペテルブルクに都が移ったが,ロシア革命以後ソヴィエト連邦の首都として復活した。大火と蜂起が多く,1610~12年にはポーランド軍,1812年にはナポレオン軍に占領されたが,1945年にはナチス・ドイツ軍を撃退,そのつど国民意識を高めた。現在はロシア連邦の首都。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… ソ連海軍は,戦後急速に海軍力を増強し,1970年代後半には従来の沿岸防備型から一変して海洋型大海軍へと躍進した。空母についても1967年にヘリコプター搭載巡洋艦モスクワMoskva(約1万6500トン)を建造し,続いて75年にはV/STOL搭載空母キエフKiev(約3万6000トン)を完成させている。
[空母の特徴]
空母にとってもっとも重要なことは,限られた飛行甲板においていかに効率よく安全に発着艦を行うかにある。…
…なお,ソ連のみは1952~56年ころ砲を主兵装とする第2次大戦型の巡洋艦を建造した。また67年にはヘリ巡洋艦helicopter cruiserとも称すべき1万6500トンのモスクワMoskva級を建造した。これは多数のヘリコプターを搭載する対潜水艦戦を主任務とする艦で,艦の後半分が飛行甲板になっており,特異な設計が世界の注目を浴びた。…
…16世紀初頭におけるロシアの政治理論。モスクワを人類史上最後のキリスト教世界帝国の首都とするもので,プスコフの僧フィロフェイがワシーリー3世らモスクワ大公にあてた書簡のなかで表明された。彼によれば,ローマ帝国とビザンティン帝国(〈二つのローマ〉)は〈真の信仰〉から逸脱したために滅亡したが,モスクワはその後継国家として,世界を終末のときに至るまで支配する,という。…
…モスクワ,赤の広場にある大聖堂。イワン4世がモンゴルに対する戦勝を記念して1555‐60年に建て,勝利の仲介者である聖母マリアに捧げた。…
※「モスクワ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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