バラ科(APG分類:バラ科)サクラ属モモ亜属(バラ科スモモ属とする説もある)の落葉性小高木。中国原産。高さは5~6メートルで、枝や幹に樹脂があり、傷がつくと分泌する。葉は互生し、基部に蜜腺(みつせん)をもつ短い葉柄がある。葉身は5~12センチメートル、長披針(ちょうひしん)形または倒披針形で先端がとがり、葉縁に小さい鋸歯(きょし)がある。前年に伸びた枝の葉腋(ようえき)に1~3個の腋芽をつける。このうち中央の芽は葉芽で、左右が花芽となり、3月下旬から4月上旬、葉に先だって開花する。花色は桃色が基本で、白、濃紅、咲き分けなどがある。萼(がく)は5枚。花弁も5枚で平開するが、重弁、菊咲きなどの変異がある。雄しべは多数、雌しべは1本で、子房には短毛の密生する種類と密生しない種類とがある。
果実は核果で大形、7~8月に熟す。果面に短毛の密生する種類と毛のない種類とがあり、前者をモモ(毛桃(けもも)ともいう)Prunus persica Batsch var. vulgaris Maxim.、後者をアブラモモ(油桃。ヒカリモモ、ズバイモモ、ネクタリンなどがある)var. nucipersica Schneid.とよぶ。果形は円、楕円(だえん)、卵、心臓、尖(せん)円、扁(へん)円形など、果皮色には桃、白黄、黄色などがある。果肉は桃、白黄、黄色などで、肉厚多汁で甘酸味が適度である。種子は1個で、表面に凹凸のある堅い核内に1個の胚(はい)がある。果肉と核の離れやすいものと離れにくいものとがあり、前者を離核性、後者を粘核性とよぶ。なお、果実および種子の扁平な1変種があり、これをハントウ(蟠桃)またはザゼンモモvar. platycarpa Baileyとよぶ。
[飯塚宗夫]
日本では、出土品によれば弥生(やよい)前期からモモが利用されていたが、果実が小さく、甘味に乏しく、果肉は堅く、かつ果汁が少ないものが多かった。これに比べ、明治初年に欧米や中国から導入された品種には優れたものが多かった。しかし、欧米の品種は、日本とは異なる気候で改良されたもので、そのままでは栽培に適さず、また、欧米の品種は輸送、日もち、加工性を主として品種改良が進められたものが中心で、生食を主体とする日本人の嗜好(しこう)には、当時はあまりなじまなかった。一方、中国中・東部の種類は日本の風土に適し、日本の栽培品種の向上に大きく貢献した。なかでも1875年(明治8)に導入されたシャンハイスイミツトウ(上海水蜜桃)とテンシンスイミツトウ(天津水蜜桃)はその後の品種改良に大きく貢献した。とくにシャンハイスイミツトウは日本では結果率が低いため直接的な栽培利用は伸びなかったが、多汁で甘く、肉質は柔らかく、大果であるため、その後優れた偶発実生(みしょう)を生み、また、交雑育種の素材として優れた素質を示した。日本で育成された主要品種は多少ともこれの血を受けたものが多い。またテンシンスイミツトウは果頂部がとがり、腰高で、果肉は赤く、肉質は粗く、いわゆる桃太郎を産んだモモの形をしたものである。これは果頂部が傷みやすいため、今日の品種ではみられなくなった。
モモは枝がわりや偶発実生による品種が出やすく、そのうえ、経済的な1樹の寿命は15~20年で、他の果樹に比べて短いため改植が行いやすいこともあって、品種の交替は早い。今日では、生食用を主とし、加工用品種も加えて、6月中旬に熟す極早生(ごくわせ)品種から、9月以降に熟す晩生(おくて)品種まであり、諸形質に関する変異は非常に広い。近年は新品種の登録も多く、1978年(昭和53)の種苗法の施行以来、2017年(平成29)までで266品種に達した。
布目早生(ぬのめわせ)、白鳳(はくほう)、大久保、白桃(はくとう)は大栽培が行われる経済品種で、さおとめ、早生桃山、あかつき、ゆうぞらは味がよく、家庭果樹として栽培しやすい品種である。早生種は無袋栽培も可能である。缶詰をはじめとする加工用品種には、欧米のオウニクトウ(黄肉桃)の遺伝的特性を入れて育成した錦(にしき)のほか、缶桃2号、同5号、同12号、同14号などが知られている。これらはよく着果し、無袋栽培も可能である。いずれも果肉は黄色で香りが強く、酸味に富み、砂糖煮、ジャムに加工される。また生食に向く品種もある。アブラモモは酸味が強いが香りもよく、味も濃厚であるが灰星病などに弱く、育成品種の興津(おきつ)は品質が優れているが、栽培はむずかしい。しかし、1983年に品種登録されたヒラツカレッドは、栽培がしやすく、味もよい品種である。ハントウは1875年シャンハイスイミツトウなどとともに中国から導入されたもので、白肉種のオオベニハントウ(大紅蟠桃)や黄肉種のキハントウ(黄蟠桃)などがあり、味はいずれも中位であるが、日本ではあまり栽培されない。
なお、スイミツトウ(水蜜桃)は古文献には品種として出ているが、現在の品種との関係は不明で、今日では、大果多汁で、果肉が柔らかく甘味の多い品種の一般名となっている。
[飯塚宗夫]
北海道から九州まで広く栽培できるが、生育期に比較的高温を好み、宮城、山形県以西で経済栽培が可能である。降雨の少ない地方でよく育ち、山梨、福島、長野、和歌山、岡山県などが主産地である。2017年時点では、全国で9700ヘクタールの結果樹面積、12万4900トンの収穫となっている。品種別ではあかつき、白鳳、川中島白桃、日川(ひかわ)白鳳の栽培面積が多い。
苗木育成は、実生の共台(ともだい)か野生モモ台を用いて、9月ごろに芽接(めつ)ぎか、2~3月に切り接ぎをする。排水のよい土壌でよく育つ。定植は11~12月または2~3月がよい。10アール当り12~33本で、砂子早生(すなごわせ)のように花粉のない品種には花粉のある品種を混植する。冬季に整枝・剪定(せんてい)を行う。定植後3年目で結実を始め、約15年で更新期に入る。施肥は10アール当り窒素15、リン酸10、カリ17キログラム。成園では10アール当り3.5トンの収穫がある。果実には紙袋をかけて保護するが、加工用品種は無袋で栽培できる。
病気には縮葉(しゅくよう)病、穿孔(せんこう)病、炭疽(たんそ)病、黒星病、灰星病などがあり、発芽前に石灰硫黄(いおう)合剤、機械油乳剤、生育期にストマイ剤、「トップジンM」「ロブラール」などの各1000倍液などを用いる。害虫は、アブラムシ、シンクイムシ、モモハムグリガ、クワカイガラムシなどで、「エストックス」や「エカチン」などの浸透性殺虫剤1500倍液、「サリチオン」乳剤1000倍液などを散布する。またコスカシバは、幹や太い枝に食い込んで糞(ふん)の混じった脂を出すので、刃物や針金で捕殺する。
[飯塚宗夫]
モモの果実は大部分が水分(89.3%)で、糖質は9.2%、ビタミン類などはほとんど含まれない。花は観賞し、果実は生食のほかに缶詰、ジュース、プリザーブ、ジャムなどに用いる。この際、白肉種の白桃は缶詰加工用として尊ばれるが、傷つくと変色するため扱いにくい。それに比べて加工用の黄肉桃は果肉がゴム質で扱いやすく、味もよいので、家庭でのシロップ漬け、サラダなどに利用。鉢植えでもよく開花結実し、径33センチメートル鉢なら十数果が得られ、また盆栽としてもよい。
[飯塚宗夫]
漢方では、開花直前のつぼみを白桃花(はくとうか)と称し、浮腫(ふしゅ)の治療に用いる。これは、つぼみに強い利尿作用があるためである。民間では、花をごま油に漬けて顔を洗うと美顔の効があるとされるほか、白桃の果肉をカツオによる中毒のときに食べるとよいといわれている。また、葉を入れた浴湯はあせもによいとされている。漢方では核の中の種子を桃仁(桃人)(とうにん)といい、浄血、緩下、鎮痛、排膿(はいのう)剤として月経不順、月経困難、腰痛、打撲症、便秘、脱疽(だっそ)などの治療に用いる。
[長沢元夫]
モモは現在その野生種が分布する中国西部から黄河上流の甘粛(かんしゅく)、陝西(せんせい)省の高原地帯が起源地である。モモはアーモンドともっとも近縁で、おそらく中央アジアに自生しているモモ亜属のある種を共通の祖先種としてもち、西方に分布して西アジアで起源されたのがアーモンドで、東方に分布して中国で起源されたのがモモであると考えられる。中国では古くから栽培され、シルク・ロードを通り、トルコを経てギリシアさらにイタリア、350年にはフランス、ドイツ、ベルギー、オランダに入った。イギリスにはフランスから13世紀に、スペインには11世紀に入った。中南米には1530年にスペインから、北アメリカには1565年に入った。日本では『古事記』『日本書紀』にモモの記述があり、江戸時代までかなり栽培されたが、小果系で、1875年(明治8)に中国から大果系が導入され、現在のようなりっぱな果実と置き換わった。
[田中正武]
バラ科のモモのなかで、花を観賞する園芸品種群をハナモモと総称する。花が八重で白色のヤエシロモモ、半八重で濃赤色のベニモモ、八重で濃紅色のヤエベニモモ、半八重で桃色のハンヤエモモ、八重で桃色のヤエモモ、花弁が細く切れた八重で紅色のキクモモ、白色と紅色の花が混生するゲンペイモモ、また、花は白色で枝は垂れ下がるシロシダレモモ、八重の紅色で枝が垂れ下がるサガミシダレ、枝が上向くホウキモモ、そのほか、幼木で開花するイッサイモモ、雌しべが数本あるザロンモモなどがある。
[小林義雄]
中国ではモモはもっとも古い果樹の一つで、河北省藁城(こうじょう)県台西村の殷(いん)代の遺跡から核が出土している。『爾雅(じが)』には冬桃、桃(しとう)、山桃などの名がみえる。漢代の「上林苑(じょうりんえん)」には7種のモモが栽培されていたと『西京雑記(せいきょうざっき)』に載る。モモの花の美しさは、すでに『詩経(しきょう)』周南編で、「桃の夭夭(ようよう)たる 灼灼(しゃくしゃく)たるその華」とうたわれている。
モモは、中国では古来魔を払う力を秘めた仙木であった。6世紀の『荊楚歳時記(けいそさいじき)』は正月一日に桃板(とうばん)をつくって、戸にはる風習を載せる。桃板は桃符(とうふ)ともよばれ、百鬼を制し、家に入れない呪術(じゅじゅつ)であった。桃符は縦長の薄板で、そこに神像が描かれ、呪寿の語が書かれ、新年に取り替えられた。これは現在、紙に形をかえるが、春聯(しゅんれん)として中国に残る。『荊楚歳時記』は、モモが仙木であるゆえんを度朔(どさく)山の大桃樹の下に、神荼(しんと)・鬱塁(うつるい)の2神がいて、通る鬼を見張るとの伝承を引く。モモが威力をもつと信じられたのは、花、果、核の総合効果によると考えられる。モモの花は春に先駆けて咲く「陽」であり、果実は栄養価が高く病魔を退ける。桃の字は木偏に兆からなるが、モモの核の二つに割れる性質を、甲骨卜(こうこつぼく)のひび割れる兆しと見立ててつくられた。その割れた核の中から新しい生命(種子)が現れる。また桃の果実を女性の性と結び付け、生命力のシンボルとする見解もある。東晋(とうしん)の陶淵明(とうえんめい)の描く桃源郷も、その一つとされる。
日本には有史前に伝わり、『古事記』に登場し、『万葉集』に7首詠まれる。ただし、それらがすべて現在のモモかどうかについて、異論がある。前川文夫は、『万葉集』巻7、「向(むか)つ峯(を)に立てる桃の樹(き)成らめやと人そ耳言(ささや)く汝(な)が情(こころ)ゆ」の桃は、雌雄異株のヤマモモをあてて、初めてその歌意が生きると説き、中国から桃が渡来する以前はヤマモモがモモであり、中国の桃は当初『万葉集』の3首で詠まれるように毛桃(けもも)とよばれて区別されていたが、のちにモモの母屋(おもや)を奪ったとみた(『植物の名前の話し』1981・八坂書房)。
[湯浅浩史]
古くから邪気を払う霊的なものとして、『古事記』上の、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から逃げ帰ったときに、桃の実で難を免れた話などがよく知られる。現在の節分にあたる追儺(ついな)の行事にも、桃の弓や葦(あし)の矢を鬼を追い払うのに用いた。『万葉集』巻19「春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(で)る道に出(い)で立つ娘子(をとめ)」(大伴家持(おおとものやかもち))のように、花の美しさも鑑賞された。平安時代以後には、3月の節供に用いられ、桃酒として花びらを浮かべて飲むなどしたが、和歌では四季の歌の景物としてはあまり意識されず、それほど詠まれてはいない。『古今六帖(こきんろくじょう)』には桃の項目があるが、用例はすべて『万葉集』の歌ばかりである。3000年に一度実がなるという西王母(せいおうぼ)の故事が流布し、『蜻蛉日記(かげろうにっき)』天暦(てんりゃく)10年(956)3月条の「三千年(みちとせ)を見つべきみには年ごとにすくにもあらぬ花と知らせむ」という藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の歌などの例がある。『紫式部集』には、「ももといふ名もあるものを時の間に散る桜には思ひおとさじ」と、はかない桜の花よりも生命の長い桃の花に肩入れする歌がある。だが、『源氏物語』には桃の花の用例はない。『枕草子(まくらのそうし)』には「三月三日は、……桃の花の今咲きはじむる」と春から夏にかけての季節や行事の推移を記した段にみえるが、「木の花は」の段にはない。『和漢朗詠集』『新撰朗詠集(しんせんろうえいしゅう)』には、「三月三日」に「桃」が付されている。このように詩歌の世界で、桃はかならずしも有力ではない。『英草紙(はなぶさそうし)』2ノ4の黒川源太主(くろかわげんだぬし)の話に、夫の死後再婚を願い、熱心に桃の手入れをする寡婦が登場する。『百家琦行伝(ひゃっかきこうでん)』には、桃を異常に愛好し、桃の名所伏見(ふしみ)まで花見に赴いた外山成山(とやませいざん)という人物の言行が記されている。季題は、「桃の花」が春、「桃」が夏。「わが衣(きぬ)に伏見の桃の雫(しづく)せよ」(芭蕉(ばしょう))。
[小町谷照彦]
モモ(あかつき)
モモ(白鳳)
モモ(日川白鳳)
モモ(川中島白桃)
モモ(浅間白桃)
モモ(清水白桃)
モモ(蟠桃)
アブラモモ(ネクタリン)
テンシンスイミツトウの果実
モモの樹形
モモの花
モモの果実
ゲンペイモモ
モモの起源地と伝播経路
大阪府中部,大阪市の中央部にある運河。東横堀川から中央区の南部を東西に流れて木津川にいたる。全長約 2.5km。慶長17(1612)年河内国久宝寺村の安井道頓が着工,道頓の死後は従弟の安井道卜(どうぼ...
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