精選版 日本国語大辞典 「モンゴル帝国」の意味・読み・例文・類語
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1206年チンギス・ハンが創建したモンゴル民族支配の帝国。かつては「蒙古(もうこ)帝国」と表記されることもあったが、「蒙古」に蔑称の意味が含まれることなどから使用されなくなった。
[護 雅夫]
12世紀の中ごろモンゴル高原の各地には多くのモンゴル系、トルコ系の氏族・部族が割拠していたが、モンゴル民族の一氏族出身のテムジンは1189年ごろモンゴル諸氏族を統一してその盟主に推され、チンギス・ハンの称号を贈られた。彼は、ついで近隣のタタール、メルキット、ケレイト諸部族を服属させ、西方のアルタイ方面に拠(よ)ったトルコ系のナイマン部族を滅ぼしてモンゴル高原を統一した。チンギス・ハンは1206年モンゴル全土の大ハンの位につき、従来の氏族・部族制度に基づく国家機構を改めて、国内の遊牧民衆を95個の千戸集団に分けた。千戸およびそれを構成する百戸集団は行政単位であるとともに軍事単位で、千戸は約1000人、百戸は約100人の兵士を提供することに定められていた。千戸長、百戸長には功臣を任命して、これらを左翼(興安嶺(こうあんれい)方面)、中軍、右翼(アルタイ方面)の万戸長の指揮下に置いた。万戸長、千戸長、百戸長の子弟はケシクテイとよばれる大ハンの親衛隊を構成して、チンギス・ハン一族に忠誠を誓うとともに各種の特権を与えられた。
チンギス・ハンは、国家の財政的基礎を固めるため、金、西夏など南方の農耕地域に侵入し、多数のウマ、ラクダ、財物を略奪し、職人、農民を捕虜にして遊牧地帯内部に移住させ多くの集落をつくった。またユーラシア大陸に通ずる東西貿易路を確保する目的で西方へ軍を進めた。まず、ナイマン部族の族長の王子クチュルクが西遼(せいりょう)(カラ・キタイ)へ亡命して王となっていたので、これを討ってその地を併合した。ついで、西アジアのイスラム世界の保護者をもって自任していた、ホラズム(フワーリズム)・シャー朝に通商使節団を派遣して、これが虐殺されたのを機に西方への大遠征を敢行した(1219~25)。ホラズム国王ムハンマドはカスピ海中の孤島に逃れて死に、その王子ジェラール・ウッディーンはインダス河畔の決戦で敗れてインドに逃亡したという。モンゴル軍はさらに進んでロシア諸公の連合軍を撃破し、クリミア半島を略奪して帰国した。チンギス・ハンはまもなく西夏を討ち、その際病死した(1227)。
チンギス・ハンは、西方遠征から凱旋(がいせん)したのち、その領土のうち、遊牧地域は、そこに遊牧する民衆とともにこれを諸子、諸弟に与えた。モンゴル本土は、これを自分の領土として末子のトゥルイに譲ることに決め、イリ川流域を中心とするナイマン部族の故地、北西モンゴル高原を第3子オゴタイ(オゴタイ・ハン国)に、西遼の故地、中央アジアを第2子チャガタイ(チャガタイ・ハン国)にそれぞれ分与し、南ロシアのキプチャク草原は、将来これを長子のジュチの領土とすることにした(のちにキプチャク・ハン国となる)。また、東部モンゴル高原、満州(ほぼ今日の中国東北)方面には弟たちを分封し、南方の農耕地帯は、これを一族の共有財産とし、そこにダルガチ(代官)、駐屯軍を配して治安維持、徴税にあたらせた。
[護 雅夫]
ハンは、以前には有力な部族長たちの会議であるクリルタイで選ばれることになっていたが、チンギス・ハンの即位後はこの慣習は形式だけのものとなり、彼が死ぬと、クリルタイは彼の指名しておいたオゴタイを大ハン位につけた。オゴタイは金に対して大規模な戦争を再開し、これを滅ぼして淮河(わいが)以北の中国を占領し(1234)、西方に向かっては、ジュチの第2子バトゥに命じてロシア、ヨーロッパ各地を討たせ(1236~42)、この結果、南ロシアがモンゴル帝国の領土となり、ここにキプチャク・ハン国が成立した。オゴタイ・ハンは、オルホン川の上流域に首都カラコルム城を築き、ここを起点として領内各地への道路を開いて、その沿道に駅伝の制度を整えた。駅伝は、普通にはウマで1日行程ほどの距離ごとに駅舎を設け、その站戸(たんこ)に食糧、ウマ、車などを提供させて、使節・官吏・軍隊の往来、貢納そのほかの運搬の便を図ったもので、これによって広大な領土内の交通が容易になり、東西文明の交流が促進された。また、オゴタイは耶律楚材(やりつそざい)ら征服地帯の学者、文化人を用いて行政機構を整備し、最初の定額税法を施行した。
オゴタイ・ハンの死後、彼の皇后が摂政したのち、オゴタイの長子グユクが第3代の大ハン位についたが、彼が死ぬとその皇后が摂政となった。このように大ハン位の空白時代が続いたのは、オゴタイ一門とバトゥの味方するトゥルイ一門とが対立したためである。オゴタイ一門は次代の大ハンとしてオゴタイの孫シレムンを、これに対してバトゥはトゥルイの長子モンケを推して互いに争ったが、結局モンケが第4代の大ハンとなり、これ以後、モンゴル帝国~元(げん)朝の大ハン位はトゥルイの子孫によって独占されることになった。そして、こうした一族内部での対立抗争が、やがてモンゴル帝国を分裂に導く重要な原因となった。
モンケ・ハンは、オゴタイの死後約10年の間に乱れた統治機構を刷新し、官制を改革するとともに、華北、トルキスタンの要地を確保し、戸口調査を実施して税制を改正した。モンケ・ハンは内部の再統一にいちおう成功すると、次弟フビライを四川(しせん)、雲南、安南、チベットの討伐に出軍させ、第3弟フラグをイスラム教国の平定に派遣した。フラグはイランに侵入して、バグダードを攻略し、アッバース朝を滅ぼし(1258)、イランにイル・ハン国を建てた。モンケ・ハンも南宋(なんそう)討伐作戦に加わったが、その途中四川省で病死した。
[護 雅夫]
モンケ・ハンが死ぬと、首都カラコルムでその留守を預かっていた末弟のアリク・ブハは、部下およびオゴタイ系諸王の支持を得て大ハン位につこうとした。そこでフビライは南宋(なんそう)と一時的に和平を結んで内モンゴル高原に帰り、腹心だけのクリルタイの推戴(すいたい)を受けて第5代の大ハンとなり、アリク・ブハを鎮圧して、1271年に国号を元(げん)と定めた。これに不満をもつ者は、オゴタイの孫ハイドゥをハンにいただいてフビライと対立し、ここに30年にわたる内戦が開始された。キプチャク、チャガタイ両ハン国はハイドゥ側にたち、イル・ハン国はフビライ側に味方して戦い、結局フビライ側の勝利に終わったが(1303)、そのときは、すでにフビライもハイドゥも死んだあとであった。この戦いは、遊牧・農耕両地帯を領有することによって開化した元朝、イル・ハン国と、遊牧地帯を本拠として従来の遊牧的伝統を保持しようとする諸ハン国との間の抗争であった。この結果、モンゴル帝国は事実上分裂したが、そののち、元朝と対立した諸ハン国がしだいに開化するに及んで、それらは元朝と和議を結ぶようになり、モンゴル帝国の連帯性が復活した。こうして、元朝はモンゴル帝国の正統を継ぐ宗主国とみなされ、すでに1310年に滅亡していたオゴタイ・ハン国を除く他のキプチャク、チャガタイ、イルの三ハン国はこれと連合し、ユーラシア大陸は、いわゆる「パクス・タタリカ」(タタールの平和)を享受し、アジアとヨーロッパとの間の文化交流は一段と活発になった。しかし、モンゴル帝国は、モンケ・ハンの治世までモンゴル高原の大ハンの権力と血縁のつながりとによって保っていた統一性を失い、元朝を宗主国とし、これとその政権外に独立した三ハン国とによって構成された連合王国にすぎなくなった。そして、この連合王国も元朝の滅亡(1368)によって崩壊した。
[護 雅夫]
『田村実造他著『東洋の歴史7 大モンゴル帝国』(1967・人物往来社)』▽『護雅夫他著『岩波講座 世界歴史9 中世3』(1970・岩波書店)』▽『ドーソン著、佐口透訳注『モンゴル帝国史』全六巻(平凡社・東洋文庫)』
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1206~1388
13世紀初めにチンギス・カンがモンゴル高原に建国し,そののち満洲,中国,中央アジア,東イスラーム世界,ロシアを版図に入れた多民族世界帝国。1206年テムジンはモンゴル高原の諸部族を統一し,即位してチンギス・カンとなり,大モンゴル国(ウルス)(モンゴル帝国)を建国。諸子,諸弟に分封し7ウルスの集合体として帝国の原型を確立,対外遠征を開始した。以後も拡大政策は継承され,バトゥの南ロシア,東欧遠征,フレグの西アジア遠征,クビライの南宋遠征により版図が拡大。一時カイドゥが中央アジアに大カアン(カガン)に対抗する勢力を結集したが,彼の死後は,大カアンのいる元を中心にキプチャク・ハン国,イル・ハン国,チャガタイ・ハン国がゆるやかに統合する帝国となり,「モンゴルの平和」といわれる繁栄を実現した。
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…国号の元は1271年(至元8)に《易経》の乾の〈大いなるかな乾元,万物資始す〉に基づき,定められた。
【政治】
1205年アルタイ地方に拠る強敵ナイマン部の撃滅をもって完結した太祖チンギス・ハーンのモンゴリア統一によって,後年アレクサンドロス大王の帝国をも凌駕するまでに成長するモンゴル帝国はその政治的基盤を固めた。ところで牧畜経済にとって唯一の資財たる家畜はその累積がきわめて困難な関係上,遊牧国家がその発展を期するために隣接する異なる経済圏の制圧を企てるのは匈奴帝国以来の通例である。…
…チンギス・ハーンはその後西夏,金への遠征を行うとともに,19年には中央アジアへ兵を進め,ホラズム王国を滅ぼした。ここにモンゴル帝国は未曾有の広大な領域を持つにいたったが,その遠征事業はチンギス・ハーンの子孫にうけつがれ,34年(天興3)には金,1230年代後半に南ロシア,58年アッバース朝,79年(祥興2)には南宋がその領域に入った。この時代,交通路が整備され東西交易が活発に行われ,とくに中国やアラビアの科学技術は相互に大きな影響を与えた。…
※「モンゴル帝国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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