モンゴル襲来(読み)モンゴルしゅうらい

世界大百科事典 第2版 「モンゴル襲来」の意味・わかりやすい解説

モンゴルしゅうらい【モンゴル襲来】

1274年(文永11)と81年(弘安4)の2度にわたって行われたモンゴル(元)軍の日本来襲。蒙古襲来,蒙古合戦,元寇,また文永・弘安の役ともいう。
[日蒙交渉]
 1266年8月,モンゴルのフビライハーンは日本と通好するために日本招諭の国書を草した。これは68年1月に日本へもたらされ,鎌倉幕府を経て朝廷へまわされた。朝廷ではこれを侵略のさきぶれととり,返書を拒絶した。このあと朝廷や幕府は多くの神社で異国降伏の祈禱を行い,幕府はまた国内の防備を固めていった。

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百科事典マイペディア 「モンゴル襲来」の意味・わかりやすい解説

モンゴル襲来【モンゴルしゅうらい】

文永・弘安の役

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モンゴル襲来」の意味・わかりやすい解説

モンゴル襲来
モンゴルしゅうらい

元寇」のページをご覧ください。

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世界大百科事典内のモンゴル襲来の言及

【壱岐島】より

…旧国名。現在の玄界灘上の島で,全島が長崎県壱岐郡。
【古代】
 対馬島とともに古くから日本と朝鮮間の海上交通の要衝として重視され,その名はすでに《魏志倭人伝》に〈一大(支)国〉として見え,対馬島よりも田地は広く,人口は3倍であったという。大化前代は壱岐県主に支配され,律令制下では石田・壱岐2郡を管して国に準ずる取扱いを受け,のちには名実ともに壱岐国と称された。《延喜式》では西海道に属する下国とされた。国府ははじめ壱岐郡に置かれたが,のちには石田郡に移され,壱岐直の氏寺をあてたとされる島分寺は壱岐郡に所在した。…

【肥前国】より

…なかでも皇室領神崎荘は3000町にも及ぶ肥前国最大の荘園であり,承久の乱(1221)後幕府に没収され,三浦泰村が地頭に補任されていたが,宝治合戦(1247)による三浦氏の滅亡後は,ふたたび皇室領として伝領されることになり,1272年(文永9)後嵯峨上皇より後深草上皇に譲られている。しかしモンゴル襲来(1274,1281)後恩賞地不足に苦しんだ幕府は,正応年間(1288‐93)鎮西御家人に対してこれを恩賞地として配分している。このほか最勝光院領松浦荘,蓮華王院領長島荘,九条家領彼杵荘,平安時代は最勝寺領で後に得宗領となった河副荘などが注目されるが,南北朝内乱以後は在地武士などの侵略によっていずれも荘園としての機能を失っている。…

【伏敵篇】より

…《靖方溯源(せいほうさくげん)》(上世~文応1年の海外交渉を略述),《竹崎季長蒙古襲来絵詞》(《蒙古襲来絵詞》と同一)の2冊を付録とする。モンゴル襲来を中心に,1260年(文応1)の蒙古,高麗2国との交渉から,応永の外寇(1419)を経て,1443年(嘉吉3)の嘉吉条約(癸亥約条)に至るまでの外寇関係史料を編年的にまとめたもので,近代の蒙古襲来研究に画期的な意義を持った。【佐伯 弘次】。…

【蒙古襲来絵詞】より

…肥後国の御家人竹崎季長(たけざきすえなが)がモンゴル襲来の際の自分の活躍をかかせた絵詞。《竹崎季長絵詞》ともいう。…

※「モンゴル襲来」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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