精選版 日本国語大辞典 「モンテーニュ」の意味・読み・例文・類語
モンテーニュ
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フランス・ルネサンス期の代表的思想家、モラリスト。『随想録』の著者。南西フランス、ペリゴール地方のモンテーニュの城館(現、ドルドーニュ県サン・ミシェル・ド・モンテーニュ)で2月28日に生まれる。商業で蓄財したエーケム家は、曽祖父(そうそふ)ラモンRamon Eyquem(1402―1478)の代にボルドー近郊のモンテーニュの地を買い取り、貴族(ジャンティヨム)となった。祖父グリモンGrimon Eyquem de Montaigne(1450ころ―1519)、父ピエールPierre Eyquem de Montaigne(1495―1588)の代にボルドー市政にかかわりをもつようになる。父はフランソア1世のイタリア遠征に参加し、ボルドー市長も務めた有為・公正な人物であったが、学芸についても理解があり、長男ミシェルの養育にもさまざまに配慮したとみられる。母アントアネットAntoinette de Louppes de Villanueva(1511―1601)は、スペインでの迫害を逃れてきたユダヤ人の血を引くといわれる。
モンテーニュは幼時からラテン語の特殊教育を受け、それが後年の古典の教養の下地となった。6歳でボルドーのコレージュ・ド・ギエンヌに入り、良師に巡り会い、十分な配慮を得て成長した。その後トゥールーズの大学で法学を修めたか、あるいはパリで遊学の期間を過ごしたらしい。帰郷後ペリグーの御用金裁判所に入り、さらに1557年そのままボルドー高等法院に移った。そこでの同僚エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーÉtienne de La Boétie(1530―1563)と深い友情を結び、その人文主義的・ストア的精神に影響を受けたが、ラ・ボエシーは早世し、モンテーニュは友情の記憶を生涯抱き続ける。この前後、新教・旧教両派の争いが激化し、宗教戦争が起こったが、モンテーニュはパリで旧教信仰の宣誓に加わり、またルーアン包囲戦などに赴いた。1565年ボルドーの法官一族のフランソアーズ・ド・ラ・シャセーニュFrançoise de La Chassaigne(1545ころ―1602ころ)と結婚、多額の持参金を得た。1568年父の死によりモンテーニュの領主となった。翌1569年、父の勧めでかねて進めていた15世紀スペインの神学者レーモン・スボンRaymond Sebond(?―1436)の『自然神学』の翻訳を出版した。これは人間理性に基づいてキリスト教信仰の真実性を説く趣旨の書物である。1570年37歳でボルドー高等法院参事を辞し、引退を決意する。「読書室(リブレリー)」を自邸の塔にしつらえ、読書と思索の生活に入るが、その後も完全に公生活から解放されたわけではない。1571年ラ・ボエシーの遺稿集を出版した。同年アンリ3世からサン・ミシェル勲章と王室伺候武官の称号を受け、宮廷人としての栄誉を得た。
[大久保康明 2015年6月17日]
1572年ごろ『随想録』の草稿を書き始め、宗教戦争などによる中断はあったものの、1580年二巻本としてボルドーで出版した。同年持病の腎石(じんせき)症治療のため、スイス・ドイツ経由でイタリアへの旅にたった。この旅行は1年半に及ぶが、政治上外交上の目的もあったとみられる。『イタリア旅行記』Journal du voyage en Italie(1774年、没後刊)はこのおりに書かれた。イタリアには1年間滞在したが、その間にボルドー市長に選ばれたことを知り、1581年末帰国した。在任は2期4年にわたったが、とくにその後半は宗教内乱やペスト流行により多難であった。その後『随想録』に第3巻を加え、1588年三巻本としてパリで出版した。晩年はアンリ4世の政界復帰の懇請も固辞し、『随想録』の補筆に暇をあてていたが、1592年9月13日、自邸で没した。これをもとに「義理の娘(フィーユ・ダリヤンス)」グルネ嬢Marie Le Jars de Gournay(1566―1645)は著者の死後1595年に新版を出した。
モンテーニュの生涯は文人としての活動ばかりでなく、おもに調停者としての政治的・外交的活動にもあてられ、規定しがたい広がりをもつ。その行動には、圧制を排し、異なった立場の融和を目ざす姿勢がうかがえる。宗教的にもいちおうの旧教帰依(きえ)の立場はとったが、新教派のアンリ・ド・ナバール(後のアンリ4世)とも親しく、時代の束縛から自由であろうとした。生涯親しんだ古典古代の異教的教養も、そうした姿勢に影響したであろう。唯一の著書ともいうべき『随想録』には穏和な懐疑精神が通い、事象の本質に達しえない人間理性を思いみて、自己と世界の移り行きを描く態度がある。多く援用される古今の思想的著作も、完全に彼の考えと同一化することはなく、最終的に自己が判断の主体として尊重される。モンテーニュはこの著作によってフランス・モラリスト文学の礎(いしずえ)を築いたばかりでなく、後代のフランス文学、ヨーロッパ文学に深い影響を及ぼした。
[大久保康明 2015年6月17日]
『関根秀雄訳『モンテーニュ全集』全9冊(1982~1983・白水社)』▽『関根秀雄著『モンテーニュとその時代』(1976・白水社)』▽『荒木昭太郎著『人類の知的遺産29 モンテーニュ』(1985・講談社)』
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1533~92
フランスの代表的モラリスト。宗教戦争の渦中に生きて人間の本質を深く洞察し,その『随想録』のなかに鋭くまた暖かい人間観察の記録を残し,のちのフランス文化に大きな影響を与えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…とはいうものの,ヨーロッパ文学で散文芸術の一つのジャンルとして確立された〈エッセー〉(リテラリー・エッセーとも呼ぶ)は,日本の随筆とかなり近いものと考えてよい。その功績は主としてモンテーニュに帰せらるべきであろう。彼の《随想録》(1580,88)は,深く広い思索を,くだけた気ままな文体で,気の向くままに書きとめたかたちをとっており,新しい魅力ある散文芸術様式として後世に大きい影響を及ぼしたからである。…
…後期にはアイネシデモスやセクストス・ホ・エンペイリコス等が属するが,前者は感覚的認識の相対性と無力さを示す10の根拠を提示したことで知られ,後者は経験を重んずる医者として諸学の根拠の薄弱さを攻撃し,またその著書はギリシア懐疑論研究の主要な資料となっている。近世においては,ルネサンスの豊かな思想的混乱の中で懐疑思想も復活し,伝統的な思想や信仰を批判する立場からも,逆にそれを擁護する立場からもさまざまなニュアンスの懐疑論が主張されたが,その中でもモンテーニュのそれはたんに否定的なものにとどまらず生を享受する術となっている点で,またパスカルのそれはキリスト教擁護の武器として展開されているにもかかわらず作者の意図を越えて人間精神の否定性の深淵を垣間見させてくれる点でそれぞれ注目に値する。なおD.ヒュームはしばしば懐疑論者のうちに数えられ,彼に刺激を受けたカントについても懐疑論との関係で論じられることもある。…
…フランスの思想家,モラリスト,モンテーニュの随想集。人間の性質や行動,事象や事件についての多様な主題による長短さまざまな論考3巻計107章より成る。…
※「モンテーニュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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