世界大百科事典 第2版
「モンテ・コルビノ」の意味・わかりやすい解説
モンテ・コルビノ【Giovanni da Monte Corvino】
1247‐1328
イタリア人宣教師。英語名ジョン。モンテ・コルビノの出身,フランシスコ会所属。ペルシア湾のホルムズから海路を経て,中国の泉州に上陸,1294年元の都カンバリク(北京)に入った。ローマ教皇ニコラウス4世の書簡をテムル(元の成宗)に呈し,首都に滞在して布教活動に従事する許可を得た。現地で死亡するまでに2通の手紙を報告書として残している。首都に二つの教会を建て,改宗者は1万人に達した。【勝藤 猛】
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世界大百科事典内のモンテ・コルビノの言及
【印刷】より
…こうした旅行者が中国の印刷物を持ち帰る可能性があったことが推定される。マルコ・ポーロ以後になると,94年に大都北京に着いたモンテ・コルビノは北京でのキリスト教伝道に成功し,1304年には大司教に昇格し,ローマから彼を助ける7人の司教が送られてきた。これらの宣教師たちは伝道のため聖典や図像を印刷しており,ヨーロッパに印刷術を伝える可能性があったことが考えられる。…
【オロン・スム】より
…長方形の外城(南北約570m,東西約960m)とほぼ方形の内城(南北約280m,東西約290m)からなり,内城の東区内中央に宮殿址がある。外城からは,景教寺院とカトリック教会と想定される建物が発見され,後者はイタリア人司教モンテ・コルビノの建てたものと考えられている。モンテ・コルビノが改宗させたというフビライの外孫ゲオルギス王の陵墓も見いだされた。…
【ソーマ】より
…その後2人はイル・ハーン国王アルグンの使節としてローマとパリに行き,ローマ法王とイギリス,フランス両国王に会った。このときの法王との会見が法王によるモンテ・コルビノの東方派遣のきっかけとなった。これは彼の西方への大旅行とともに歴史的に大きな意味をもった。…
※「モンテ・コルビノ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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