ラテンアメリカ(英語表記)Latin America

翻訳|Latin America

デジタル大辞泉 「ラテンアメリカ」の意味・読み・例文・類語

ラテン‐アメリカ(Latin America)

中南米で、スペインポルトガルなどの文化を背景とする国々の総称。19世紀までは主にスペインの植民地だった。北のアングロアメリカに対する。L.A.。

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精選版 日本国語大辞典 「ラテンアメリカ」の意味・読み・例文・類語

ラテン‐アメリカ

  1. ( [英語] Latin America ) 南アメリカ、中央アメリカ、メキシコおよび西インド諸島を含む地域の総称。ラテン語系の言語の、スペイン語・ポルトガル語・フランス語などが用いられ、ラテン文化を基調とする社会を構成している。アングロ‐アメリカに対していう語。〔万国新語大辞典(1935)〕

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改訂新版 世界大百科事典 「ラテンアメリカ」の意味・わかりやすい解説

ラテン・アメリカ
Latin America

ラテン・アメリカは,アングロ・アメリカに対する概念であり,カナダ,アメリカ合衆国を除く北アメリカと南アメリカの諸地域,すなわちメキシコ以南の大陸部およびカリブ海地域の諸島の総称である。

この地域においては,スペイン語,ポルトガル語,フランス語などラテン系言語が公用語として用いられ,文化伝統もラテン系であるため,ラテン・アメリカの名称が生まれた。ただし,カナダには多くのフランス語を話す住民がおり,アメリカ合衆国は2000万以上のスペイン語人口を擁する一方,ラテン・アメリカにも,英語,オランダ語を使用する地域があるから〈アングロ〉〈ラテン〉の区別は必ずしも厳密なものとはいえない。中南米という地理学的名称もあるが,メキシコは北アメリカに含まれる。また,メキシコ,グアテマラ,ペルー,ボリビアなどには,ナワトル(ナワ),オトミ,マヤ,ケチュア,アイマラなどの原住民言語を話す数百万の人々が住んでいる。

 1997年の時点において,ラテン・アメリカには33の共和国と,カリブ海諸島中のいくつかの非自治地域,および南アメリカ大陸部にあるフランス植民地ギアナが含まれ,また,イギリス,アルゼンチン間で領有上の主張が対立しているフォークランド(マルビナス)諸島もその圏内に入る。ラテン・アメリカの総面積は約2053万km2で,日本の約54倍にあたり,世界の陸地面積の15%を占める。人口は約4億8200万(1995)だが,人口増加率が1.8%(1990-95)と高く,このままでいけば,2010年には5億8000万近くなるだろう。

ラテン・アメリカの名が示すように,基本的にはスペイン,ポルトガルによって代表されるラテン系ヨーロッパ文化がこの地域の文化的骨格をかたちづくっているが,コロンブス到着以前に長い歴史的展開を示した先住民文化や,16世紀以後奴隷として連れて来られたアフリカ人の文化も,それぞれの地域の文化に強烈な特色を与えている。同じくヨーロッパ人,先住民,アフリカ人によって人口構成の基礎がつくられたアメリカ合衆国の場合は,各民族集団間の隔離が特色であったのに対し,ラテン・アメリカでは,3者間に非常な血の混合が起こり,メスティソ(白人と先住民の混血),ムラート(白人と黒人の混血),サンボ(先住民と黒人の混血)などの集団が多数発生して,社会的に重要な意味をもっている点が注目される。先住民についていえば,アメリカ合衆国やカナダの狩猟民や小規模な農民社会と違い,アステカ,マヤ,インカなどの文明地帯には,安定した農村社会と密集した人口があり,また金銀などの鉱物資源が早くから発見されたため,スペイン人の征服後,彼らの労働力徴発による生産体系が急速に成立した。この点が,自営農民や商人が主体となって白人社会をつくり,先住民の存在を排除したアメリカ合衆国の場合とまったく事情が違っていた。スペイン王室は,副王(副王制)やその他の行政官を送ってアメリカの植民地を統制し,しばしば現地の征服者,植民者との間に軋轢(あつれき)を起こしたが,本国の絶対主義的体制は植民地における民主主義的体制の成立に強い牽制を加えた。これは,国王が総督を送って統治させながらも,本国における自由主義思想や議会制度の発展の強い影響のもとに植民地における自治組織や権利意識の発達がうながされたイギリス領アメリカの場合とまったく対蹠(たいしよ)的である。また,宗主国の重商主義的規制についても,スペイン植民地のほうがイギリス領植民地よりもはるかに強く,産業の発達が妨げられる結果となった。さらに,イギリス領アメリカには,有名なピルグリム・ファーザーズをはじめとして信仰の自由を求めて渡航した人々が多く,しかも彼らは自己自身の内部に宗教を守り,先住民に対する布教活動を重視しなかったのに対し,ラテン・アメリカでは,教皇から布教権を委託されたスペイン,ポルトガル国王が,その植民地経営の一環として修道会,教会の活動を重視し,植民者だけでなく,先住民の布教も強力に推進した。そして,文化,教育の多くの面において,神学的要素が長い間支配的な力を振るい,啓蒙的進歩思想の発達に抵抗した。

 以上のように,封建制や絶対主義体制を知らず,近代市民社会に大きく傾斜しながら発足したアメリカ合衆国と比べて,ラテン・アメリカは,中世的,封建的な制度や文化の残滓(ざんし)を多分に残しながら出発し,しかもヨーロッパ近代社会の発展にとりのこされた宗主国の厳しい支配を300年以上にわたってうけた。そこで,19世紀初頭,ラテン・アメリカ各地に独立運動が起こり,諸共和国が成立したときにも,大きな社会的不正や不平等を伴った封建遺制が根づよく残り,大土地所有者やカウディーリョ(政治ボス)の寡頭政治が横行することになった。おりしも新市場を求めて進出してきた資本主義の先進諸国が,ラテン・アメリカの支配層と結びついて,産業や開発に手をつけたとき,この地域特有の政治・経済的従属形態が成立した。19世紀以来今日に至るまでのラテン・アメリカの歩みは,このような矛盾を解決するための苦闘とみることができよう。
執筆者:

スペインの植民地経営の基礎は1492年から1550年に至るいわゆる発見・征服時代に築かれた。スペイン国王はコロンブス,コルテス,ピサロ,その他代表的なコンキスタドールたちに全面的な政治権力をゆだねたので,その結果,彼らは征服地においては君主のような存在となった。しかし,いったん征服地の重要性が明らかになると,王室はコンキスタドールの権力の削減に努め,中央集権化を図るためにスペインで採用した諸制度を同じ目的のもとに新たに発見・征服したインディアスへ移植した。16世紀半ばごろには,インディアスの政治組織は決定的な形を整え,それはわずかな変化を受けつつも18世紀後半のブルボン王朝による改革の時期まで存続した。

 インディアス会議はもともとカスティリャ枢機会議内に常設された委員会であったが,1524年に枢機会議に昇格し,以後ほぼ植民地時代末期までインディアス統治の中枢機関として機能を果たした(インディアス枢機会議)。インディアスにおいて国王を代表した主要な官職,機関は副王,総監とアウディエンシアである。副王と総監は本質的にはほぼ同じ役割を有し,異なる点は副王にはより重要かつ広大な土地が管轄地として与えられたということにすぎない。総監は機構上は副王に従属していたが,実際上は副王から独立して副王領内の広大な土地を統治した。さらに長官領と呼ばれる下部の行政区画があり,これはアウディエンシアによって治められた。その際,アウディエンシアの長官は統治者として行動したが,一般に軍事的権威は副王に留保されていた。一方,地方行政は普通コレヒドールと呼ばれる王室官吏に任され,彼らはそれぞれの領域内で最高の司法および行政権を行使し,カビルドでは国王の利害を代表した。コレヒドールにはスペイン人の町を統轄するものと王室への貢納義務を負う先住民インディオの村や町を治めるものの2種類があり,後者はコレヒドール・デ・ロス・インディオスと呼ばれ,任期は3年で,白人による不正行為からインディオを保護することを主要な任務とした。しかし,彼らはインディオと直接接触できる権利を悪用して,スペイン人植民者や,ときにはインディオのカシケ(首長)とも共謀して,先住民を圧迫する存在となった。

 スペイン王室は官吏の義務遂行を図るためさまざまな規則を作成した。レシデンシアと呼ばれる執務監察制度は官吏の任期末に行われる公聴会のようなもので,だれでも判事に対し当該官吏の不正行為を訴えたり,証言したりすることができた。それ以外にビシタ(巡察)と呼ばれる制度があり,これは国王もしくは副王に特別に任命された官吏(ビシタドール)が予告なしに行う役人の行動調査であった。一般にビシタは,レシデンシアと比較すると,官吏の不正行為を予防したり処罰したりするのに,さほど有効ではなかった。

 各都市にはカビルドもしくはアユンタミエントと呼ばれる市参事会があり,それは自治権をもつ唯一の政治組織であった。初期は王室が市参事会を構成するレヒドールやアルカルデの任命権を握っていたが,フェリペ2世以後,スペイン経済の悪化にともない,それらの官職は入札によって売却されることになり,入札者は王室に税を支払うことによってその官職を再売却したり譲渡したりする権利が認められた。こうした官職売買は植民地時代を通じてあらゆる官職にわたって広く行われた。市政は概して閉鎖的で,裕福な土地所有者,鉱山所有者や大商人などによる寡頭政治が行われた。彼らはしばしば報酬を得ない代りに,その地位を利用して共有地を私有したり,インディオを使役したりして富を築いた。総督やコレヒドールの厳しい監視を受けた結果,カビルドはしだいにかつての自治権を喪失していった。しかし,その非民主的性格,効率の悪さや衰退する権威と自治権にもかかわらず,カビルドはかなり重要な組織であった。カビルドはクリオーリョ(クレオール)がその成員の大多数を占める唯一の政治組織として19世紀の独立戦争の時代に重要な役割を果たすことになったのである。

 副王,アウディエンシアなどに代表された王権は副王領の中心地とその近隣地域では揺るぐことはなかったが,はるか遠方の孤立した地方では大土地所有者(アシエンダ)の権力が絶大であった。彼らは広大な所領を有し,まるで封建領主のごとく所領内で裁判権を行使し,裁判所や監獄までも設け,そのうえ私的な軍隊を養っていた。17世紀後半,スペインが政治的にも経済的にも衰落していくにつれて,スペインとインディアスの絆は弛緩し,権力の分散化はますます助長された。王室という中央政府への名ばかりの権力集中と地方レベルにおける大土地所有者の実際上の絶大な権力はきわだった対照をなし,その状況は植民地時代から独立以後のイスパノアメリカに受け継がれ,現在も多くの国々の政治活動を特徴づけている。

 スペインの植民法(インディアス法)は遵守されないことが多かった。〈服すれど守らず〉という人口に膾炙(かいしや)した句は,法令の実施を任務とする王室官吏が,つねに経済的かつ社会的に密接につながりをもっていた植民地の強力な上層階級側から法令の停止を求められたときに抱いたジレンマを如実に示している。植民地時代当初からエンコミエンダをめぐる闘争にみられるように,キリスト教化のためのみならず,国庫収入の安定を図るためにもインディオ保護の立場をとらざるをえなかった王室は,インディオを利用して最大の利益の獲得をもくろむ植民者と対立し,それは植民地時代を通じて変わらなかった。そのうえ,地理的隔りや交通・通信手段の未発達が原因で,王室の発布するインディオ保護法はしばしば無視される結果になった。王室は往々にしてそのような違反行為に目をつむったが,それは強力な植民者との対立を回避しようとしたためばかりではなく,インディオ保護法がときどき王室自身が求める目先の利益--戦費の調達や寄生的な貴族の維持費の確保など--に反したからでもあった。

植民地社会では,原理的には人種,職業および宗教が個人の社会的地位を決定する基準となった。肌が白いことは社会的優越性を示すシンボルであったが,すべての白人が特権的な経済集団に属していたわけではなく,放浪者や乞食などに身を落とした白人もかなり存在した。一方,裕福な白人の植民者を父にもち,嫡子として認知されたメスティソムラートが植民地貴族になった例もある。したがって,高貴な出自とか人種的な純潔さよりも莫大な財産の所有が植民地貴族階級の顕著な特徴であった。とはいえ,植民地社会の最上層部が圧倒的に白人によって占められていたのは紛れもない事実である。特徴的なのは,その白人の支配階級内部に分裂,対立が生じたことである。クリオーリョと呼ばれる植民地生れのスペイン人とペニンスラールと呼ばれるヨーロッパ生れのスペイン人は法的には平等であったが,実際にはクリオーリョは植民地時代全般を通じてペニンスラールと区別されて,教会関係や行政上の高位の官職や大規模な交易からは除外されていた。しかし,クリオーリョは鉱山,プランテーション,牧畜などでしだいに富を蓄え,それにともないペニンスラールに対する憎しみも激しくなっていった。植民地上層階級内部におけるこうした対立はクリオーリョによる独立戦争を惹起させる最大の原因となった。

 メスティソは大半が私生児で,インディオ社会にもスペイン人社会にも同化しえない根なし草のような存在で,普通インディオからもスペイン人からも軽蔑され社会的にはきわめて不安定な身分であった。それとは対照的にインディオは法律上その地位を明確に定められ,少なくとも法の保獲を受けていた。しかし,現実には貢納,賦役や教会税など大きな負担に苦しめられ,悲惨な生活を強いられた。インディオの村の中にはスペイン人の町と同じような市政(カビルド,レヒドール,アルカルデ)を備えたものもあった。白人が加える不正や侵略に対してインディオ共同体は土地のみならず,文化的アイデンティティ,言語,社会組織などを守るため激しい抵抗を示すこともあった。黒人,ムラート,サンボ(インディオと黒人の混血)は植民地社会の最下層におかれた。16世紀末,およそ90万の黒人奴隷が導入され,18世紀末には1500万ぐらいの奴隷がいたと推定される。奴隷ではない自由な身分の黒人やムラートも数多く,彼らは農業や手工芸に秀で,植民地経済の発展に寄与した。

 植民地における社会生活の中心は植民都市(メキシコ市,リマなど)とアシエンダ,つまり広大な私有地である。都市はヨーロッパのように交易や産業の中心地として自然発生したのではなく,近隣地方の植民と管理のためや戦略上の必要から計画的に建設された。都市の周囲にはバリオと呼ばれるスラム街があり,多くのインディオやメスティソが居住していた。アシエンダは17世紀末には自給自足しうる大規模な経済・社会単位となり,しばしば近隣のインディオの村をも包みこんだ。こうしてかつてはその土地の所有者であったインディオが,実質的には農奴のような存在(ペオン)となってアシエンダで暮らすようになった。植民地社会の封建的側面を最も顕著に示したアシエンダは現在も暗い影を落としている。

 18世紀以降ハプスブルク王朝に代わってスペインを治めたブルボン王朝は行政の効率化と国庫の増収を最大の目標として貿易の自由化などの商業上の改革や新しい副王領の設置やインテンデンシア制の導入をはじめとするさまざまな政治的改革に着手した。ブルボン王朝による自由主義的な改革は植民地の大土地所有者,商人や鉱山所有者を豊かにし,上層階級の青年たちの知的視野を拡大するのに役だちはしたが,一般大衆はなんら恩恵に浴さなかった。むしろ新税の賦課,特権的な会社の設立,政府による専売制などによって国庫の増収を図るブルボン王朝の努力は下層階級をさらにいっそう悲惨な状況へ追いつめた。その結果,1780-81年,ペルーやヌエバ・グラナダ(コロンビア)などで大規模な民衆蜂起が発生した。一方,改革は18世紀のヨーロッパ経済の高揚と結びついて数多くのクリオーリョの上層階級に物質的繁栄をもたらしたものの,新しい啓蒙思想に触れたクリオーリョたちは,植民地経営や教会関係の要職から除外されている状況にますます不満をつのらせていった。こうして植民地支配の強化を目的としたブルボン王朝による改革は皮肉なことにクリオーリョによる独立運動を早める結果になった。
執筆者:

1500年,P.A.カブラルによって〈発見〉され,ポルトガル領となったブラジルはしばらく放置されていたが,その重要性が認識されるにつれ,ポルトガルの統制がしだいに強化された。1530年,王室はソウザMartim Afonso de Sousa(1500-64)に探検と入植を命じ,植民地を15のカピタニア(カピタニア制)に分割した。サン・ビセンテとペルナンブコ以外のカピタニアの植民は失敗したので,49年サルバドルに総督府が置かれ,初代総督T.deソウザが派遣され,植民地支配に王室が直接乗り出すことになった。56年リオ・デ・ジャネイロを根拠地としていたフランス人が駆逐され,16世紀末にはブラジルはポルトガルにとって最も重要な植民地となっていた。スペインによるポルトガルの併合時代(1580-1640)にブラジルの一部は一時オランダ人に占領された。1627年,オランダ艦隊がバイアを,30年にはペルナンブコを攻撃し,レシフェを占領した。40年にポルトガルがスペインから離脱するころには,オランダは七つのカピタニアに166の砂糖工場をもっていたが,その後ポルトガル人の反乱が起こり,54年にレシフェのオランダ人は降伏した。

 ブラジルには広大な土地が存在したが,スペイン領アメリカ植民地の高文化圏(メキシコ,ペルー)のように多数の定着農耕民が存在していなかったため,セズマリア制によって,資力をもつ入植者に大区画の土地が与えられ,内陸からバンデイラによって狩り集められたインディオや,アフリカから連れてこられた黒人からなる奴隷が労働力とされた。大規模生産によって,効率と収益率を引き上げようとしたため,砂糖や綿花などのヨーロッパ市場向けの特定商品のみが栽培された。ブラジルの農産物は,ポルトガルの輸出の3分の2を占めた。ある商品の国際競争力が低下すると,その栽培地は衰退し,別の輸出商品が見いだされると,人と資本がそこに移動するという現象が起こった。16世紀半ばから17世紀半ばまで,ブラジルはヨーロッパの全砂糖需要を満たしたが,その後カリブ海の砂糖に圧迫され,中心地であった北東部(ノルデステ)は衰退した。17世紀末ミナス・ジェライスで金が発見されると,空前のゴールドラッシュが起こり,植民地各地とポルトガルから移住者が殺到した。このため,内陸部に多くの集落がつくられ,17世紀末までほとんど無人の地であったミナス・ジェライスに,1世紀後には50万人が住むようになった。スペイン領アメリカで初期から鉱業が富の源泉となり,内陸に都市が建設されたのとは異なった過程がみられた。そしてスペインとの間で境界線を定めたトルデシーリャス条約の限界を越えてポルトガル人が西進した結果,今日の国土の姿がほぼ植民地時代に形づくられた。

 1720年以降,ブラジル植民地の行政官は副王と呼ばれ,1763年植民地の首府がサルバドルからリオ・デ・ジャネイロに移った。1808年ブラガンサ王家はナポレオン軍の攻撃を避け,リオに遷都し,15年ブラジルはポルトガルと対等の王国となり,22年皇太子ペドロ1世により独立宣言がなされた。
ブラジル
執筆者:

スペイン,ポルトガル両国によって開始された新大陸における植民地経済の開発と新大陸貿易は,東インド航路の発見とも相まって新たな世界貿易体制を成立せしめた。この体制のもとで,トウモロコシ,カカオ,タバコ,ジャガイモなど,当時までヨーロッパでは知られていなかった農産物が新大陸から流入するが,とりわけヨーロッパ経済の発展にとり重要な役割を果たしたのは新大陸産の貴金属であった。金銀をはじめとする植民地商品の大々的な流入は西ヨーロッパ諸国に商業革命を引き起こすとともに,資本の蓄積と国民経済の成立を促し資本主義への移行の基礎的条件を提供した。この過程は,18世紀に最盛期を迎える奴隷貿易によって加速化される。一方,ヨーロッパからはサトウキビ,コムギ,綿花などの新たな農作物や,養蚕,牧畜,黒人奴隷のほか毛織物,金属製品などの製造工業品が新大陸にもたらされ,同時に進んだ農工技術も導入された。しかしながら,こうした新旧両大陸の経済交流は,基本的に新大陸からの一方的な富の流出を意味した。いわば新大陸における植民地経済の開発は,ヨーロッパ資本主義の形成に寄与する一方,ラテン・アメリカを将来にわたって後進地域として固定化するという歴史的性格を帯びていた。

 新大陸における植民地経済の展開は,一般に(1)略奪期,(2)鉱山開発期,(3)停滞期の三つの時期に区分される。地域により時期的にある程度のずれがあるとはいえ,おおよそ第1期は征服直後から16世紀中ごろまでの時代で,先住民社会に蓄積されていた財宝の略奪と,先住民の奴隷化およびその労働力を基礎とする砂金開発を特徴としている。第2期はアンデス高地のポトシ銀山の発見(1545)とメキシコ北部のサカテカス銀山の発見(1546)を契機とする銀開発の隆盛期である。砂金開発とならんで銀開発も征服時代の初期から始まっていたが,二大鉱山の発見に加えアマルガム法の導入(1556)によって低品位鉱石の精製も可能となり,またポトシ近くのワンカベリカで銀の精製に不可欠な水銀の鉱脈が発見された結果,16世紀末には新大陸の銀生産は急激に増大し,世界全体の9割に達した。こうして銀は生産額,生産量の両面で金を上回り,スペインの国庫収入の大半を占めるに至った。鉱山開発の進展にともなって農業,牧畜も発展し,鉱山を核とする地域間の分業体制も整っていった。

 一方,先住民保護運動の進展の結果,無償の強制労働は法的に禁止され新たにレパルティミエント制(アンデス地域ではミタ制)が確立されたが,実質上は奴隷労働と大差なく,先住民は引き続き過酷な労働を強いられた。征服による殺戮と居住地の強制的再編,たび重なる疫病のまんえんと過酷な労働の結果,先住民人口は征服後1世紀で10分の1以下に減少し,植民地経済は深刻な労働力不足に直面した。その解決策のひとつがアフリカ人奴隷の組織的な導入であったが,鉱山に奴隷が投入された例は比較的少なく,大半は農牧業とオブラヘと呼ばれる織物工場に向けられた。なおこの時期にはすでに植民者と先住民との間に生まれた混血(メスティソ)が徐々に増加しはじめ,一部は共同体を離脱した先住民とともに鉱山地帯に賃労働者層を形成した。

 1600年を境として銀生産は下降しはじめ,大陸部の植民地経済は全般に停滞期に突入し,富の象徴も銀山から土地所有へと重点が移る。植民地における土地は基本的に王権に帰属するものとされ,功労に応じて恩領地として下臣に付与されたが,資力のない植民者はしだいに教会と特権階層に土地を吸収され,17世紀前半にはアシエンダ制を基盤とする植民地の階級構造が確立される。植民地経済が低迷を続ける間,オランダ,イギリス,フランスの新大陸への進出が活発化し,17世紀半ばにはカリブ海地域にこれら列強による奴隷貿易・密貿易の拠点が建設され,さらに砂糖を中心とするプランテーション経済が大量のアフリカ人奴隷を基礎に形成されていった。なおブラジルではカリブ海に先んじて,16世紀以来北東部で砂糖プランテーションが発展し,17世紀前半には最盛期を迎えるが,ヨーロッパ列強の進出に圧迫され,1698年に金,1729年にダイヤモンド鉱山が発見されるまで,経済は低迷を続けた。

 18世紀後半に入りメキシコの銀生産は再興の兆しを見せ,ブラジルの金,ダイヤモンドも同世紀中ごろに最盛期を迎える。また同じころに始まる商業改革と1778年の貿易の自由化の結果,スペイン領のアシエンダの一部では商品生産も増加し始めた。しかし,1703年のメシュエン条約,1713年のユトレヒト条約を契機にカリブ海地域を地盤として確立された,イギリスをはじめとするヨーロッパ列強の絶対的優位のもとで,イベリア諸国の植民地経済はみずからの従属的地位を打破することは不可能であった。一方,この1世紀以上にも及ぶ停滞期に,植民地生れの白人の間に特権階層が徐々に台頭し,また混血を中心に中間層も形成され,本国人との間に経済利害の対立が顕在化していった。こうして植民地経済は,ヨーロッパ列強とそれに従属した植民母国に二重に従属するという国際環境のもとで,大土地所有制を基盤とし,先住民,黒人奴隷を最底辺とする社会構造を抱えたまま,独立期を迎えることとなる。

 なお貿易については〈通商院〉の項目を参照されたい。
執筆者:

18世紀の末から19世紀の初めにかけて,アメリカ大陸のスペイン領植民地の各地では,本国の統治に対する不満がしだいに強まっていたが,19世紀初めの四半世紀の間に,このスペイン領をはじめポルトガル領ブラジル,フランス領サン・ドマング(独立後のハイチ)の各植民地をいっせいに独立へと向かわせたのは,北アメリカでのアメリカ合衆国の独立,フランス大革命,それに続くナポレオン戦争という当時の激動した国際情勢であった。

 ラテン・アメリカで最初に独立を達成したのはカリブ海の島サン・ドマングである。18世紀前半以来,砂糖やコーヒーを生産する黒人奴隷植民地として特異な発展を遂げていたサン・ドマングでは,フランス革命の影響で蜂起した黒人奴隷たちが白人プランター(大農場主)の支配層を打倒し,イギリスの侵略軍やナポレオンが差し向けた鎮圧軍を破って,1804年に黒人と混血による独立国家ハイチを樹立した。スペイン領アメリカでは,ナポレオンによる本国占領を機に,10年から本国からの分離,独立の動きが始まった。メキシコではM.イダルゴJ.M.モレロスが率いた先住民や混血たちの反乱が起こり,ベネズエラやアルゼンチンではクリオーリョと呼ばれるスペイン系の植民地人が,自由な貿易を求めて反抗を開始した。その後スペイン領アメリカでの独立闘争は,本国での政治情勢の動きと関連しながら進んだが,南アメリカ大陸ではS.ボリーバルJ.deサン・マルティンの傑出した軍事指導によって各地の解放が進められ,24年のアヤクーチョの戦でボリーバル軍が副王軍に大勝して南アメリカのスペイン領の独立はほぼ確定した。メキシコではイダルゴやモレロスの反乱が鎮圧されたあと,保守的なクリオーリョたちが1821年に独立へと踏み切り,その影響で中央アメリカ地域も本国から独立した。アメリカ大陸でスペイン領としてとどまったのは,キューバとプエルトリコのみであった。一方,ポルトガル領ブラジルではナポレオンによる本国占領でブラジルに避難していたポルトガル国王ジョアン6世が帰国したのち,ブラジルに残った息子のドン・ペドロが1822年に本国からの独立を宣言して,ここでは平和裏に独立を達成し,帝政国家ブラジルを樹立した。

独立後生まれたラテン・アメリカの国々は,当時のアメリカ合衆国の憲法やフランス革命の人権宣言,さらにスペインの1812年憲法を模範として憲法を制定し,新しい国家機構を定めた。ブラジルを除いた国々が共和政を採用し,国民主権や三権分立を定め,先住民や混血にも法律上平等な地位を与えた。しかし,各地で新しく生まれた国家は外見的には近代西欧民主主義的な国民国家であったが,その実態は権威主義的な寡頭支配国家であった。植民地時代の社会構造は独立後も基本的には変わらず,富裕な大土地所有者層を中心とする寡頭支配階級が国家や社会に君臨し,人口の大多数を占める先住民や混血たちは依然として社会の下層を占め,彼らは財産資格や文盲条項などにより政治参加から排除されていた。

 独立後ラテン・アメリカの大部分の国は多難な国家形成の道を歩んだ。多くの国ではカウディーリョと呼ばれる軍人出身のボス政治家が国を統治し,カウディーリョたちによる権力闘争や,自由主義派と保守派との間の絶え間ない抗争で国内政治は混乱し続け,地方的な分裂,対立や国民意識の欠如が国家の統合を困難にした。このような混乱に乗じて欧米諸国による干渉や侵略がなされ,なかでもメキシコはアメリカ合衆国との戦争(米墨戦争,1846-48)で広大な領土を失ったり,フランスに占領されてナポレオン3世の傀儡(かいらい)であるマクシミリアン皇帝の統治下(1864-67)に置かれたりした(〈メキシコ干渉〉の項目参照)。

 このような諸列強による干渉や侵略の脅威に対処するため,1823年にはアメリカ合衆国のモンロー大統領がモンロー宣言(モンロー主義)を発してヨーロッパ列強による干渉の動きを牽制しようとした。また26年にはボリーバルの提唱でラテン・アメリカ諸国の共同防衛同盟を結成するためのパナマ会議が開かれたが,この同盟は実現しなかった。独立直後の時期にラテン・アメリカの統一が最も重要であることを認識し,それを強く念願していたのはボリーバルであったが,その後のラテン・アメリカはボリーバルの念願とはますます逆の方向に進んだ。中央アメリカでは1830年代末に中央アメリカ連邦(中央アメリカ)が解体し,ボリーバルがつくったグラン・コロンビア共和国も同様の道をたどった。19世紀後半には,パラグアイ戦争(1865-70)や太平洋戦争(1879-83)のようにラテン・アメリカ諸国どうしが戦争を起こして統一からはますます遠ざかった。

1870年代から80年代を画期として,ラテン・アメリカ地域も新しい時代に入っていった。この時期,中央アメリカやカリブ海,チリを除いたアンデス地域の諸国では,依然として不安定な状態が続いていたが,南アメリカ大陸ではチリに続いてアルゼンチン,ウルグアイがこれまでになく安定した時代を迎え,89年に帝政から共和政へと移行したブラジルでも政治は基本的に安定し,メキシコではP.ディアスによる独裁のもとで政治の安定が続いた。このような政治の安定が大きな誘因となって,この時期にはこの地域に対する欧米諸国からの投資が活発に行われ,それによってこの地域の多くの国々では,輸出向けの食料や原料を生産する経済体制が確立した。アルゼンチンではパンパを舞台に農牧業が飛躍的な発展を遂げ,メキシコでも鉄道の建設や鉱山の開発が進められ,ブラジル,コロンビアや中央アメリカ諸国ではコーヒー経済が発達し,ペルーやチリでもグアノや硝石の開発によるブームが訪れた。経済の発展により労働力が必要となったアルゼンチン,ブラジル,チリ,ウルグアイの諸国にはヨーロッパから多数の移民が来た。

 しかしこのようなモノカルチャー的な経済の発展は,外国からの投資に支えられたものであり,また生産物の輸出先を海外市場に大きく依存していたため,この地域の国々は欧米諸国に対して強く従属することになった。しかもこのような経済発展や物質的進歩の恩恵に浴したのは,主として寡頭支配階級や外国の資本家たちであり,大衆の生活は以前と変りないか,場合によっては悪化していった。先住民が多数存在していたメキシコや中央アメリカ,中央アンデスの諸国では,この経済発展と物質的進歩の時代は大土地所有化がますます進行した時代であり,村落共同体は破壊され,土地を奪われた彼らは大農園で働くペオン(隷農)や労働者に転落していった。鉄道や鉱山や軽工業での労働者たちも低賃金と長時間労働という過酷な労働条件のもとで働かされた。

20世紀に入るや,それまで疎外され,抑圧されていたこの地域の中間層や労働者農民大衆が,寡頭支配階級に挑戦して立ち上がり,より民衆的な基盤をもった政権の樹立と,そのもとで政治的・経済的・社会的改革を行うことを要求するようになった。メキシコでは,1910年に長年にわたるディアスの独裁や社会的不正に反対して中間層や労働者農民大衆が立ち上がって革命を起こした(メキシコ革命)。その成果となった1917年の憲法は,土地改革や労働者の権利の保障などについて定めていた。20世紀初頭から20年代にかけて,アルゼンチンやチリやウルグアイでは,メキシコのような革命という爆発的なかたちをとらずに,漸進的ながらも中間層による政治権力への参加や労働者階級の地位の向上を実現していった。30年代初めの世界恐慌はこの地域の諸国の経済に甚大な打撃を与え,その後,アルゼンチン,ブラジル,チリ,メキシコなどは輸入代替の工業化政策をとるようになり,また,メキシコやブラジル,アルゼンチンではそれぞれ,L.カルデナスG.D.バルガスJ.D.ペロンのもとで30年代から40年代にかけて労働者階級の地位向上のため積極的な政策がとられるようになった。

 一方,中央アメリカやカリブ海では20世紀初頭以来アメリカ合衆国がこの地域に積極的に進出し,この地域を自己の勢力圏とした。合衆国による軍事干渉に対してラテン・アメリカの側から強い反発や批判が起こったため,1930年代以降合衆国はこの地域に対して軍事干渉は行わなくなったが,代わってこの地域諸国には多くの独裁者が出現して合衆国による支配に協力した。1898年の米西戦争でキューバはスペインから独立したが,その後キューバは合衆国の〈保護国〉となり,植民地的な支配が強まった。それに対する反発はやがてカストロが指導する1959年のキューバ革命となって現れ,キューバはその後社会主義革命を宣言してラテン・アメリカで最初の社会主義国家となった。

キューバ革命はこの地域の現状変革の動きにさまざまなかたちで影響を及ぼした。アメリカ合衆国はキューバ革命の拡大を阻止するために〈進歩のための同盟〉を打ち出して,この地域の諸国の社会構造の改革や経済発展や政治の民主化に積極的に乗り出した。また工業化を促進して経済の発展を図るために1960年代初めにはラテン・アメリカ自由貿易連合や中央アメリカ共同市場が創設された。60年代後半から70年代初めにかけて,この地域の広い範囲で軍事政権が出現したが,68年に登場したペルーの革命軍事政府のように,軍事政権が積極的に国内の構造改革を行うなど,一般的に保守の支柱とみなされてきた軍部からも変革のイニシアティブをとる動きが現れた。また60年代以降には同じく保守の支柱とみなされてきたカトリック教会の中からも〈解放の神学〉を唱えて現状の変革を求める聖職者たちが現れ,彼らは中米のニカラグアでの革命(1979)や,70年代後半から80年代にかけてのブラジルの反軍政民主化の過程で大きな役割を果たした。80年代に入ると,この地域では債務危機をきっかけとして大部分の国が厳しい経済不況に見舞われた。経済危機を解決できなかった軍部が相次いで政権の座を降り,この地域は民主化の時代を迎えるが,多くの文民政権は緊縮政策をとって不況脱出をはかり,さらに安定した経済成長を求めて,従来の保護主義的な工業化による経済の自立や,福祉主義の政策から一転して,貿易や外国投資の自由化,国営企業の民営化,各種規制の一掃などいわゆる新自由主義政策を採用して市場主義に基づいた自由競争による成長を目指すようになった。80年代末から90年代初めにかけての冷戦の終結とソ連・東欧での社会主義の崩壊は,この地域,とくに中米やカリブ海地域でのアメリカ合衆国の影響力を再び強めるとともに,キューバをはじめとするこの地域の社会主義勢力に大きな打撃を与える結果となった。80年代の経済不況でこの地域での貧富の格差はさらに広がり,広範な貧困層の存在が犯罪やテロリズムや麻薬取引きを生み出す温床となっている。この地域の政府にとって,民主的な政治体制のもとでいかに富の配分を伴った経済の成長を達成させることができるか,が大きな課題となっている。
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今日のラテン・アメリカ社会の現実は国により大きな差があるが,文化面からみれば,国民国家の枠を超えて共通ないくつかの生活のタイプがある。サービスE.Service,ワグリーC.Wagley,ハリスM.Harrisらの人類学者がラテン・アメリカの文化領域の分類を試みてきたが,それらを総合したオリアンM.Olienを参考にすると,次のような分類ができる。第1は先住民社会(インディオ)であり,メキシコ南部とグアテマラ,エクアドル高地,ペルー高地とボリビアに人口が集中しており,たいていは閉鎖的で協同的な農村共同体を形成しており,国民国家に容易には同化しなかった。しかし,1970年代後半から1990年代には,これらの人々の間でも都市に出稼ぎし,移住するものも増えた。また先住民の民族運動も盛んになってきた。ブラジルの部族レベルの先住民にも変化の波は押し寄せている。第2はメスティソ社会であり,基本的には先住民とイベリア系白人との混血文化を形成しており,現在ラテン・アメリカ社会の基調となる文化である。第3はアフロ・アメリカ社会で,プランテーション経済に立脚し,北東ブラジル,フランス領ギアナ,スリナム,ガイアナ,中央アメリカのカリブ海側やカリブ海にみられる。この地域には植民地時代にアフリカから奴隷が大量に運びこまれ,プランテーションの労働力となり,サトウキビ,綿,タバコ,カカオなどの換金作物が栽培されるようになった。現在のこの社会の特徴としては,(1)単一作物の栽培,(2)大きな階級差,(3)多人種社会,(4)弱小の共同体,(5)母親中心の家族,(6)アフロ的宗教,音楽,フォークロアがあげられる。カリブ海のアフロ・アメリカ社会の特徴は〈クレオール〉として,その文化的柔軟性が高く評価されるが,反面アイデンティティ形成の難しさも指摘されている。第4はヨーロッパ的アメリカ社会で,アルゼンチン,チリ,ウルグアイ,ブラジル南部にみられる。近代白人移民の形成した社会で,19世紀,とくに中葉にヨーロッパ各国から移民が大量に来た。中で目だつ現象をあげると,アルゼンチンにはイタリア移民とユダヤ移民が多く来た。ブラジルではドイツ移民は同化せず,民族文化を固持した。ウルグアイの人口の10分の9は移民で,とくにイタリアとスペインとからが多かった。第5は特殊な白人移民,政治的・宗教的理由による移民と東洋系民族の移民社会である。ポルトガル人はガイアナに奴隷として来た。トルコ人はラテン・アメリカ全土に散在し,小売業に従事している。ドイツ人はグアテマラのアルタ・ベラパス地域に入り,コーヒー産業をおこした。合衆国の南北戦争で敗れた南軍に参加した人々はブラジル,バハマ諸島,ベリーズに新天地を求めた。インド人やクエーカー教徒はコスタリカに移民した。東インドの人々はトリニダード,ガイアナ,ベリーズ,スリナムに来た。ジャワ人はスリナムに入った。中国人は労働者としてキューバ,ペルー,ジャマイカ,トリニダード,ガイアナに連れて来られ,徐々に商業に活路を求めた。日本人は農業移民としてペルー,ブラジル,コロンビア,パラグアイに住みついた。近年,これら日系人の日本への出稼ぎと逆移住が目立っている。また近年,韓国人の急増がブラジルなどで指摘されている。メンノー派教徒はパラグアイ,メキシコ,ベリーズに集団居住地をつくった。これら移民の社会では今でもそれぞれの民族文化が保持され,土地の文化と共存している。

 以上五つのタイプの社会に共通な特徴を指摘することはむずかしいが,国民文化を代表するメスティソ社会を中核として考えると,ラテン・アメリカ社会の特徴として次の点があげられる。家族以上の親族関係としては構造性の弱い双系親族のネットワークがあるのみで,コンパドラスゴ,友人関係,隣近所の人間関係のネットワークがこれに加わる。このネットワーク型の社会では〈2者間の契約〉つまりフォスターG.M.Fosterのいうダイアディック・コントラクトdyadic contractに基づいて人間・社会関係が結ばれるしか方法がない。コンパドレはカトリックの秘跡を契機として選ばれ,本人と代親よりも代親と実の親,つまりコンパドレどうしの関係が強調されるのがラテン・アメリカの特徴で,異なった民族や階層にいる人間を結びつける役割を果たす。また友人関係はどの国でも重要である。ブラジルではパネリーニャpanelinha(小さなシチュー鍋)と呼ばれる友人のグループがあり,生活のあらゆる面で援助し合う。若者の友人関係としてはメキシコのアミーゴ(友人)やクアテcuate(双子),コロンビアやアルゼンチンのパンティーリャpantillaがあり,青年のおとなへの移行を容易にし,相互援助が可能になる。40歳を過ぎ中年になると男子は友だちづきあいから遠のき,家族中心の生活に入っていく。2者間のつながりが重要であるため,人間と人間の信頼が強調され,制度を無視しても援助し合える個人と個人の信頼関係が尊重される。この傾向が政治面でも働いてくると,カウディーリョ(政治ボス)が出現し,制度と官僚制を無視した独裁制が生まれがちである。

 信頼に耐える人間は内的個性,つまり魂(アルマalma)をもっており,他人の侮辱をうけないように魂を男らしく守らねばならず,ここから男らしさの強調,つまりマチスモが生まれる。魂を守って孤独に生きる人間はフィエスタfiestaに安らぎを求める。広義のフィエスタとはパーティなどの個人的集りから共同体レベルの祭りに至る広範な儀礼のときを意味し,このときには,人と人,人と神や聖人との会話が成立し,心理的には人は孤独から逃れ,社会的には日常生活の活性化が実現する。

社会階層の変動や農村部人口の都市への流入は,新自由主義経済政策を採用している現代ラテン・アメリカの国々に顕著な現実である。既述の五つの伝統的生活のタイプと社会階層との関係の動態は国により異なり,概括しがたいが,例えば先住民とメスティソが人口の基本であるメキシコの場合,次のような特徴を指摘できる。まず第1に先住民やメスティソの農民はともに農業人口として都市の貧困層とともに経済的には下層階級を構成している。しかし,先住民社会やメスティソの農村内部にも細かいレベルでの階層差はあり,先住民社会の場合,小売・仲買業者,教師,政府機関関係者がエリート層となっている。しかし,全体として先住民社会はメスティソの町や小都市の経済的支配下にあり,ゴンサレス・カサノバP.González Casanovaらの社会学者のいう〈内なる植民地主義〉の状況がある。この状況では,個人としての先住民は社会的に上昇できても,先住民社会全体の下層階級からの脱出は困難である。特に,1980年代からの新自由主義経済下の先住民社会の没落は顕著であり,94年1月1日にチアパスで起こったサパティスタ民族解放軍の武装蜂起は,先住民や農民の救済を訴えている。第2の特徴として,大多数の下層の対極に少数の上流階級が存在する。ほとんどが首都に居住し,工業・商業経営者ないしは所有者,高級官僚,富裕な専門家(法律家,医師),大規模な地主で構成されている。軍人や教会人など,前時代の特権階級は国によってはすでに没落した。第3の特徴として,下層と上流の中間を占める中産階級の進出が近年とくに顕著にみられる。ウェトゥンN.Whettenによると,(1)前時代の土地所有者の子孫,(2)革命以降の新しい土地所有者,(3)教育エリートや専門家集団,(4)政府の役人,(5)工業経営者,所有者,(6)商業経営者,所有者,が中産階級を構成しており,地方都市や首都で社会的に進出している。第4にメキシコに限らずラテン・アメリカ全体の特徴として先住民やメスティソ農民の都市への大量流入がある。そのため都市の下層階級は年々増加し,スラムの出現(メキシコ市のベシンダードvecindadやバリオbarrio,リマのバリアーダbarriada,リオ・デ・ジャネイロのファベーラ,チリのカリャンパcallampa,ベネズエラのランチョranchoなど),失業,低賃金と問題が山積している。この人々の生活はアメリカの人類学者ルイスOscar Lewisのいう〈貧困の文化〉を一部は具現しており,その特徴は(1)制度への有効的参加の欠如,(2)核家族と拡大家族レベル以上の組織の少なさ,(3)家族の特徴として,子ども時代の欠如,家族成員の離別の多さ,母親中心の傾向,兄弟・姉妹間の争いの多さ,(4)運命主義,があげられる。しかし,積極的局面も多くあり,例えば,メキシコやペルーのスラム調査によると,居住区の計画,相互扶助,健全な上昇志向,教育熱心などがみられ,田舎から持ちこんだ儀礼,祝祭,音楽が生かされており,結構人間的生活が営まれている。

 ラテン・アメリカ圏外への人口移動も顕著である。合衆国南西部諸州の大部分は19世紀中葉までメキシコ領であったため,メキシコ系の人口が多かったが,加えて,第1次,第2次大戦後に低賃金労働者として入国しそのまま残留した人口がある。さらに,現在でもかなりの数の不法入国や身分不安定のメキシコ人労働者が合衆国にいる。メキシコ系アメリカ人は16世紀以来の伝統を誇るニューメキシコ州のスペイン系アメリカ人と文化的に区別されうるが,政治的にはチカノとしてまとまる可能性があり(メキシコ系の人口は約1350万人,1990年),強力な民族票田を構成している。合衆国のプエルト・リコ人は273万人(1990年)とされ,ニューヨークに集中している。一部はハワイに渡り,砂糖園の労働者となっている。キューバ移民(104万人,1990年)はマイアミに集住している。カリブ海のアフロ系の人々で合衆国,カナダ,イギリスに移住する者も多いが,トリニダード・トバゴやジャマイカの人々はカーニバルを移住先で催している。

 上に述べたように,各種の伝統的な生活のタイプが背景にありながら,社会階層面では先住民と農民の窮状は進み,中産階級が進出し,大都市での下層階級をめぐる諸問題が現れ,国内の人口の都市集中に加えて国際的にもラテン・アメリカ人口の北の先進国への絶えざる移動があるのが現状となっている。
インディオ →メスティソ
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コロン(コロンブス)によるインディアス(新世界)の発見は,イスラム王国グラナダの崩壊というイベリア中世史の終幕と時を同じくした。だが,この場合,歴史の一時代は終わっても,戦いに勝ったキリスト教スペイン人の十字軍的メンタリティと価値観は消滅に向かうどころかかえって以前にも増して強固な伝統として彼らの心理に深く根を下ろした。カトリック両王に始まる近代スペインの発展の中で教会が時とともにその存在を大きくしていけば,インディアス史の第1段階が征服と宣教という中世的形態をとり,教会がきわめて重要な役割を担うのは必至だった。

 イベリア出身の家系に生まれたローマ教皇アレクサンデル6世がカトリック両王に新しく発見された土地の領有権を認めたとき,同時に両王にはその住民のキリスト教化が付帯義務として課せられた。以後3世紀間,インディアス宣教はスペイン王権の責任に帰せられる高度に政治的な行為と受け止められた。それゆえにカトリック両王以降のスペイン王はローマ教皇庁から順次譲歩を引き出して王権教会保護体制(パトロナート・レアルpatronato real)の確立を目ざしたのであり,事実,これによってインディアスの教会はすべて完全に王権に従属し,ローマに対してさえその関係は間接的なものだった。一口に言って,教会はインディアス統治のための国家機関の一部と化した。だが,その見返りとして教会がインディアス統治のさまざまな点の是非をめぐって,国王とその代理者に対してしばしば仮借のない批判を加えることが容認された事実は注目されなければならない。

 インディアスでの教会の役割とあり方はけっして終始一定でもなければまた一律でもなかった。教義に関しては一枚岩である教会--ここでいう教会とはむろんカトリック教会を指す--も時空間に従ってさまざまな変容をみせるし,その内部はつねに激しい葛藤の連続である。

 教会のインディアスでの最初の仕事はおびただしい数の先住民の改宗だった。しかし,宣教はすぐに多くの障害にその行く手を阻まれた。次々と遭遇する新しい土着言語の習得,宣教とは正反対の利益を追求する先住民委託制度(エンコミエンダ)などの世俗的行為との対立,土着宗教の根強い抵抗,新しい植民地社会の生成などである。それでも中世以来の終末論,おりからスペイン教会に広く受け入れられていたエラスムスの人文主義,さらにはトマス・モアのユートピア思想などに鼓舞された宣教師は教会史上最も大規模な仕事のひとつに憶せず取り組んだ。彼らはこの過程で相当数の土着言語の辞書を作り,また消滅に追いこまれた土着文化に関する今日なお貴重な記述を残した。発明後まもない印刷機もいち早く導入される一方,先住民の子弟を対象としたヨーロッパ流の学校教育も試みられた。とりわけ先住民委託制度の下でのスペイン人入植者による苛烈な搾取は多くの宣教師から激しい口調で指弾され,ついには人間の尊厳と権利をめぐる近代史最初の感動的な論争へと発展した。

 16世紀後半に入ると,先住民人口の激減や入植者を中心とした植民地社会の発展にともなって,教会も変化していった。初期の熱っぽい宣教への意欲はその対象を失って後退し,代わって都市部を中心に司教または大司教を長とした教会の組織化が進んだ。この推移の中で初期宣教の主役を担ったフランシスコ会やドミニコ会などの修道士に代わって,司教以下の教区付聖職者がインディアス教会の主導権を握った。この間,両者は司牧権の移行をめぐって激しく対立したが,独立性の強い修道会を敬遠する王権が人事権をはじめ統轄のより容易な教区付聖職者に荷担したために,抗争の勝敗はおのずから明らかであった。こうして都市部での司牧職から追われた修道会は,辺境や奥地であらためて宣教に取り組んだ。今日のチリ南部やアメリカ合衆国南西部への開拓や,パラグアイにおけるイエズス会士による大規模で特異な先住民集落化(レドゥクシオンreducción)などがこのときの修道会による代表的な活動例である。なお,この段階では修道士たちは辺境防衛に当たる軍隊と行動をともにした点で,武力の介入に強硬に反対した16世紀前半の修道士とは対照的な違いを示す。

 宣教の初期,修道会は清貧を旨として世俗的富の所有を厳しく排した。だが,この姿勢も16世紀後半には揺らぎ始め,17世紀に入ると寄進や買収によって修道会を含む教会全体の大地主化が急速に進んだ。この結果,18世紀初頭の時点で教会はインディアス最大の地主であり,当然莫大な資本力を備える組織と化していた。こうした経済的・財政的基礎に立って,やがて各地の主要都市には今に残るバロック様式の司教座聖堂や修道院が建てられていった。これらの規模と圧倒的な装飾性はしばしば植民地に関する通念とは相入れないほどである。教会の富はこのほかにも病院や孤児院あるいは学校の経営といった社会事業,そして住民全体を対象とした宗教行事や祭りなどにも費やされた。大地主ではあっても教会の収入はけっして聖職者だけで独占される性格のものではなかった。

 独立戦争期,教会は厳しい試練に立たされた。高位聖職者の多くがスペイン王の統治を支持する一方,メキシコの例にみるように独立派に身を投じる聖職者もこれまた珍しくはなかった。だが,いったん独立が達成されるや,教会は新国家の体制を支える重要な柱のひとつとなった。カトリック信仰はかつてのスペイン領インディアス人口の圧倒的多数派の宗教としてすでに政治権力の交替を超越した伝統になっていたからである。しかし,その一方では教会が所有する莫大な富は,教会と独立後のほぼ慢性的な財政危機に悩む政府との関係をしばしば緊張させ,メキシコにおいては激しい内乱までも引き起こした。その結果,社会の上層部の一部には教会に対する根強い反感ないしは宗教的無関心が認められる。それでも教会は今日なお誕生から死に至るまで大多数のイスパノアメリカ国民の一生に介入する。
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メキシコで今日最も人気を集めるグアダルーペの聖母は,アステカの母神トナンツィンとの関連を想起させる。1人の農夫がテペジャクの丘のふもとを通っているときに丘上にマリアが出現したという。H.コルテスのアステカ王国征服後わずか10年後の1531年のできごとである。その丘にはかつてトナンツィンの神殿があったが,それを異教の巣窟としてコルテスが破壊したのである。出現の場所と時期から考えて,母神とマリアの同一視の公算はきわめて大きい。またアステカの軍神ウィチロポチトリは聖ヤコブ(サンチアゴ)の故事にちなんで同一視された。グアテマラのマヤ・インディオの居住するチチカステナンゴの町のサント・トマス教会では,公然とマヤ古来の宗教行事が教会の内外で行われている。こうした習合現象syncretismは,インカ帝国の版図であったペルー,ボリビア,エクアドルなどの高地住民の間にも顕著にみられ,人口集中地域でのキリスト教化が集団改宗の形をとらざるをえなかったことに,その原因の一端がうかがえる。強制と集団洗礼からは内実のある改宗を望むことは無理である。そこではアンデスの土着の習俗が温存されるだけにとどまらず,マリアをはじめとして多くの聖人,さらに悪魔(サタン)が彼らのパンテオンに加わり,以前にまして豊かな彩りを添えた。

 インカの民の子孫ケチュア・インディオの大多数は農民で,地母神のパチャママへの信心を中心とする多神教polytheismである。アンデス地方にインカ帝国が君臨すると,太陽崇拝をインカの国教と定めたが,それは支配層と一部のエリートの宗教であったし,インカの後に到来したキリスト教も権力側からの押しつけの宗教であった。征服後,地母神はマリアと習合し,十字架の力に対する信仰は呪術と結びつき,十字架は呪具として受容された。現在,キリストやマリアの名によって呪術や治療が施されている。畏敬の念を寄せるのは三位一体の神にではなく,多くの神々に対してであり,祝祭日には教会で十字架とマリア像を称揚するが,病気の際には呪師の家を訪れる。呪師も洗礼を受けたカトリック教徒であり,ミサに参列する。アンデスの村のインディオの宗教実態はメキシコの村でも大同小異である。なお,征服によるキリスト教が中世の南部スペインの民俗化したカトリックの信仰体系であったことに留意する必要がある。

4世紀という時の流れにあっても,依然として伝統的生活様式を脱し切れずに村の枠内にあるインディオの農民とは別に,外来の生活様式,なかでも生活技術を積極的に選択し受容していく〈開けた〉インディオに対しても,われわれはメスティソという名を付すのであるが,メスティソは農外職を求めることで伝統のしがらみの村を後にして,町,都市へと進出していった。インディオや黒人の都市への流入はブラジル,メキシコのみでなく,今日,全ラテン・アメリカにみられる。

 都市化とメスティソ化は,ラテン・アメリカでは不可分の関係にある。しかし,この都市化現象の底流はすでに19世紀前半から始まっていて,地方出身の先輩格のメスティソらによって都市機能が担われてきた。したがってラテン・アメリカ諸都市の教会行事や祝祭礼には,メスティソの宗教習慣を端的に示すものが多い。その好例がグアダルーペの聖母である。マリア出現の奇跡をインディオ農民の信心の枠内にとどめることなく,聖母を〈メスティサ(混血の女性)〉ととらえたメスティソたちは広く都市的なマリア崇敬へと変容させた。1810年のメキシコの独立戦争では,聖母像を模した刺繡が反スペインのシンボルマークとして採用され,20世紀に入ってからは,国民統合のシンボルとなる。メスティソ化がラテン・アメリカで随一といわれるメキシコならではの経緯である。この聖母崇敬の浸透は外来宗教の刺激によって伝統宗教の各分野に活性化の気運を生み,新たな意味を付与することで信仰の組替え作業が漸次行われてきたことを物語る。インディオの宗教とメスティソのそれを分かつものは,後者では,市民的センスを獲得する過程で徐々にではあったが,主体的選択により自分なりのマリアへと変容させたのに対して,前者はキリスト教を受容したものの,伝統宗教を依然として保持し,その基盤の上にあっての受動的な変容にとどまったことである。

征服直後からとられた植民事業には,大量のインディオの労働力を必要とした。過酷な労働条件とヨーロッパから侵入した疫病によってインディオの大量死をきたし,それを補うべくアフリカから多くの黒人奴隷が投入された。現在,カリブ海諸島,ブラジル北東海岸,パナマ,ニカラグアに居住する黒人や混血のムラートは,アフリカ西海岸出身の奴隷の子孫である。

 新大陸における黒人の宗教の性格は奴隷という境遇と固く結びつく。出身地のさまざまな部族宗教は幾多の屈折した経緯をたどりながらキリスト教と混合し,復古的信仰運動revivalism,千年王国論millenarianism,孤立主義isolationism,土着主義運動nativistic movementなどの形をとった。儀礼は秘儀的性格と反白人主義を強め,アフリカ要素の憑依(ひようい)現象の脱魂状態での恍惚感と呪術,さらにキリスト教の終末観や聖霊憑依感のなかでの慰めなどに共通に見いだされる。ハイチで盛んなブードゥー教もこの流れをくむ祭祀集団であり,キューバにはニャニーゴÑanigoという,荒々しい歌舞によってアフリカの神々が憑依する秘儀団があり,ブードゥーの神々と習合して複雑化している。ブラジルの黒人宗教も同じ傾向をもつが,なかでもサン・パウロ市に本部をもつウンバンダは1960年以降,都市中産階級に浸透し白人信徒を擁して反白人的色彩を稀薄化させている。19世紀にはフランスからカルデシスモkardecismoの心霊術の影響が現れ,ブラジル黒人宗教にオカルト的色彩が強まる。マクンバmacumbaはこの流れをくむ集団で都市下層の黒人の入信者が多い。

プロテスタントの本格的布教は,ここ100年以来で,とくに第2次大戦後急速に勢力を伸ばしたのは新興セクトであり,なかでもペンテコステ派は聖霊降臨によって異言glossarariaを語るのを神の恵みと理解することから人気を集め,1950年代にブラジルで150万の信徒を獲得したという。メキシコでは,世の光教Luz del Mundoが都市へ移住してきた下級労働者に受容されている。都市化,工業化による都市の底辺にある地方出身者の〈孤独〉を,カトリックの教区制ではとうていすくい上げられないところに,憑依体験による連帯感を信仰体系へと組み込んだプロテスタント新興分派の成功の鍵が隠されている。
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19世紀初頭に相次いで独立を達成したラテン・アメリカ諸国でも,独立後の政治的混乱によって,近代的な法体制の確立は多くの場合約半世紀遅れ,その間は,基本的には植民地時代の法が行われていた(インディアス法)。

 近代的な法制度の整備には,おもに法典化という方法がとられ,伝統的なイベリア法の要素を多分に温存しながらも,形式,内容ともに,欧米先進諸国の近代的な諸法典に範を求めた。こうした比較法的研究成果のあくなき摂取は,今日まで続くラテン・アメリカ法形成の基本的な特徴をなしている。その結果,ラテン・アメリカ諸国の法は,独自の社会主義の道を歩むキューバを除けば,キリスト教倫理,民主主義的政治形態,資本主義的経済・社会体制を反映する点で西欧法に属し,法典化の技術や法思考,法学教育などの面で,いわゆる大陸法系(ローマ法を基礎とする西ヨーロッパの法体系)の伝統に立つ。だが,後述するように,アメリカ合衆国を通じてコモン・ローの制度と法思考の浸透もみられ,この点で日本の法体系と類似する。

 公法,とくに憲法に関しては,1788年のアメリカ合衆国憲法(およびその後の修正個条)の影響は絶大である。それは,この憲法が,ラテン・アメリカ諸国の独立の精神的支柱であったフランス政治思想や合衆国独立の法的・政治的マニフェストとみなされ,諸国の建国に際して模範とされたからである。こうしてラテン・アメリカ諸国の憲法は,おおむね制定当初から,国民主権,権力分立,大統領制,基本的人権の保障,そして裁判所による違憲立法審査権などの制度や原理を採用することとなった。だが,いずれの憲法においても,大統領への過度の権力集中(政令・規則の制定権,議会の立法権の委任,非常事態における憲法規定の効力停止権限など)がみられ,このことが,多くの諸国が経験してきた独裁制の原因とはいえないが,少なくともその手段を提供してきた事実は否めない。

 政治的不安定とそれにともなう人権侵害という苦い体験から,人権保障のための優れた制度の発達もみられる。メキシコの保護請求amparoとブラジルの保障令状mandato de segurançaなどの制度がこれである。前者は英米の人身保護令状habeas corpusの制度をさらに発展させたもので,官憲または行政行為によるいっさいの基本的人権の侵害に拡大され,適用される救済制度であり,独創的かつ有効な法制度としてメキシコ人が誇るところのものである。この制度は,他のラテン・アメリカ諸国にも急速に広まってきた。後者は,メキシコの保護請求の制度と合衆国の令状writsの手続を結合させたもので,1934年憲法に設けられて以来,ブラジルにおいて広く用いられてきた人権保障手続である。

 アメリカ法の影響は,ほかにも裁判所の組織,取引法の若干の分野(為替法,投資法など),そして信託trustの制度においてもみられるが,コモン・ローの思考様式そのものも徐々に浸透しつつある。

 他の法分野,例えば民・商法,刑法,訴訟法などでは,西ヨーロッパ諸国の影響は圧倒的であるが,その影響のしかたは複雑である。法体制準備期においては,ほかに模範とすべきものがほとんどなかったこともあって,フランス法への傾倒がみられ,とくにナポレオン法典(民法典)は,直接,間接にラテン・アメリカ諸国の私法に多大な影響を与えた。その後,西ヨーロッパ諸国における法典編纂が進むにつれて,イタリア,スペイン,ドイツ,スイスの法も比較法的な取捨選択によって受容され,あるいは接木され,そうしてできた良法典がまた,他のラテン・アメリカ諸国における立法の模範とされた例も多い。

 国際法は,ラテン・アメリカの独自性が発揮されてきた分野である。国際公法においてカルボ・ドクトリン(カルボ条項),ドラゴ・ドクトリンが唱えられ,また国際私法においては,諸国に先がけて法の統一が実現されてきた(モンテビデオ条約の批准,ブスタマンテ法典の採択など)。

ところで,ラテン・アメリカの法と法学には克服さるべき問題が多い。まず,社会の階層間の落差が比較的に小さな若干の国々(アルゼンチン,ウルグアイ,コスタリカなど)を除けば,公式の法は,社会成員のごく限られた範囲にしか浸透していない。帰属社会の家父にあたるボスやパトロンによる紛争解決は,広くみられる現象であるが,法の保護と強制とはほとんど無縁の先住民インディオや貧農(非識字)人口も,国によっては最大の社会階層をなしている。また,観念的な法哲学の発達と,実証的・法社会学的研究の欠如に象徴されるように,立法および法学が社会の現実から遊離して,西欧の先進理論を無批判に受け入れる傾向がある。このことは,法と社会の乖離をもたらし,根本的な社会改革に代えて安易に立法に頼るあしき法律主義,形式主義と相まって,国民の法に対する信頼を損なっている。
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今日ラテン・アメリカにみられる政治現象の多くは,ペルソナリスモpersonalismo(直接的人間関係の原理)の部分的後退とポプリスモpopulismo(人民主義)の破綻という二つの要因によって理解することができる。

ラテン・アメリカのほとんどの国々は19世紀前半に独立を達成したが,植民地行政機構が消滅した後,住民によって正統と認められる政治組織を樹立することに失敗したために,政治参加を求めるクリオーリョ(植民地生れの白人)たちは,その手段として,非人格的な政治組織ではなく,拡大血縁関係,コンパドラスゴ,パトロン=クライアント関係など人間どうしの直接的関係に基づく集団に依存することになった。こうしたペルソナリスモは,例えばカウディーリョと呼ばれる独裁的政治指導者による支配の中に体現された。また政党に関しても,共通の綱領やイデオロギーを軸として結集する政治集団というよりも,有力政治家が率いる個人的集団ないしはそういった集団の集合体にすぎないことが多かったのである。

 ペルソナリスモは,政治指導者と支持者との相互援助関係によって維持される。すなわち支持者は,選挙や武装反乱の際,あるいは政策の形成や実施の過程で,指導者に忠実に従う代りに,指導者から官職や補助金,利権の形で報酬を受けることを期待するのである。こうした関係は永続的な政治制度に対する忠誠とは異なり,短期的,個人的な利害勘定に基づくことが多いため,しばしばラテン・アメリカにおける政治不安の原因の一つと考えられてきた。メキシコやコロンビアのように,比較的安定した政治制度と上記のようなペルソナリスモを長い間共存させてきた国もみられるが,それは,長期にわたる流血をともなう抗争の末,政治指導者たちが政権の交替と運営について一種のカルテルを結んだ結果である。これらの国では,政策形成と実施の過程でペルソナリスモの影響が顕著であるが,どの政治指導者も一定の年限を超えては政権を維持しないこと,また自派以外の政治指導者にも政府への参画を許すことの2点で,ペルソナリスモの行過ぎを防ぐ制度ないしは慣行を確立している。

 ペルソナリスモに基づく権力の独占は,経済的発展と社会構造の複雑化といった事情によっても困難になりつつある。輸出経済の発展,ついで工業化の進展によって都市化が進み,都市中間層や労働者の数が増大するにつれ,また交通・通信機関の発展や教育の普及が進むにつれ,カウンター・エリートによる政治宣伝や反政府運動の組織化が容易になった。その結果,今日のラテン・アメリカ諸国では,19世紀とは異なり1人のカウディーリョが長期にわたって政権を維持することが困難となっている。

 1950年代以降軍部の専門職業化が進んだことも,国政のトップレベルにおけるペルソナリスモの後退を促す作用を果たしている。すなわち,専門職業化が進んだ軍部では,試験と年功序列とに基づく昇進制度,およびそれによって支えられる位階秩序が将校団によって広く受け入れられているばかりでなく,職業軍人としての共通の専門意識が将校団としての凝集性を高める作用を果たしている。このような軍部が政権を握った場合には,かつてペルーのオドリアManuel Odría将軍(1897-1974)やコロンビアのロハス・ピニーリャ将軍が試みたように,1人の有力軍人が公職を利用して政治的支持者を増やし,みずから政治家に転身していくという現象は起こりにくい。1960年代以降出現したブラジル,アルゼンチン,ペルー,チリ,ウルグアイの軍事政権は,採用すべき政策の内容をめぐる内紛をかかえながら,あくまでも将校団による政権担当というたてまえをくずさなかった。

 中央アメリカ,とくにグアテマラとエルサルバドルの軍部も,以前のようにカウディーリョ型の指導者を輩出しなくなったという意味で,南アメリカの軍部と共通点をもっているが,中央アメリカにおいては,軍務という職業がそれだけでは社会的・経済的地位の安定と向上をもたらさないため,軍部の専門職業化が遅れている。そこでグアテマラやエルサルバドルの軍人は,政治的影響力を利用して個人の社会的・経済的地位を上昇させようとする。それが政権をめぐる,あるいは政府の職をめぐる軍内派閥間の抗争となって現れている。

 以上のように,ペルソナリスモに基づく国政のトップレベルでの権力独占は困難になっているが,下位レベルでは,近年テクノクラート層(テクノクラシー)の拡大がみられるにせよ,いまだペルソナリスモによる政策の形成と実施が一般的である。

他方,ラテン・アメリカにおけるポプリスモとは,輸出経済の繁栄期に進んだ都市化と工業化を背景に,1920年代以降ラテン・アメリカ各地に出現した政治潮流で,都市中間層や労働者を動員することによって,寡頭支配層の経済的・政治的支配を覆そうとする運動である。この運動は,階級闘争よりも寡頭支配層に反対する諸社会階級間の同盟と協調を前提としており,さらに民族資本による国内市場向け工業化の推進を唱導していたため,多くの国で工業企業家の支持を獲得することにも成功している。しかし,その具体的な発現形態や持続性は,各国の輸出経済の性格,寡頭支配層の特質や彼らが新しい社会勢力に対してとった政策,寡頭支配層と工業企業家の関係,外国勢力による介入の有無などの事情を反映して,国によって異なっている。例えば輸出経済の発展度が比較的低かった中央アメリカ諸国やドミニカ共和国,ハイチ,パラグアイ,ボリビアといった国々では,ポプリスモを支える中間層,労働者,工業企業家の成長が遅れた。さらにコスタリカを除けば植民地期より大土地所有制が発達し,独立後も多数の土地なし農民や農業労働者が蓄積され続けたため土地をめぐる争いが絶えず,寡頭支配層の中核をなす地主を反動化させた。そのうえ,みずからの権益を守ろうとするアメリカ合衆国の企業や政府も,中央アメリカ・カリブ地域においては直接的・間接的干渉によって保守的な政権を維持する政策をとってきた。このような事情のため,上記の国々ではポプリスモ政権はまったく出現しないか,出現したにしてもごく短命に終わっている。ただ1950年代にポプリスモ政権の下で大規模な農地改革を実施することに成功したボリビアでは,農村部の安定性が増大した。そのためにボリビアでは,その後頻繁な政変を経験してきたにもかかわらず,反動化した地主の支援を受けた軍部が実権を握るグアテマラやエルサルバドルほど著しい社会的緊張はみられない。他方,ニカラグアでは,マルクス主義者とポプリスモ信奉者の双方を含む政権が1979年に成立し,レーガン政権の圧力に抗して,その基盤を固めようとした。

 アルゼンチン,ブラジル,ウルグアイ,チリといった国々では,輸出経済の多様化や工業化が進んだ結果,中間層や労働者が政治的・経済的向上を求めて早くからさまざまな運動を展開する力量を身につけた。しかし寡頭支配層がきわめて強力で,かつ1930年代に非妥協的態度をとったアルゼンチンでは,ポプリスモが,軍の一部と労働者の広範な動員に支えられるペロン政権という明確な形をとって現れたのに対し,寡頭支配層が,議会制民主主義の枠内で動くことを条件に,中間層,労働者の政党に政治的自由を許したチリや,寡頭支配層の政党がいち早く社会福祉政策を実施することで中間層,労働者をとり込むことに成功したウルグアイでは,明確なポプリスモ政権が出現することはなく,むしろ長期にわたってさまざまな政府によってペロン政権がとったのと同様の政策(社会福祉立法,労働立法,輸入代替工業化政策など)が実施されることになった。ブラジルのコーヒー農園主・輸出業者も当初バルガス政府に対して武力による抵抗を試みたが,これに失敗するや,後者の工業化政策や社会福祉政策に協力する道を選んだ。

 輸出経済の発展度が中程度であったメキシコ,ペルー,キューバといった国々は,それぞれ特殊事情のために特異な道を歩んできた。P.ディアス政権下で土地の急速な集積とインディオ共同体の解体が進んだメキシコでは,中間層,労働者の不満に農民の反乱が結びつき,〈メキシコ革命〉と呼ばれる大変動を経験することになった。その結果,中間層,労働者,農民の諸組織を中心に,事実上工業企業家の団体も加えた強力なポプリスモ同盟が1930年代後半に成立し今日に至っている。他方,ペルーのポプリスモ政党であるアプラは32年の武装蜂起によって軍部を敵に回してから政権に就くことができず,逆にこの軍部が68年に政権を奪い,文民のポプリスモ政権と同様の政策を推進した。キューバでも1944年から52年にかけて革命党と呼ばれるポプリスモ政党が政権を担当したが,バティスタのクーデタのために短命に終わった。その後ゲリラ戦に勝利したF.カストロの強力な指導の下でキューバは社会主義の道を歩み始めた。
キューバ革命
 ポプリスモ政権ないしはポプリスモ的な政権は,その経済的基礎となっていた輸入代替工業化が,国際収支の悪化や悪性インフレによって停滞するにつれ,危機に直面するに至った。工業化の停滞と外貨不足を外資導入によって切り抜けようとする努力もなされ,多国籍企業が多数進出したが,利潤や技術使用料などの形で逆に外貨流出をもたらすようになった。経済的な不安定性が増す中でポプリスモ同盟を維持するために,ペルソナリスモの網を通して多額の補助金や社会福祉予算の分配がなされた。ところが,それらは既得権益となり,経済が悪化し政府歳入が減っても削減することはむずかしかったので,いっそうインフレをあおることになった。恒常的インフレは,所得分配をめぐる諸階級・諸グループ間の対立を激化させ,1960年代から70年代にかけて,ポプリスモ的政権が支配的だった国はほとんど社会不安と政治的・経済的混乱にみまわれるようになった。

 この混乱の中で,ポプリスモ型政府に見切りをつけ,さらにキューバ型社会革命への危機感を強めた軍部が,ブラジルでは1964年,アルゼンチンでは66年と76年,チリとウルグアイでは73年にクーデタを敢行し,工業の高度化を目ざす文民テクノクラート,〈法と秩序〉の回復を願う保守的な中間層メンバー,安定した投資環境を欲する工業企業家や外資系企業の支持を受けて,いわゆる〈官僚的権威主義体制〉を樹立した。しかし,このようにして成立した軍事政権の多くも,ポプリスモ政権が残した輸入代替工業化の矛盾や財政不均衡の問題への取組みは不十分であった。これらの政権は経済的矛盾を債務の取入れによって糊塗しようとしたが,80年代初めに累積債務危機に見舞われ,民政に席を譲らざるをえなくなる。
執筆者:

ラテン・アメリカの農業構造は,一般に,輸出農畜産物のモノカルチャー(単一耕作)と,その基礎となる大土地所有制度ラティフンディオによって特徴づけられる。しかし,ラテン・アメリカ地域は,15世紀以来,おもにスペイン,ポルトガルなどの諸国の植民地支配下におかれた歴史をもち,文化的,社会経済的に一様性をもつものの,ラテン・アメリカと呼称されるにしても,植民地支配を受ける以前における先住民の土地占有の型の差およびその後の植民者の土地および先住民インディオの労働の支配の型の差異によって,現実には地域的多様性を包含している。したがって土地所有型態を社会経済的視点で類型化する場合,国によって,また地域によって差異がある。

 植民地支配以前における先住民の土地占有の型によってみれば,それは征服前に土着の文化が高度に発達し,アステカやインカなど国家レベルまでの統治機構が形成されていたメキシコ,中央アメリカ,アンデス高原の諸地域,いわゆる核アメリカと,その他の地域に大別できよう。前者においては,人口稠密(ちゆうみつ)で集約的な定住耕作が行われ,アステカではカルプリcalpulli,インカではアイユと呼ばれていた土地の共有を基盤とした農村共同体が成立し,一定の賦役(インカではミタ),貢納制によって国家に統合されていた。それに対して,後者は,もっぱら焼畑耕作,または狩猟,採集経済で,社会集団の規模も小さく,孤立的であったところである。他方,スペインおよびポルトガルの植民者による土地および先住民労働の支配は,法制度的には植民地全域に及んだ。

 スペイン植民地においては,土地については,レパルティミエントrepartimiento,グラシアgraciaないしメルセーmercedと呼ばれる分与地が植民者に分与された。この分与地はインディオの占有地を侵してはならないとされている。グラシアないしメルセーは,植民者の身分によってカバリェリアcaballeríaとペオニアpeonía(前者は後者の5倍)の2種に分けられるが,この制度はもともとスペイン本国(カスティリャ)における領主所領セニョリオseñoríoの土地経営を模範としたもので,植民,居住,耕作を義務づけてはいるが,当初から自営農民による植民を目的とするものではなかった。

 先住民労働の支配については,エンコミエンダ制が施行された。エンコミエンダの権利は,土地に及ぶものではないが,エンコメンデーロは,また分与地メルセーの権利をも認められたので,彼らは,教化と賦役労働の収奪の便からインディオの土地の隣接地に分与地を受託した。このことは,エンコメンデーロの自己の所有地における生産の拡大に有利な条件を与え,同時にインディオの土地の蚕食の危険をはらむことになった。当初エンコミエンダの権利は,他人への譲渡は許されていなかったが,その後土地と一体化して家産的性格をもつようになった。このためエンコミエンダ制にラティフンディオの起源を求める説は,上述の事実に根拠を求めている。

 このようなスペイン植民地の法制度の下にあって,現実の土地制度の展開は,労働力源であった先住民の社会の存在と植民地的商品生産の進展の度合によって,三つの地域的類型を生んだ。第1は,本国の植民地支配の中心的拠点となり,それゆえに商品生産が最も刺激されたカリブ海地域である。ここにおいては,先住民は白人の持ち込んだ流行病と過酷な労働によって激減し,それに代わって導入された黒人奴隷労働に依拠した大農園アシエンダ,例えばサトウキビ農場(インヘニオ)が成立する。第2は核アメリカにおける先住民の農村共同体の漸次的解体,土地の蚕食をともないながらも,他方それを温存しつつ住民の賦役労働に基礎をおくもの,第3はアルゼンチンのパンパにみられるような狩猟的生産様式をもつ先住民との抗争,ガウチョによる野生化した牛馬の捕獲,粗放的牧畜といった広大な土地の占有である。それとともに核アメリカにおいて鉱山開発にともなう小市場の形成による食料生産のための小生産者が成立した。ポルトガル植民地ブラジルにおいても,分与地制が施行され,その分与地はセズマリアと呼ばれる。この分与地の上に,黒人奴隷労働に依拠したエンジェーニョと呼ばれるサトウキビ大農場がとくにブラジル北東部海岸地帯に形成された。

 19世紀初頭のラテン・アメリカ諸国の独立後,S.ボリーバルの啓蒙思想,資本主義のいっそうの浸透を背景に,各国は分与地制の廃止および土地の購入制,奴隷制の廃止,インディオの無償労役と貢租の廃止,教会領の廃止,農村共同体(独立後コムニダー,またはコムニダー・インディヘナと呼称)の共有地の廃止,未開発地の官有地への編入,売却による一連の私有地化を法制化した。その結果,核アメリカ地域では,コムニダーの共有地の私有地化が進行し,コムニダーの土地の繰込みをともなったアシエンダの拡大が顕著になった。それとともに,コムニダー農民の階層分化が進み,零細農化,隷農化が進行したが,メキシコにおいては,メキシコ革命後エヒードとして農村共同体の再建が推進された。カリブ海地域を含む熱帯低地への外国資本の土地投資,農業投資が活発になり,近代的プランテーションが成立した。とくに米西戦争後は,キューバをはじめとするカリブおよび中央アメリカ地域には,アメリカ合衆国の投資が顕著になる。

 温帯に属するアルゼンチンでは,熱帯生産物に基づくプランテーションの成立はみられなかった。しかし,独立を契機として,国土の画定,国家財政の基盤としての地代収入を確保するために個人土地所有の決定を意図し,1826年の永代借地法を施行した。この法律による永代借地権は,牛肉,小麦など農畜産物の海外市場の拡大とともに,所有権に転化し,パンパの中心部における私有地化した広大なエスタンシア(大牧場)が生まれた。さらに私有権の未確定のフロンティアの土地(本来インディオの占有地である)は官有地化され,1876年のアベジャネーダ法に基づく移民の導入と官有地の分割払下政策が推し進められ,パンパの内陸周辺部には自営農が成立し,中心部では,大土地所有制下の借地形態が一般化した。ブラジルにおいては,セズマリア制は1850年の土地法によって完全に廃止され,さらに88年に奴隷制度も廃止された。この時期に南部のサン・パウロ州に発展したコーヒー生産は,前期においては奴隷労働に依拠する領主経営的大農場(ファゼンダ)で行われていたが,19世紀末からは,移民の導入による請負契約労働者(コロノ)に移行し,20世紀には,内陸フロンティアでは移民による,おもに家族労働に依拠する独立小生産者層と,その分化による大農場の成立をみるようになった。

 ラテン・アメリカの大土地所有制ラティフンディオの起源を,19世紀における資本主義の発展期に求める説は,上述の歴史的事実に依拠している。

以上の歴史的背景の帰結として,ラテン・アメリカの土地所有形態を生産諸関係の視点から類型化すると次のようになる。(1)ラティフンディオ(巨大土地所有)型,(2)中農型,(3)ミニフンディオ(零細土地所有)型,(4)コムニダー(共同体的土地所有)型,(5)エヒード型。

 ラティフンディオ型はさらに,植民地時代からの系譜を引くと考えられる伝統的・家父長制的支配と庇護の構造(パトロン・ペオン関係)下にある大農牧場,伝統的アシエンダ型と資本主義的経営体としての大農場,プランテーション型(資本主義的アシエンダ型)に分けられる。伝統的アシエンダ型は,歴史的系譜からみれば,(1)もっぱら黒人奴隷労働に依拠した,ブラジル北東部(ノルデステ)のサトウキビ大農場,カリブ海地域のサトウキビ大農場などによって代表されるもの,(2)ガウチョ労働に依拠したアルゼンチンのパンパの牧畜エスタンシア,(3)メキシコ,中央アメリカからペルー,ボリビアにかけてのアンデス高地およびカリブ海地域の一部にみられ,先住民の農村共同体の住民の労働力に基礎をおくものなど,三つの類型に細分することができる。これらは商品生産の発展に対応し,また19世紀における奴隷制度の廃止によって領主経営から資本主義的経営に転化する過程にあり,半農奴的傭役借地農および分益農といった隷農の労働に基礎をおいている。

 それに対して,プランテーション型は,19世紀後半からヨーロッパ諸国,アメリカ合衆国の農業への直接投資が活発になるとともに,新農場主による大土地所有,大経営,賃労働の大量雇用に基づいて形成されたものである。しかし,海外市場に対応して,鉄道,港湾などの施設,加工部門や栽培部分に近代的技術を導入しながらも,この型も,ラテン・アメリカにおける旧来の半農奴的労働諸制度を最大限に利用している点で伝統的アシエンダ型とラテン・アメリカ的類似性をもつ。プランテーション型もまた,歴史的成立過程で,次の二つに分けられる。一つは一般にプランテーションといわれるもので,植民地的制度に組み込まれ,外国資本の支配下におかれている。中央アメリカやコロンビア,エクアドルのバナナ栽培,革命前のキューバのサトウキビ農場などがその代表例である。もう一つは,19世紀以降の公有地化された内陸植民の過程で現れた企業的大農場で,ブラジルのサン・パウロ州のコーヒー・ファゼンダ,ボリビアのユンガスやコロンビアのアンデス高地のコーヒー・アシエンダがその例である。

 ラティフンディオ型農場は,個人所有の場合,土地所有者は農場内に居住せず,国内の主要都市,または外国に居住することが多く,場合によっては株式会社組織をもつ。したがって農・牧場経営は監理人(アドミニストラドール)に任せられ,その下にさらにマヨルドーモと呼ばれる中間管理人が介在することもある。監理農という類型は,一般にこれに属する。

 アシエンダの構成をエクアドルにある約700haのアシエンダで例示しよう。

 農場主はほかにもいくつかのアシエンダを所有し,外国に居住している。農場主の息子(農場内の唯一の白人)がこの農場の監理人で年間8ヵ月農場内に居住している。家事労働者5名,副監理補佐,畜産管理人(マヨルドーモ),農事管理人(マヨルドーモ),書記,資格のない獣医,トラクター運転手各1名,隷農(ワシプンゲーロ)12名,搾乳婦12名(ワシプンゲーロの家族),土地をもたない常雇い労働者(ペオン)8名,ヤナペーロ(農場外の村落に住み,農場内の道路,給水,その他の便益にあずかる代りに農場の労働に従事することを義務づけられている農民)48名,土地をもたない臨時雇い労働者(ペオン)8名。

 このアシエンダはけっして特殊な事例ではない。隷農ワシプンゲーロ,広範に存在する土地から切り放された農業労働者ペオンだけではなく,ここではヤナペーロと呼称される周辺村落の零細農ミニフンディスタ(土地生産だけで生計の維持ができない小農)の労働力に強く依拠していることは明らかである。この点に注目した場合,ラティフンディオの対極に,経済外的強制下にある隷農,不完全就業のペオンとともにミニフンディスタ(メキシコのエヒード農民の多くもその中に含まれる)を対置し,ラテン・アメリカの土地制度をラティフンディオ・ミニフンディオ構造として特徴づけることができる。

 土地所有の偏りの量的把握は,1963-64年に行われたCIDA(パン・アメリカ農業開発委員会)の調査によれば次のとおりである。農業構成の階層は次の四つに区分される。(1)ラティフンディオ(就業者12名以上),(2)多家族中農型(同4~12名),(3)家族農(同2~4名),(4)ミニフンディオ(同2名未満)。この分類に従えば,調査対象7ヵ国のうち,アルゼンチンを除けば,ラティフンディオの土地占有率は40%を超え,チリ,ペルーでは80%を超えている。また,エクアドル,グアテマラ,ペルーでは,ミニフンディオの数は90%に近い。そして,ブラジル,アルゼンチン,チリは比較的中間層が厚い。ラティフンディオは,広範に存在する不完全就業農業労働者,経済外的強制をともなう隷農,零細農の労働の収奪のうえに存在し,農業への再投資を阻害し,生産力の停滞につながる。それとともに土地の独占は社会的・政治的緊張につながり,農業改革は緊急のものと考えられている。

 1944年のグアテマラのクーデタ,52年のボリビアの革命,52-65年のペルーのクスコ地方,ラ・コンベンシオンの農民運動,1955-64年のブラジル北東部の農民同盟の結成などは,土地問題にかかわる社会的政治的事例としてあげられよう。1959年のキューバ革命は,社会主義的土地改革の唯一にして最大の例外である。キューバ革命以後,各国政府は農業改革を政策の主要課題として取り上げているが,ペルーの行った海岸地帯における外資プランテーションの接収と国の管理化におく共同農場化,高原地帯におけるアシエンダの接収と周辺コムニダーへの帰属,共同経営化が最もラディカルな土地再配分的改革の事例であり,多くの場合,生産力増大の視点からする非生産的ラティフンディオの有償接収,再配分,中農層の育成・富農化,開拓・植民による土地の再配分という漸進的改革にとどまっている。
アシエンダ →ファゼンダ
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ラテン・アメリカは33の独立国をもち,総面積は世界地表面積の15%,日本国土の54倍に相当する2053万km2,総人口は世界人口の8.4%,日本の3.8倍に当たる4億8200万人(1995年,国連統計)で,人口密度はアフリカと並び開発途上地域中もっとも低い。人口増加率は世界平均の1.8%を下まわる1.6%(1985-94年平均,世界銀行)で,広大な面積に対して相対的に人口圧力が小さい恵まれた状況にある。またGNPは世界の6.0%,日本の3分の1に相当する1兆5034億ドル,1人当りGNPは世界平均の半分,日本の12分の1に相当する2935ドル(いずれも1994年,国連統計)で,開発途上地域の中では西アジアに次いで高く,そのためラテン・アメリカ諸国は中進国と呼ばれてきた。しかし所得分配は著しく不平等で,貧富の差が大きい。

 ラテン・アメリカは豊かな天然資源に恵まれ,鉱産物ではニッケル,ボーキサイト,銅,錫,銀が世界の確認埋蔵量の20%以上のシェアを占めている。また農産物ではコーヒー,オレンジ,バナナが世界総生産の40%以上,大豆,カカオ豆,砂糖が20%以上のシェアを占める。牧畜業も盛んで,馬,牛の飼育頭数は世界全体の各30%,20%以上を占める。さらに近年開発が進んでいる水産業では,漁獲量が著しく増加し,1990年代初めには世界全体の18%に達した。他方林業は古くから開発されているが,アジアほど急速ではなく,世界の原木生産の10%強を占めるにとどまっている(いずれも1990年代初め)。

 こうした1次産業の発展に支えられ,ラテン・アメリカは従来からモノカルチャー経済に依拠して発展してきたが,1929年恐慌を契機に1930年代以降工業育成政策が実施に移された。その過程でGDP,就業人口に占める工業部門の割合が増加してきたが,一部の国々を除き,現在なお工業は輸出力では第1次産業に及ばない。

 次にラテン・アメリカ独立以降の経済変容についてみよう。

独立後のラテン・アメリカ諸国においては,植民地遺制の克服と新たな経済開発路線の確定が最も緊要な課題となったが,19世紀半ばまでは国家建設の基本線をめぐる見解の対立から政治抗争が絶えず,政情の混迷状態が続いた。政治抗争の要因は多岐に及んだが,そのうち経済政策をめぐる対立は以下のとおりであった。すなわち一方に閉鎖的な経済保護主義を植民地遺制として排除し,国際分業体制を肯定して自由貿易政策を推進しようとするグループ,他方にヨーロッパ諸国との開放的な経済関係の進展を警戒し閉鎖的な経済政策を温存しようとするグループの間の対立抗争であった。19世紀前半においては両者の間で権力抗争が絶えず,全般的には後者が優位を占めていた。それに対して19世紀半ば以降になると,ヨーロッパ的な近代国家建設路線に立脚した開放的な経済自由主義政策が実施されるようになり,ラテン・アメリカ経済はイギリスを中心とする国際経済の分業体制の中に組み込まれていった。

 このような19世紀半ば以降の経済開発路線はきわめて開放的な経済自由主義に基づくもので,貿易の自由化,積極的な外資・技術導入,ヨーロッパ移民受入れのための優遇措置などが実施に移された。また1870年代以降実現された輸送手段における画期的な技術進歩により,南半球とヨーロッパとの間の地理的距離が短縮され,交易関係が大幅に進展していった。さらに農産物の品種改良技術や畜産物の冷凍・冷蔵技術がヨーロッパから導入され,1880年以降において冷凍船(フリゴリフィコ)が実用化されるに至り,南アメリカ南部諸国からヨーロッパ向けの冷凍・冷蔵肉輸出が急増することになった。これに加えてブラジルからコーヒー,チリ・ボリビア・ペルーから鉱産物,エクアドル・コロンビア・中央アメリカ諸国からコーヒー,バナナ,カリブ地域から砂糖といった第1次産品の輸出が19世紀後半以降大きく伸び,こうしてラテン・アメリカ諸国は第1次産品輸出を経済成長のダイナミック・セクターとする経済構造を確立していった。このような経済成長路線は,一方で労働力源としての大量な移民流入,他方で鉄道・港湾建設,鉱山開発,土地売買,食品加工業などへの欧米資本の投下に支えられていた。

こうした第1次産品輸出に立脚した経済構造も,自由多角的な国際貿易構造の破局によりその存立基盤を失うことになった。すなわち1929年恐慌を契機として世界経済がブロック化傾向をたどる中で,ラテン・アメリカ諸国は輸出市場の狭隘化と輸出価格の低落に直面するところとなったのである。そしてこうした経済的打撃に対するラテン・アメリカ諸国の対応は次のように大きく二分された。一つはパン・アメリカ主義の下でアメリカの経済圏に組み込まれ,第1次産品輸出経済の強化に向かった国々,もう一つは一方で輸出市場の狭隘化打解策を目ざしながら他方で輸入代替工業化を推進していった国々である。後者のグループに含まれるのはアルゼンチン,チリ,ブラジル,メキシコといったラテン・アメリカ域内の先進諸国で,これらは繊維産業を中心とする軽工業に立脚した工業育成政策を導入し,外貨節約のための国内市場向け工業生産を拡大していった。世界経済のブロック化から第2次世界大戦に至る過程で,先進諸国からの工業製品流入が減少し〈内向き〉の工業化が進む中で,域内先進諸国の工業労働者層が強化され,その政治的影響力が拡大していった。それがこれらの国々におけるナショナリズム,ポピュリズムの台頭を支える重要な要因となったのである。そして第2次世界大戦後には〈内向き〉の工業化における軽工業から重化学工業への移行,さらには国内市場から国外に市場を求める〈外向き〉の工業化へと進んでいった。

 それに対して輸出経済強化型の政策を導入したグループの中には,域内先進諸国を除く大半の国々が含まれ,国際市場における輸出産品価格の低落を輸出量の拡大によって補塡するため輸出用第1次産品の増産に努めた。これらの国々の多くはその人口規模が相対的に小さく国内市場が狭隘で,工業育成過程における大きな制約条件をかかえていた。輸出経済強化策は,対外競争力において相対的に有利な条件をもつ大土地所有に立脚した輸出向生産を優遇する形で進められ,そのことは大土地所有者層,貿易商の政治力の温存と独裁制を招く結果になった。第2次世界大戦後世界経済のブロック化が解かれたが,先進国間貿易の拡大,一部の第1次産品における代替品の開発と実用化,さらには第1次産品輸出国間相互の競合関係の激化などにより,第1次産品輸出市場の相対的な狭隘化が進んだ。こうした中で域内先進諸国以外の国々の多くは軽工業を手始めに初期段階の輸入代替工業化政策を採用することになった。

こうした状況の下でラテン・アメリカ諸国は,工業化を基盤として域内協力を進展するため経済統合の結成に踏み切った。まず1960年の条約締結を経て61年にラテン・アメリカ自由貿易連合と中米共同市場が発足した。前者にはブラジル,メキシコ,アルゼンチンの三大国にチリ,ペルー,コロンビア,ベネズエラ,ボリビア,エクアドル,ウルグアイ,パラグアイが加盟,域内自由貿易市場の結成と産業補完協定による加盟諸国間の工業化政策の調整が主要目標とされた。そして発足後20年の歩みを経て81年に改組され,ラテン・アメリカ統合連合として再出発したが,停滞気味である。また中米共同市場はパナマを除く中央アメリカ5ヵ国(グアテマラ,エルサルバドル,ホンデュラス,ニカラグア,コスタリカ)によって構成され,域内共同市場の結成と統合産業計画の実施を目ざした。60年代には注目すべき進展がみられたが,70年代には中米紛争が泥沼化し,経済統合も足踏み状態に陥った。

 1969年にはラテン・アメリカ自由貿易連合のサブ・リージョナルな経済統合組織としてアンデス共同市場が発足し,アンデス6ヵ国が加盟,域内加盟諸国間の発展格差是正,共同市場結成,統合産業計画・外資規制の実施などがおもな目標に掲げられた。アンデス共同市場は自立的共同市場の形成と域内格差是正の両立を目指したが,共通外資政策をめぐる加盟諸国間の利害対立が引金となって,76年チリが脱退した。加盟国の多様な条件の下で,統合の進展ははかばかしくない。さらに英語圏カリブ諸国によって1968年カリブ自由貿易連合が発足,73年にはカリブ共同体共同市場に改組された。これらの経済統合は1960年代にかなりの成果をあげたが,70年代以降停滞気味で,73年以来の石油危機からの打撃も大きく,こうした状況の打解策として域内協力関係の拡大が求められていった。73年22ヵ国が締結したリマ協定に基づいてラテン・アメリカ・エネルギー機構が結成され,エネルギー需給における域内協力の進展による石油危機対策が打ち出された。75年には25ヵ国によって締結されたパナマ協定に基づきラテン・アメリカ経済機構が結成され,イデオロギー抗争を排して実利主義に依拠したラテン・アメリカ全域の経済社会発展を目ざすことになった。

 こうした域内経済社会開発を資金面で支える組織として1959年に米州開発銀行,61年中米経済統合銀行,70年アンデス開発公社およびカリブ開発銀行,78年ラテン・アメリカ準備基金など地域開発金融機関が次々と発足していった。

以上のような変遷をたどってきたラテン・アメリカ諸国の経済は,次のような低開発性という共通の問題をかかえている。すなわちブラジル,メキシコなど一部の国々を除き工業の発展が遅れ,各国経済の第1次産業への依存度が高いこと,近代的な生産構造が確立しておらず生産力水準・生産効率が相対的に低いこと,所得の不平等分配が著しくかつ高額所得者層の投資意欲が低いため国内資本形成が遅れていること,資本,技術,生産財供給において先進諸国への依存度が高いことなどで,対外的に脆弱な経済構造が温存されていることなどである。こうした低開発性の根源を究明する経済理論として第2次世界大戦以降ラテン・アメリカの中からプレビッシュ理論(プレビッシュ報告),従属論,構造学派の理論などが提起され,対外従属的な低開発経済を改める戦略として,工業育成,国内の資本形成,技術開発,企業家養成,土地改革を含む制度改革,域内協力などの政策が提起された。これらの開発をめぐる理論や政策はラテン・アメリカだけでなく他の開発途上諸国にも大きな影響を及ぼした。

しかし1973年に端を発する石油危機から,大半のラテン・アメリカ諸国が支払不能に陥った80年代の対外累積債務危機に至る過程で,ラテン・アメリカは深刻な経済危機に陥った。80年代のGDP実質成長率は1.2%という低率を記録,それに加えて高率インフレ,高失業,財政赤字,対外収支難,対外債務返済不能といった問題に苦しんだ80年代は,ラテン・アメリカにとってまさに〈失われた10年〉であり,早急にこの危機から脱することが迫られた。従来からの政府主導による輸入代替工業化政策にかわり,市場原理に基づく新自由主義政策への転換が断行された。すなわち財政赤字の解消による財政収支の均衡,産業保護政策の撤廃と貿易の自由化,金融の規制緩和と資本市場の自由化,公営企業の民営化,地方分権化などの政策が次々と実施された。競争をとおして経済の効率化をはかり,安定した経済成長の持続を目指すこの政策は,IMF・世界銀行が主導する構造調整計画に基づくもので,その実施成果に応じて債務削減を含む債務戦略(ブレイディ構想)の適用を受け,メキシコ,コスタリカ,ベネズエラ,ウルグアイ,アルゼンチンなどがその対象国とされた。

1990年代に入り経済統合においても新しい動きがみられる。一つは従来の域内統合にかわる域外先進諸国との統合で,アメリカ,カナダ,メキシコ3ヵ国を対象に,貿易,資本の自由化を軸に,94年北米自由貿易協定(NAFTA)が発効した。他方域内経済統合の活性化を目指す組織として,アルゼンチン,ブラジル,ウルグアイ,パラグアイ4ヵ国を加盟国とする南米南部共同市場(メルコスール(MERCOSUR))が95年,関税同盟として発足した。貿易の自由化,財・サービス,生産要素の自由な流通,経済政策協調を目的とし,共同市場の形成を目指している。その他にも中米共同市場,アンデス共同市場においても再活性化の動きがみられる。
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百科事典マイペディア 「ラテンアメリカ」の意味・わかりやすい解説

ラテン・アメリカ

アメリカ大陸のうち,メキシコ以南の中央アメリカ西インド諸島を含む)と南アメリカの範囲をさす。北部のアングロ・アメリカと異なり,スペイン,ポルトガルなどのラテン系民族が中心となり,ラテン系文化の影響が濃い固有の文化圏を作っている。この地域の独立国33のうちスペイン語圏18ヵ国を〈イスパノアメリカ〉と呼び,また〈イベロアメリカ〉ともいうが,後者にはポルトガル語国のブラジルを含めることが多い。人種的には先住民のインディオ,ラテン系白人および両者の混血のメスティソからなり,人口はメスティソが最も多い。アフリカから大西洋奴隷貿易で導入された黒人や,移民として入った日系人,中国人,インド人も居住する。宗教はカトリックが最も一般的であるが,土着的・民俗的要素と融合したフォーク・カトリシズムも広く見られ,また黒人の間ではアフリカ系宗教(ブードゥー,カンドンブレ,ウンバンダなど)が盛んである。 かつてはインカマヤなどの古代文明が栄えたが,コロンブスの到着以後,スペイン,ポルトガルにより植民地化された。19世紀前半にボリーバルらの指導下に次々と独立を達成したが,各国とも半封建的大土地所有制を温存したため資本主義の発展が遅れた。今日も多くは農業国で,貧富の差が激しい。19世紀末から米国の進出が著しく,第2次大戦後は米州機構などが設けられたが,キューバ革命(1959年)以来,各国で民族主義や民主化をめざす動きが活発になっている。1960年代後半から1970年代初めにかけて,この地域の多くの国で軍事政権が登場したが,ペルーのようにそれが社会改革(ペルー革命)の推進力となる場合もあった。また支配体制の支柱でもあるカトリック教会の内部から,1960年代以降〈解放の神学〉が唱道されるにいたり,先住民族の権利擁護運動も高まりつつある。経済面では1980年代の累積債務危機は一応のり越えられたが,1990年代半ばのメキシコ,同年代末のブラジルにおける通貨危機は国際金融に大きな影響を及ぼしている。こうしたなかで各種の地域統合の動きが見られ,1991年締結の〈南米南部共同市場〉(メルコスール。1995年域内関税撤廃)や〈北米自由貿易協定(NAFTA)〉へのメキシコの参加(1994年)など,模索が続いている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラテンアメリカ」の解説

ラテンアメリカ
Latin America[英],América Latina[スペイン]

アメリカ大陸で,スペイン系,ポルトガル系の言語,文化が卓越したメキシコ以南の地方の総称。アングロアメリカに対する。スペインでは好んでイスパノアメリカと呼ばれる。最近では,非ラテン的文化色の強いカリブ地域(西インド諸島)を別に扱って,「ラテンアメリカとカリブ」という表現も普及しつつある。わが国でいう中南米にあたる。ラテンアメリカの歴史は三つの段階に分けられる。第一は,外部からの影響なしに,アメリカ大陸固有の住民がメソアメリカ文明アンデス文明などを達成した時代。第二は,1492年のコロンブスの航海以後,19世紀初めまでのスペイン,ポルトガル植民地時代。第三は独立後の近現代である。植民地時代には,各地域とも王室の政治的・経済的統制のもとに置かれて,銀山の開発や砂糖の生産などを行った。労働力不足を補うために多数のアフリカ人が奴隷として導入された。18世紀以後各地で産業が興り,クリオーリョたちの間に自由貿易を望む声が起こったとき,世界市場の開拓に積極的だったイギリスの圧力のもとに,メキシコ,中米の独立および南アメリカの独立が達成された。1889年まで帝政を守ったブラジルを除いて各国は共和制をとったが,大土地所有制やカウディリョの闘争がはびこって政治は安定しなかった。経済的にはイギリス資本が中南米を支配した。19世紀末からアメリカ合衆国の力が強まり,アメリカ‐スペイン戦争によって最後のスペイン植民地として残っていたキューバが独立し,プエルトリコはアメリカ領となった。第一次世界大戦後イギリスの力が失墜してアメリカ合衆国の支配力が決定的となった。各国で,大衆社会の出現とともに社会運動も激化し,メキシコ革命,ボリビア革命,グアテマラ革命キューバ革命などの激動があいついだ。ポピュリズムの政治が30年代から盛んになったが,安定した民主主義や経済社会の発展はまだ未来の問題である。

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世界大百科事典(旧版)内のラテンアメリカの言及

【アメリカ】より

…一般にグアテマラからパナマまでを中央アメリカCentral America,中央アメリカとメキシコとカリブ海諸島とを中部アメリカMiddle Americaと呼ぶこともある。また,文化史的観点から,アングロ・サクソン民族の文化的伝統が強いアメリカ合衆国以北のアングロ・アメリカと,スペイン,ポルトガルのそれが強いメキシコ以南のラテン・アメリカとに区分することもある。
【地形】
 パナマ地峡で結ばれた北アメリカ・南アメリカ大陸は,太平洋側に新期造山帯のコルディレラ山系,大西洋側に古い地塊,中央部に構造平野的な低地が配列しており,地形の概要は南北ほぼ類似している。…

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