精選版 日本国語大辞典 「リトアニア」の意味・読み・例文・類語
リトアニア
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ヨーロッパ北東部、バルト海に臨む独立国。リトアニアは帝政ロシアから1918年に独立を達成したが、独ソ間の密約で40年にソ連に編入され、その一共和国として半世紀の時を刻んだ。90年3月ソ連から離脱を宣言し、91年9月ふたたび完全な主権国家となると同時に、9月国連に加盟した。西はバルト海に面し、北をラトビアに、東をベラルーシ(白ロシア)に、南はポーランドとロシア(カリーニングラード州)に接している。正式国名はリトアニア共和国Lietuvos Respubliko。いわゆるバルト三国の一つ。面積6万5200平方キロメートル、人口348万3972(2001)。人口密度は1平方キロメートル当り53人。首都はビリニュス(人口54万2287、2001)。
[山本 茂]
東ヨーロッパ平野のネマン川下流部にあり、約4000の湖沼群をもつ平坦(へいたん)な低地からなる。モレーン(氷堆石(ひょうたいせき))や湿地、泥炭地など氷河性の地形に覆われている。平均気温は1月零下4.8℃、7月17.2℃、年降水量は約600ミリメートル。最大の河川ネマン川はベラルーシに源を発し、北流してバルト海のクルスク潟(がた)に注ぐ。ポドゾル土が多く(45.3%)、森林は全土の25%で南東部に多い。
[山本 茂]
ヨーロッパのなかでも古い系統のバルト諸族に属し、言語的にも古プロセイン語やラトビア語と同系統の言語をもつリトアニア人が、固有のリトアニア文化を保持するバルト海沿岸部のサモギティア(ジムージ)地方からクライペダ(ドイツ名メーメル)近辺に至る地域を中心にほぼ均質な社会を構成している。一方、首都ビリニュス(ビルノ)を中心とする東部地方および南部にはポーランド人、ロシア人やベラルーシ人を擁し、多民族社会としての側面をもっている。
地理的にみて、古プロセイン地域を小リトアニアとよび、サモギティア地方を除くそれ以外の地域全体を大リトアニアとよぶ。リトアニア人がバルト諸族の一つとして歴史に登場するのは13世紀である。リトアニアという呼称は、「流れる」という意味のスラブ系のことばに由来し、ラトビアのラトと起源を共有する。このことは太古の昔にはスラブ系とバルト系とは同一民族であったことの論拠とされている。ヨーロッパ最後の異教民族であったために、異教徒討伐を旗印に掲げたドイツ騎士団の侵攻を招き、それに刺激されて部族集団から国家編成の段階へ進んだ。13世紀中葉、ミンダウガスの下で最初の統一国家が形成され、続く14世紀初頭のケディミナス(在位1316~41)の代にリトアニア大公位を称し、キプチャク・ハン国の衰退に乗じてルーシ(現ベラルーシ、ウクライナ方面)への進出を開始した。大公アルギルダス(在位1345~77)の下でルーシの諸侯を服属させるにつれ、東方正教会化が進んだ。ドイツ騎士団との抗争が激しさを増すにつれて、ポーランド王国との連合を進める、アルギルダスの息子ヨガイラ(ポーランド名はヤギェウォ)とリトアニアの独立性を守ろうとする、アルギルダスの弟ケイストゥートとが争い、両派に分かれて対立状態に陥った。1386年にヨガイラ(在位1377~92)はポーランドの王位継承者ヤドビガと結婚して、ここにリトアニアはポーランドとの連合時代を迎え、リトアニアはローマ・カトリックを受け入れた。1410年のタンネンベルク(グルンバルト)の戦いで両国はドイツ騎士団を破ってからヨガイラの権威が確立するが、ケイストゥートの息子ビトルト(ビタウタス)はリトアニアの独立派を率いてヨガイラと対抗した。ビタウタス(在位1392~1430)は東方のモスクワ大公国の伸長を抑え、クリミア・ハン国への大遠征を企て、ルーシのほぼ全域を支配下に治めるなど、リトアニア大公国の全盛期をもたらした。
ビタウタスの死後、大公位はヨガイラの子供たちウワディスワフとカジミェシュに継承され、リトアニア・ポーランド連合国家体制の下でルネサンスを迎えたリトアニアは栄華を極めた。1572年にジグムント・アウグストが死んでヤギェウォ朝は断絶するが、それに先だって1569年に両国間でルブリンの合同が結ばれ、リトアニアはポーランドにウクライナの大半を譲り、それぞれ別個の議会と軍隊を維持するものの、ポーランド分割に至るまで実質的に一つの国家としての歴史を歩むことになる。ルブリンの合同以後、リトアニアは今日のベラルーシとともに一つの国家単位を構成することになる。1572年に選挙王政に移行してからは、士族身分団体のためにリベルム・ベト(自由拒否権)が公認されて身分制議会の権限が強まり、王権の弱体化にともない国家は衰退し始めた。国家の衰退と並行して社会の上層部のポーランド化が一段と進んだ。
18世紀末のポーランド分割を経て、リトアニアは帝政ロシアに編入されたがナポレオン戦争期を挟んで、むしろポーランド文化はリトアニアにおいて開花し、ルネッサンス期に設立されて以来の伝統を誇るビルノ大学の学芸は大いに栄えた。歴史家ヨアヒム・レレベルや国民詩人アダム・ミツキェビッチ等のロマン派の知識人を多数輩出した。19世紀の分割時代を通じて、一連のポーランド蜂起(ほうき)の舞台となった。蜂起が敗北すると、蜂起に加担した地主貴族の土地財産は没収され、多くの士族らがシベリアなどへの流刑に処せられた。とくに1863~64年の一月蜂起以後は、総督ミハイル・ムラビヨフの下で徹底した弾圧政策がとられ、しかしその一方で本国ロシアよりも有利な条件で農民解放が実施され、脱ポーランド化が意図的に図られた。とはいえ農民の社会的地位の上昇とともに、リトアニアの農民の政治意識が急速に高まった。これを反映して、1883年に民衆の啓蒙(けいもう)を目的としたリトアニア語の雑誌『黎明(れいめい)Aušra』が、民族主義者ヨナス・バサノビチウスの編集によりプロイセン領ティルジットで創刊され、民族誌的リトアニア(リトアニア人の居住地域のみをさす)の自立を目ざす民族主義運動が勃興(ぼっこう)した。1905年のロシア第一次革命を経てリトアニア語の公用語(ラテン文字の使用)化が認められ、自治政府の設立や議会開設の気運が高まり、独立運動へ弾みがついた。一方、在地の開明派貴族は、リトアニアの民族誌的リトアニアの分離独立傾向に対抗して、ベラルーシとの一体化を主軸とした、すなわち歴史的リトアニア(かつてのリトアニア大公国領、現在のリトアニアとベラルーシを含む地域をさす)の復活を目ざす郷土派ミハウ・レメル(ミコラス・レメリス)を先頭に政界を指導しはじめる。
第一次世界大戦中、ドイツに支援されてリトアニアの民族主義者は評議会(タリバ)を設け、1918年2月16日に独立を宣言した。しかし、独立にあたっては、連邦化を求めるピウスツキが指導する新興ポーランド国家との軋轢(あつれき)やソビエト政権との関係など、難問を抱えた。1920年10月のポーランド軍によるビリニュス占領によりリトアニア・タリバ政権はカウナスに首都を移すが、以後ポーランドとの関係は決定的に悪化した。諸民族の共存共生を求め、歴史的リトアニアの復活を目ざした郷土派の路線は、これで完全に破綻(はたん)した。1926年12月にタリバ政権を率いるアンタナス・シュメトナスの下で疑似ファシズム体制が成立し、ポーランドと対抗するのみならず、クライペダの領有をめぐってドイツとの対立も深めた。1939年8月23日の独ソ不可侵条約の締結、そして9月1日の第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)の際にはリトアニアは中立を宣言したが、ソ連の圧力に屈し、1940年6月17日、ユスタス・パレツキスを首班とする社会主義政権が誕生し、8月3日にソ連に編入された。独ソ戦が勃発すると、1941年6月23日からナチス・ドイツの占領下に置かれたが、1944年2月にリトアニアは独立を果たし、翌年ふたたび一社会主義共和国としてソ連に編入された。1947年から49年末にかけて集団農場(コルホーズ)化の実施に伴い、民族主義者や上層階級がシベリアへ強制移住させられるなど、ソビエト化が推進された。ソビエト化に抵抗する民族主義者は、1952年まで森林地帯でパルチザン活動を展開した。第二次世界大戦後には、ビリニュス地方に居住していたポーランド系住民約17万人が追放され、非ポーランド化が強化された。
[早坂真理]
ゴルバチョフ時代に入り、ペレストロイカ(改革)の進展に応じてリトアニアではソ連圏からの分離独立の動きが急速に高まった。1988年10月からビタウタス・ランツベルギスが独立派サユディスを率い、議会において1940年のソビエト編入を無効とする決議を行った。1990年3月11日、リトアニアは独立を宣言するが、これを阻止しようとするソビエト政府は軍隊を派遣してテレビ局などを制圧し、抵抗する市民14名が虐殺された。しかし、国際世論の支援もあって、ソビエト政府は91年9月6日リトアニアの独立を承認し、また国連は9月17日リトアニアの加盟を認めた。その後、最高会議議長であるランツベルギスの急進的で民族主義な政策は財政破綻を招き、旧共産党系改革派を指導していたアルギルダス・ブラザウスカスが93年2月、独立後初の大統領選挙で当選し、大統領として現実路線を歩んだ。98年、元アメリカ移民で環境問題専門家のアダムクスが大統領に選出された。2003年1月の大統領選挙では、現職であったアダムクスを破り、自由民主党党首パクサスが当選、就任した。しかし、パクサスはロシアマフィアと関係のある企業から多額の献金を受けていたために問題となり罷免(ひめん)。04年に行われた大統領選挙ではアダムクスが当選した。独立以来十数回内閣がかわるなど政情不安が続いている。
[早坂真理]
バルト三国のなかでは比較的温和な気候と肥沃(ひよく)な土壌に恵まれ、農業が発達した。酪農と畜産が農業生産の7割を占めているが、小麦、大麦、ライ麦などの穀類、ジャガイモ、テンサイなどの根菜、亜麻(あま)、菜種などの工芸作物(工芸や工業の原料にするために栽培される植物)、野菜などが栽培されている。
リトアニアは資源に恵まれず、他のエストニアやラトビアに比して工業発展が遅れていた。工業生産の75%が、首都ビリニュスなど五つの主要都市に集中している。カウナスは絹織物、化学工業が、クライペダは漁業、水産加工業、製紙業が盛んである。また、機械・金属加工業も発展し、工作機械、精密機械、エレクトロニクス製品、ラジオ、テレビなどを生産している。化学工業では化学肥料、化繊、硫酸などを、紙パルプ工業は豊富な森林資源を基礎に発展している。古くから発展した軽工業では、毛織物、綿布・縫製、製靴が重要で、食品加工では食肉、酪製品、水産加工に特色がある。
ソ連解体後、地域分業システムが崩壊したため、工業原料やエネルギーの確保が困難となり、電機・エレクトロニクス製品や農産物の輪出先の大半を失った。そのためインフレが高進し、工業生産は5割、農業生産は3割減と落ち込み、経済危機を迎えた。国営企業の民営化が進められるのに伴って、経済も徐々に好転してきた。インフレ率は1992年の1100%から95年には35%に下がった。1992年にはIMF(国際通貨基金)に加盟し、翌年に新通貨リタスを導入し、NATO(北大西洋条約)加盟など北欧諸国やEU(ヨーロッパ連合)との関係のいっそうの緊密化を積極的に進めた。2004年、EU加盟。
[山本 茂]
インド・ヨーロッパ語族に属するバルト語派の一つ、リトアニア人がつくる独立国である。民族構成は、リトアニア人(81.4%)、ロシア人(8.3%)、ポーランド人(6.9%)、ベラルーシ人(1.5%)、ウクライナ人、ユダヤ人など多民族が居住しているが(2000)、旧ソ連の中では主要民族であるリトアニア人の比重が高いことが特徴である。バルト三国のもっとも南に位置するため、ロシア人の流入が少なく、歴史的にその比率はほとんど変化がなかった。人口や都市は国土に広く分散しており、都市人口の比率は68%(1994)。首都ビリニュスは国の南東部にある最大の都市で、政治、経済、文化の中心地である。リトアニアは歴史的にポーランドと関係が深かったが、少数民族のポーランド人が多く住むのも首都周辺の地域である。そのほかのおもな地方都市では古い歴史的都市であるカウナス(人口37万8943)、バルト海に臨むクライペダ(19万2954)、シャウリャイ(13万3883)、パネベジス(11万9749)などがある(2001)。
[山本 茂]
『早坂真理著『ウクライナ――歴史の復元を模索する』(1994・リブロポート)』
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バルト三国のうち,最南に位置する共和国。バルト系諸民族が居住していたこの地は,13世紀にドイツ騎士団の脅威にさらされたが,13世紀前半にリトアニア公国が形成された。その後,カトリック化,ポーランド化が進み,1386年にリトアニア‐ポーランド王国が成立し,1569年のルブリン連合で,事実上ポーランドの属領となった。しかし,1795年の第3次ポーランド分割で,大公国領の大部分がプロイセン領,ロシア領となった。ロシア領リトアニアでは,19世紀からロシア化政策が強化されたが,それに対する抵抗運動が高まり,1918年には独立を宣言,20年に共和国となった。しかし40年,再びソ連に併合された。80年代後半には,ソ連でのペレストロイカの進行に伴い,独立運動が盛んになり,91年独立回復を果たした。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
(袴田茂樹 青山学院大学教授 / 2007年)
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…これらの文学の主要なものは,(1)東スラブ語系(ウクライナ,白ロシア)文学,(2)バルト3国の文学,(3)カフカス地方(アルメニア,グルジアなど)の文学,(4)チュルク語系・イスラム系諸民族の文学である。
[東スラブ語系文学]
古代ロシアの首都キエフは1240年モンゴル軍に攻略されて以来衰微し,今日のウクライナ,白ロシア(現ベラルーシ)に当たる地方は14世紀になって,リトアニア・ポーランド連合の支配下に入った。ウクライナはその後17世紀に,白ロシアは18世紀にロシア領となった。…
…たとえば,16世紀に盛んになるライ麦の輸出は,この二つの川を使って行われた。ただし海岸線に平行する形でマズーリ地方とポモジェ地方,さらにその東のリトアニアに湖沼の帯が続いており,これが人の移動と定住を妨げてきた。この地方のキリスト教化が遅れたり,開発が遅れた理由はここにある。…
※「リトアニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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