翻訳|Luxemburg
基本情報
正式名称=ルクセンブルク大公国Grand-duché de Lexembourg, Grossherzogtum Luxemburg
面積=2586km2
人口(2010)=51万人
首都=ルクセンブルクLuxemburg(日本との時差=-8時間)
主要言語=フランス語,ドイツ語
通貨=ルクセンブルク・フランFranc luxembourgeois, Luxemburgischer Franc(現在はユーロEuro)
ヨーロッパ北西部に位置する立憲君主国。フランス語ではリュクサンブール。フランス,ベルギー,ドイツと国境を接する。中世の領邦国家が現在まで存続した大公国で,ラテン世界とゲルマン世界の境界でヨーロッパの中心に位置するため,その近代的な経済力にも助けられて,国の規模よりはるかに大きな役割を果たしている。
国全体が内陸の高地にあり,その国土は北部約3分の1を占めるエスリングÖslingと,南部約3分の2に当たるグートラントGutlandに分けられる。エスリングは標高450~500mで,ドイツ領アイフェル丘陵からベルギー領アルデンヌ山地に広がる高地の一部をなす。いくつかの小河川が深い渓谷をつくり,平坦地は少ない。冬季はかなり寒く積雪も多いので,農耕はそれほど発達せず,森林地帯をなしている。これに対してグートラントは,パリ盆地から始まる平原の北東端を占め,台地が3個所の急な傾斜で区切られながら,標高350mから300mへと低くなっている。ことにドイツとの国境をなす南東部のモーゼル川沿いなどに平坦地が広がり,エスリングよりも肥沃かつ温暖で,定住と農耕がより稠密(ちゆうみつ)である。首都ルクセンブルクもグートラントにある。
住民は大半がドイツ系である。公用語はフランス語であるが,日常的にはゲルマン語系のルクセンブルク方言Lëtzebuergeschが普及し,公的生活でも用いられるようになってきている。しかし国内対立をはらんだ言語問題は起こっていない。
一院制の議会をもち,大公を元首とする立憲君主制をとり,政治的・社会的にきわめて安定している。19世紀以来の保守勢力とリベラル派の対立に,遅れて社会主義者が加わるというヨーロッパ的構図は共通であるが,隣接諸国にみられたような激しい変革は経験しておらず,1919年から74年まで,1925-26年を除いて,4人の首相によるキリスト教社会党を中心とする内閣が続いたほどである。社会党系とキリスト教系の労働組合や,農民同盟などの同業団体の勢力が強く,社会保障制度も発達していて,生活水準はきわめて高い。宗教生活の一般的な衰退はあるが,住民は古くから圧倒的にカトリック教徒が多い。
道路と鉄道によってフランス,ドイツ,ベルギーと緊密に結ばれ,中世以来の伝統を継いで,現在でもヨーロッパの政治・経済の中心の一つとなっている。ベネルクスの一員として当初からEECの積極的な加盟国であり,NATOにも加わっている。ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体は,1952年の発足とともに首都ルクセンブルクに本部を置いた。ヨーロッパ議会事務局,ヨーロッパ投資銀行,ヨーロッパ裁判所も首都に置かれている。
住民は首都ルクセンブルクと,その南にある鉄工業地帯に集中している。しかし労働力は老齢化がはなはだしく,外国人移入者への依存度が高くて,イタリア人労働者を中心に外国人住民は20%を超えている。隣国フランスとベルギーからの通勤者も多い。農業人口は10%程度で,比較的大規模(平均経営規模20ha以上)の,牧畜を組み合わせた多作経営が行われている。モーゼル川流域の白ブドウ酒が特産物として名高い。伝統的産業のうちでも,印刷・出版,陶磁器生産,食品などが繁栄しているが,経済の中心をなしているのは,なんといっても鉄鋼業である。豊富な鉄鉱石と広い森林(かつては製鉄の燃料は木材)に恵まれていたルクセンブルクは,19世紀後半以降ことに国の南部に集中的に製鉄業を発展させ,世界有数の製鉄国となった。しかしその後,コークスだけでなく鉄鉱石のかなりの部分を輸入に頼るようになり,国際市場での地位は困難をきわめた。ドイツとベルギーを最も重要な相手とする旧EC諸国との間の貿易収支も不均衡になり,そのため,製鉄業への極端な依存を避け,人口を地理的にもより適正に配置すべく,自然的条件を利用した水力発電を行い化学工業などの新産業を育成する政策がとられている。その一方で,公共資金が投入されるだけでなく,ヨーロッパ金融界で重要な役割を果たしているこの国の銀行を通じて,外資も活用されてきた。また,この間ルクセンブルク経済の大きな支えとなったものとして,観光産業が見のがせない。河川が多く,起伏に富んだ地形に森林が広がる自然景観を,ビアンデンの城砦,エヒテルナハの修道院など多くの文化遺産が彩るこの国には,ヨーロッパ各地から多数の観光客が訪れている。
ルクセンブルクは,ヨーロッパの諸勢力角逐の中でめまぐるしい変遷をとげ,諸家系の消長によって支配者を変えながらも,中世の領邦国家が現在の首都と領土を中心として自立性を保ちぬいた,きわめて珍しい例である。その歴史は,東方に勢力を伸張して一時はヨーロッパ政治で巨大な役割を果たした中世,外国に本拠を置く君主の家系に次々と服属した近世,および経済的発展とともにしだいに独立を固めていった近・現代に分けて考えることができる。
この地域への定住は古く,ローマ帝国の幹線道路がここで交差していた。ゲルマン民族大移動の過程でフランク族の定住地となり,7世紀末イギリスから来てエヒテルナハに修道院を創建したウィリブロードWillibrordなどの力によって,9世紀までにはキリスト教化された。フランク王国時代にはカロリング朝の本拠地たるアウストラシアの一部であったが,王国の分割によって,ドイツに属することになった。現在のルクセンブルク市に城砦がつくられ,その周辺にまとまった支配領域としてルクセンブルク伯領が成立したのは10世紀後半で,12世紀前半までの版図はゲルマン語地帯に限られていた。12世紀後半ルクセンブルク伯位がナミュール伯家に移ったことから,ロマン語地帯との関係が深まり,ナミュール伯家から出て第2期ルクセンブルク家の始祖となったエルムザンドErmesinde女伯(1196-1247ころ)のもとで,伯領内部で両言語地帯が拮抗することになり,ゲルマン世界とラテン世界の境界という性格が確立した。その後ルクセンブルク家は南東にも進出して,モーゼル川とムーズ川の間を領域とするに至り,1308年にはハインリヒ7世が,同家出身の大司教たちの支持で,神聖ローマ皇帝に選ばれた。ルクセンブルク家はさらに中欧に巨大な版図を築いて,ボヘミア王位などを兼ね,ハインリヒの孫で帝位についたカール4世のもとで,54年には故地ルクセンブルクを公領に昇格させた。国際政治の働きで,支配者が大勢力となったルクセンブルクそのものは,この時期に領邦国家としての制度を整えた。身分制議会も14世紀後半には発足するが,総じて在地では目だった社会・経済的発展がなく,むしろ,ルクセンブルク家の野心的な政策の犠牲となって財政的に窮迫した。88年以降は質入れされて,結局1443年ブルゴーニュ公家の支配下に入ってしまった。
こうして,15世紀前半にブルゴーニュ公国によって実現されたネーデルラントの統一に加えられ,これ以降その一部をなすに至ったが,それでも後のオランダおよびベルギーとは異なった特質をもつ地域をなしていた。なによりも都市の発達が遅くて市民勢力も弱小だったこと,17世紀に始まる製鉄業も産業革命以前には巨大な力とはならず,経済成長も停滞的であったことが,ネーデルラントでの後進地域という性格をつくり出したのである。そのため,宗教改革などの変革運動も弱く,16世紀には多数の人文主義者を出すが,これらも主として外国で活躍した。
1477年までブルゴーニュ公国に属したが,その後はハプスブルク家の領土に入り,18世紀末までハプスブルク家の本拠であったスペイン(1556-1713)とオーストリア(1714-1804)から次々に支配されることになった。近世における制度面での改革も,18世紀にオーストリア皇帝ヨーゼフ2世とマリア・テレジアによる啓蒙専制主義政策によって,上から進められた。しかしこの間隣国フランスの影響も著しく,1650年には南部領域がフランスに併合され,84年にはルイ14世によって占領されて97年までフランス領となった。領土にはなおゲルマン語とロマン語の地帯を含んでいたが,中央行政用語としてフランス語が定着したのもこの時期である。
フランス革命後,1795年に再びフランス領となったルクセンブルクは,フォレForêts県として統治されたが,住民の反抗が著しかった。1815年ウィーン会議によってルクセンブルクは東部領域をプロイセンに譲るとともに,大公国の資格を与えられ,同時に大公位はネーデルラント国王ウィレム1世に属することになった。しかもドイツ連邦の一員となり,ルクセンブルク市にはプロイセン守備隊が駐屯するという複雑な事態が生じた。1830年ベルギー独立戦争に際しては,ルクセンブルクでもオランダ支配からの離脱を求める運動が起こり,オランダ(ネーデルラント王国)の王家も,よりこの地域の独立性を認める統治を行うようになる。ただし,大公位が完全にルクセンブルクに帰属するようになるのは,90年に即位したナッサウ家のアドルフ大公以降である。1839年には列強のロンドン会議で,西部領域がベルギーに移され,ここに現在の領土と,公用語としてのフランス語,日常語としてのゲルマン語方言という言語状況が確定した。ルクセンブルクは,42年にドイツ関税同盟に加盟したが,60年代にはプロイセン,オーストリアおよびフランスの対立の焦点となり,67年に再び列強のロンドン会議で永世中立国とされて,プロイセン守備隊もルクセンブルク市から撤退した。
こうして独立を達成した19世紀後半のルクセンブルクは,製鉄業のめざましい発展を経験する。鉄鉱床の発見をきっかけに開始された南部の工業化は,鉄鋼業という単一部門を跛行(はこう)的に発展させはしたものの,ともかく急速な経済成長を実現して,この国を一流工業国の地位に押し上げた。同時に数度にわたる憲法の改定を経て,制度面での民主化が進行し,ブルジョアジー支配が成立した。第1次大戦に際してドイツは永世中立を破ってルクセンブルクを占領したが,国家は存続させた。大戦後の1919年に憲法をさらに民主化して大公の権利を制限し,婦人参政権を含む普通選挙権を実施した。またドイツとの関税同盟を解消し,22年にはベルギーとの間に経済同盟を結んだ。第2次大戦中再びドイツに侵略されると,大公と政府は亡命し,国内では激しい抵抗運動がおこった。戦後48年の憲法で永世中立を廃し,ベルギー,オランダとのベネルクス同盟を強化,さらにEUとNATOの積極的な構成国として,ヨーロッパの統一に国の進路を見いだそうとしている。
執筆者:森本 芳樹
ドイツおよびポーランドの革命家,マルクス主義理論家。木材業者の娘としてロシア領ポーランドのザモシチに生まれる。ワルシャワの高校生時代に社会主義運動に参加,1889年,チューリヒに逃れ,大学で自然科学,哲学,社会科学を学び,博士論文に取り組む(1898年《ポーランドの産業発展》として公刊)とともに,多くの亡命革命家と知り合い,94年,仲間とポーランド王国社会民主党を結成。98年,市民権を得てベルリンに移り,ドイツ社会民主党に入党。折からの修正主義論争に《社会改良か革命か》(1899)をもって参加,ベルンシュタインを反駁,《ライプチヒ民衆新聞》《ノイエ・ツァイト》などで左派の理論家として論陣をはった。1905年ロシア革命が起こるとワルシャワに潜入,逮捕されたが,釈放後《大衆ストライキ,党および組合》(1906)を書き,大衆の自発的行動に対する信頼から制度化した党・組合を批判した。10年にも大衆ストライキを提起して,それまで親しかったカウツキーと袂(たもと)を分かった。同時に,党学校での講義や《資本蓄積論Die Akkumulation des Kapitals》(1913)の研究を通じて帝国主義の非人間的本質を解明した。第二インターナショナルでも活躍,何度もポーランド代表として事務局会議に出席,1907年の大会ではレーニンらとともに反戦決議案を提出した。14年,反戦活動のゆえに有罪判決を受け,第1次世界大戦勃発後,15年に収監され,16年,新たに逮捕投獄された。しかし,スパルタクス・グループを結成して非合法の反戦革命運動を展開,《社会民主党の危機》(1916)をユニウスの匿名で出版して党の戦争協力を糾弾した。18年,出獄し,社会主義革命を目ざして活躍,ドイツ共産党を創立し,レーニンとは異なる組織論を示した。19年1月,ベルリンで空前の大衆行動が起こり騒然とするなかで,K.リープクネヒトとともに反革命暴力団によって虐殺された。獄中からの手紙がのちに出版され,日本でも感動をよんだ。
執筆者:西川 正雄
ルクセンブルク大公国の首都。フランス語ではリュクサンブールLuxembourg。同国南部にあり,パリの北西約300km,ブリュッセルの南東約200kmの地点に位置する。人口7万7300(2004)。アルゼット川とその支流が湾曲しながら60mに達する深い渓谷をつくっている場所にできた,標高320~350mの三つの台地に広がる。土地の激しい起伏によって眺望の変化に富み,また城郭の跡や公園,三つの街区をつなぐさまざまな時代の橋,洗練された古い町並み,ノートル・ダム大聖堂(17世紀初め)などが残り,きわめて魅力ある都市となっている。ヨーロッパ各地とは鉄道と高速道路によって結ばれ,内陸高地にありながら交通の便はよい。製鉄業発展の端緒となった地で,南に工業地帯が広がるが,現在市内外には重工業はそれほどない。皮革業や印刷業などの伝統的工業も見られるが,同市の機能は圧倒的に第3次産業に集中している。発達した商業部門,ヨーロッパ金融界で重要な地位を占める多くの銀行に加えて,なによりも,大公国政府のほかに,ECの諸機関をもつ行政部門が大きい。またヨーロッパ投資銀行などが所在し,ヨーロッパ議会や閣僚会議がしばしば開かれている。
ルクセンブルクは,ローマ期の小集落から中世に都市が成立し,近代化して現在まで続くという,ヨーロッパ都市によくある歴史をたどったが,主要交通路を扼(やく)する要衝の地として,軍事的性格がきわめて強かった。ローマ帝国の二つの幹線道路が交差していたこの地には,すでに城砦ルキリンブルフクLucilinburhuc(〈小城砦〉の意)があったが,10世紀末以降には,ルクセンブルク伯のもとで何度かにわたって軍事施設が強化された。近世にも,スペイン,フランス,オーストリアと支配者が変わるたびに城郭に手が加えられ,ことにフランスの軍事技術者ボーバンによる築城は名高い。プロイセン守備隊が駐屯していた1867年,列強の協定によって城郭は解体されたが,現在町の中心部をなすボック台地に,その跡が残されている。
執筆者:森本 芳樹
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…これに対し,K.カウツキーやN.ブハーリンは,マルクスの再生産表式の均衡条件が資本主義では不可避的な労働者大衆の消費制限によって破壊されざるをえないことを主張し,過少消費説的商品過剰論を説く。剰余価値の実現のためにかならず非資本主義的外囲が必要とされるとみたR.ルクセンブルクの資本蓄積論も,この系譜につらなる。その後,ソ連のE.バルガ,L.メンデリソン,東ドイツのF.エルスナー,日本の山田盛太郎,富塚良三,井村喜代子らマルクス主義経済学正統派は,レーニンのいう〈生産の社会的性格と領有の個人的性格との矛盾〉を基本として,消費制限説的恐慌論の歴史への適用や理論的進化に努めてきた。…
…ベルンシュタインの理論は,国家権力の核心がプロイセン陸軍の手に握られているドイツの現実を無視してはいたが,ドイツの党の活動の状態を率直に反映していた。他方で党内左派のローザ・ルクセンブルクらは,ゼネラル・ストライキによる権力奪取という革命的変革の展望を抱いていた。 ベルンシュタインの修正主義と,カウツキーに代表される党主流との闘争は,1903年の党大会決議によって形式的には修正主義の敗北に終わったが,現実に修正主義は党の体質に浸透しており,第1次大戦が勃発すると党指導者は政府を支持し,党の革命的言辞が空文句であったことをおのずから露呈した。…
…社会民主党内に開戦当初から存在した〈帝国主義戦争〉反対派もしだいに勢力を強め,戦争支持派による抑圧と排除に抗して,17年4月,ついにドイツ独立社会民主党を結成した。同党は,ハーゼ,カウツキーら平和主義的な党指導部から,ローザ・ルクセンブルク,カール・リープクネヒトを中心とする反戦革命派のスパルタクス派まで,さまざまな流れから構成されていた。 ロシアに革命が勃発したこの1917年は,ドイツでも大衆行動が大戦下最初の高揚を見せた年となった。…
…第1次大戦前のドイツ社会民主党左派から発展して大戦中に独自の組織を形成したスパルタクス派Spartakus Gruppe(インテルナツィオナーレ派Gruppe Internationale)と,ブレーメン左翼急進派Bremer Linkeなどから1918年に結成された。 スパルタクス派は,ローザ・ルクセンブルク,K.リープクネヒトらを指導者として組織され,政府の戦争政策を支持する党主流派に反対し,反戦と革命行動を唱えて非合法誌を発行し,この誌名がグループの呼称となった。1917年独立社会民主党(USPD)が創設されると独自の組織を維持しつつこれに属した。…
…理論の次元でも,世紀の変り目ごろ,ベルンシュタインが漸進的社会主義を唱えて党是のマルクス主義に修正を加えようとした(修正主義)。彼の主張は,カウツキーやローザ・ルクセンブルクの反批判を招き(修正主義論争),1903年の党大会で否定された。しかし,10年,革命運動の活性化を目ざしてルクセンブルクらが大衆ストライキを提唱すると,カウツキーらは〈中央派〉を形成し,左右両派に対してマルクス主義正統派たることを自認した。…
※「ルクセンブルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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