アフリカのコンゴ(現,コンゴ民主共和国)の政治家。カサイ州の出身で,ミッション・スクールで教育を受けたのち,スタンリービル(現,キサンガニ)で郵便局員となり,労働運動指導者を経て民族主義運動の有力な指導者となった。57年に主都レオポルドビル(現,キンシャサ)に移り,58年にはコンゴ民族運動(MNC)の創設に重要な役割を果たすとともに,現ガーナのアクラで開かれた第1回全アフリカ人民会議に出席し,エンクルマらの政治姿勢に強く刺激されていっそう先鋭化した。その結果59年末には,コンゴの即時解放を叫び暴動を誘発したとして,扇動罪で一時投獄された。60年初めの〈独立のための円卓会議〉にコンゴ代表の一員として出席し,さらに同年5月の選挙でMNCを勝利に導いて,6月の独立とともに初代首相に就任した。しかし独立直後に起こったコンゴ動乱の渦中にあって,中央集権主義者の彼は地方分権主義に傾斜したカサブブ大統領と激しく対立し,9月には互いに相手の解任を宣言するにいたった。この対立状況のなかで彼は一時国連軍の保護下にあったが,レオポルドビルを脱出して本拠地スタンリービルへ向かう途中,12月にカサイ州で政府軍に逮捕され,身柄をカタンガ州に送られて61年2月に殺害された。主著に《コンゴ,未来の国--汝は脅威なりや》(1961)がある。
執筆者:小田 英郎
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1925~61
コンゴ民主共和国独立時の首相(在任1960)。民族主義と反植民地主義を強く主張した。コンゴ動乱のなかで,敵対勢力に捕えられて殺害された。暗殺にはアメリカやベルギーが関与したとされ,世界各地で激しい抗議行動が起こった。
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…第2次世界大戦が終わると,アフリカ全域にナショナリズム運動が高まるが,ベルギー領コンゴにその波動が到達したのは50年代末期であった。その契機は,コンゴ国民運動(MNC)の指導者ルムンバが58年12月に現ガーナのアクラで開かれた全アフリカ人民会議に出席し,他地域のナショナリストたちから大きな刺激を受けて帰国したことである。ルムンバはコンゴの即時独立を目ざしてただちに大衆運動の組織化に着手し,ほかにもこれに同調する動きが生じたため,ベルギーもコンゴの独立を認める方向へ向かわざるをえなくなった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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