レザノフ(読み)れざのふ(英語表記)Николай Петрович Резанов/Nikolay Petrovich Rezanov

デジタル大辞泉 「レザノフ」の意味・読み・例文・類語

レザノフ(Nikolay Petrovich Rezanov)

[1764~1807]ロシアの実業家。1804年、遣日使節として漂流民津太夫らを伴って長崎来航貿易要求を拒否されたため、報復として、1806年および1807年に樺太からふと択捉えとろふ武力攻撃した。

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精選版 日本国語大辞典 「レザノフ」の意味・読み・例文・類語

レザノフ

  1. ( Nikolaj Pjetrovič Rjezanov ニコライ=ペトロビチ━ ) ロシアの実業家、外交官。文化元年(一八〇四)ロシアの遣日全権大使として、漂流民津太夫らを伴い長崎に来航。幕府に貿易を要求したが拒否されたため、報復として文化三~四年、武力で樺太、択捉(えとろふ)島を掠奪。(一七六四‐一八〇七

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改訂新版 世界大百科事典 「レザノフ」の意味・わかりやすい解説

レザノフ
Nikolai Petrovich Rezanov
生没年:1764-1807

ロシアの政治家。遣日使節。イルクーツクの富裕な毛皮商シェリホフの女婿となり,1799年露米会社の設立に参加し,同社の総支配人となった。北太平洋アラスカにおける自社の事業を発展させるためには,日本との交易が絶対に必要だと考え,1804年(文化1)ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えて長崎に来航した。しかし半年余も待たされたあげく,親書は突き返され,交易は拒絶された。このあと彼はアレウト列島とアラスカにおける露米会社の経営立直しに努力するとともに,スペイン領アメリカ(カリフォルニア)との貿易の端緒を開いた。06年帰国に先立ち,レザノフは部下のフボストフ大尉とダビドフ少尉に日本の北辺を攻撃させ,そのショックによって日本に交易を開かせることを計画した。この命令を受けて二人は06年から07年にかけてサハリン(樺太),択捉(えとろふ)島の日本人部落を襲い,また利尻・礼文両島沖の日本船を焼いた。世にいう〈文化の露寇〉である。レザノフはオホーツクに上陸し,ペテルブルグへ帰る途中クラスノヤルスクで客死した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「レザノフ」の意味・わかりやすい解説

レザノフ
れざのふ
Николай Петрович Резанов/Nikolay Petrovich Rezanov
(1764―1807)

ロシアの遣日使節。ロシアの貴族の家に生まれる。元老院第一局長兼侍従長の要職につくとともに、シェリホフ・ゴリコフ商会の設立者である富豪シェリホフの女婿(じょせい)となり、同商会を発展的に解消して1799年に設立された露米会社の総代理人ともなった。露領アメリカ(北太平洋沿岸からアラスカにかけての地域)の発展のためには日本との通商や本国との直航路の開設が必要であることをアレクサンドル1世に説き、仙台の漂流民津太夫らを伴い、クルーゼンシュテルン指揮下の世界周航船で1804年(文化1)長崎に着いた。ラクスマンの得た長崎にくることを許す特許状に基づき、半年間ほど滞在して通商を求めたが、日本側の拒絶にあい、また、病気療養のために上陸中も幽囚同様の扱いを受けた。1806、07年に起こった露米会社の海軍士官フボストフ、ダビドフによる樺太(からふと)、択捉(えとろふ)などの襲撃事件、いわゆる「文化(ぶんか)の露寇(ろこう)」は、レザノフの命によるもので、幕府の通商拒絶への報復であった。

[小林真人]

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百科事典マイペディア 「レザノフ」の意味・わかりやすい解説

レザノフ

ロシアの政治家,江戸後期の遣日特使。青年貴族で,露米毛皮会社の重役。アレクサンドル1世の命で日本などとの通商を開く任務を兼ね,クルーゼンシテルンとともにロシア初の世界周航に出た。1804年津太夫(つだゆう)らを伴って長崎に渡来。通商を求めたが幕府に拒絶された。このため日本の北辺を攻撃し,そのショックにより通商を開かせようと計画,1806年―1807年部下フボストフらに命じてサハリン(樺太(からふと))や択捉(えとろふ)島などの日本人集落を劫掠させた(丁卯(ていぼう)の変)。帰国の途次,シベリアで没。
→関連項目環海異聞ラクスマン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レザノフ」の意味・わかりやすい解説

レザノフ
Rezanov, Nikolai Petrovich

[生]1764.4.8. ペテルブルグ
[没]1807.3.13. クラスノヤルスク
帝政ロシアの事業家,外交官。豪商 G.シェレホフの女婿となり,1799年パーベル1世の勅許によるロシア領アメリカ会社を設立。総支配人として千島,アラスカ,カリフォルニアに及ぶ植民事業を統轄するとともに,宮廷では侍従長の要職をつとめた。インド,太平洋諸国との通商,ならびに航海の発展,および日本と千島,カムチャツカとの交易などを目指し,I.クルゼンシテルンの率いるロシア最初の世界周航隊が派遣された際,それに加わって軍艦『ナジェージダ』号で文化1 (1804) 年来日。長崎奉行と応接したが,通商交渉はならず,携行したアレクサンドル1世の親書も受取りを拒否された。これに怒ったレザノフはサハリンの日本植民地を報復攻撃する計画を立て,オホーツクを経て陸路ペテルブルグへ向ったが途中で病没。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「レザノフ」の解説

レザノフ
Nikolai Petrovich Rezanov

1764.3.28~1807.3.1

ロシアの政治家。1799年設立されたロシア・アメリカ会社の総支配人。1803年同社の世界周航計画に日本との通商交渉が加えられると,みずから周航隊長兼使節となり,大西洋・太平洋を航海。04年(文化元)4人の日本人漂流民をともない,先にラクスマンに与えられた信牌(しんぱい)をもって長崎へ来航。しかし半年も待たされたうえ要求のすべてを拒絶され,待遇も悪かったため,06年武力を背景に通商開始を迫ることを決意,いったん配下の海軍士官に対し樺太・蝦夷地の攻撃を指示した。その後曖昧な指令変更を残したまま帰途につき,ペテルブルク(現,サンクトペテルブルク)へ戻る途中病死した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「レザノフ」の解説

レザノフ Rezanov, Nikolay Petrovich

1764-1807 ロシアの遣日使節。
1764年4月8日生まれ。ロシア宮廷侍従長,露米会社の総代理人となる。日本との通商の必要性をアレクサンドル1世に進言し,津太夫ら漂流民の護送と通商要求のため,文化元年(1804)長崎に来航。ラクスマンにつづき幕府の通商拒否にあい半年後退去。途中,部下に日本の北辺を攻撃させた。1807年3月13日死去。42歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「レザノフ」の解説

レザノフ
Nikolai Petrovich Rezanov

1764〜1807
江戸後期に来日したロシア使節
1804年ラクスマンが得た長崎入港許可証を携え,日本人漂流民を伴って長崎に来航。幕府に通商を要求したが半年待たされたうえ拒絶されたため,翌年カムチャツカにいったん退去ののち,'06・'07年の2回,部下に樺太 (からふと) ・択捉 (えとろふ) を襲撃させた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「レザノフ」の解説

レザノフ
Nikolay Petrovich Rezanov

1764〜1807
ロシアの実業家で訪日使節
北太平洋の漁労・貿易・植民の特権をもつロシア−アメリカ会社の幹部。訪日全権使節となり1804年長崎に来航,通商を求めたが,目的を果たさず帰国した。

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