百科事典マイペディア 「ロサス」の意味・わかりやすい解説
ロサス
→関連項目アルゼンチン|サルミエント
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アルゼンチンの政治家。独裁者。大牧場主で、ガウチョ(牧童)からなる私兵団を擁し、カウディーリョ(統領)とよばれる実力者の典型であった。1820年代に連邦派と中央集権派の対立から国内が内戦状態に陥ると、前者の総帥にのし上がり、29~32年にはブエノス・アイレス州知事として連邦派による全国制覇を成し遂げた。35年には司法、立法、行政にわたる全権を委託されて州知事に再任され反対派を厳しく弾圧したため、恐怖政治と恐れられたが、30~40年代にたびたび試みられたフランスとイギリスの軍事干渉を実力で阻止したことから、その民族主義的側面が一部の史家により高く評価されている。52年にカセーロスの戦いで敗れたのちイギリスに亡命し、かの地で没した。
[松下 洋]
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1793~1877
アルゼンチンの独裁者,ブエノスアイレス州知事(在任1829~32,35~52)。典型的なカウディリョ。中央集権体制をめざすリバダビア政権に反対する連邦派のリーダーとして台頭し,1831年中央集権派をシウダデラにて破り,独裁体制を確立した。エントレ・リオス州知事ウルキサによる反ロサス運動が高まり,52年イギリスに亡命した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…サン・マルティンは18年にチリ,21年にペルーをスペイン支配から解放するが,その間にアルゼンチンでは,中央集権派と連邦派の対立が激化し,20年後者の勝利は統一的な中央政府を瓦解させた。以後ブラジルとの交戦期(1826‐28)を除き永らく中央政府不在の状態が続くが,連邦派のブエノス・アイレス州知事ロサスJuan Manuel de Rosas(在職1829‐32,35‐52)は,軍事力を背景に州内外の中央集権派を弾圧して事実上の国家統一を達成した。また同政府の打倒を目指した40年代の英仏両国による軍事干渉にも頑強に抵抗して撤兵をよぎなくさせた。…
…サン・マルティンは18年にチリ,21年にペルーをスペイン支配から解放するが,その間にアルゼンチンでは,中央集権派と連邦派の対立が激化し,20年後者の勝利は統一的な中央政府を瓦解させた。以後ブラジルとの交戦期(1826‐28)を除き永らく中央政府不在の状態が続くが,連邦派のブエノス・アイレス州知事ロサスJuan Manuel de Rosas(在職1829‐32,35‐52)は,軍事力を背景に州内外の中央集権派を弾圧して事実上の国家統一を達成した。また同政府の打倒を目指した40年代の英仏両国による軍事干渉にも頑強に抵抗して撤兵をよぎなくさせた。…
…40年チリに再び亡命し,ジャーナリストとして健筆を振るうかたわら,19世紀のラテン・アメリカにおけるロマン主義文学の最高傑作といわれる《ファクンド――文明と野蛮》(1845)を発表した。同書はカウディーリョのファクンド・キロガの伝記という形を採りつつ,当時の独裁者ロサスを批判したものであり,国の後進性の原因をスペイン的伝統や粗野なガウチョの存在に求め,西欧移民の誘致や教育の拡充による文明化=西欧化を提唱していた。52年ロサス政権の崩壊後はこうした理念の実践に努め,57年にブエノス・アイレス市の参事官,さらに教育局長,州議会の上院議員に選出され,62年にはサン・フアン州知事となった。…
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