デジタル大辞泉 「ロビンソン」の意味・読み・例文・類語
ロビンソン(Jack Roosevelt Robinson)
[補説]黒人メジャーリーガーの先駆者としての功績を称えて、ロビンソンの背番号42はメジャーリーグの全球団で永久欠番となっている。
イギリスの写真家。シュロップシャー県ルドロー生まれ。中世の面影を残すルドローの街や、生地に近いイングランドとウェールズの境界の自然は、後のロビンソンの写真制作に多大な霊感を与えた。少年時代は生地の書店で店員見習いのかたわら、素描と絵画を手がける。1845年ルドロー城を描いた素描が、絵入り雑誌『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』Illustrated London Newsに掲載されるなど、若いころから素描家・水彩画家として活動。50年イングランド中部ウースターシャー、ブロムスグローブの書店に勤務する間に、ダゲレオタイプ(フランスのダゲールとニエプスにより開発された銀板写真術)を学ぶ。51年ロンドンに赴(おもむ)き書店・出版社に勤務する一方、古今の絵画を見るため大英博物館やロイヤル・アカデミーなどあらゆる美術館に足繁く通い、同時代のラファエル前派、特にミレイの絵画に強い印象を受ける。翌年油彩画『ルドロー橋付近のテーム川』をロイヤル・アカデミー年度展に出品。53~56年ハンプシャー県リミントンに移住し書店の仕事を続けつつ、本格的に紙ネガによるカロタイプ印画(イギリスのタルボットにより発明された。紙ネガに塩化銀紙を密着し陽画をつくる印画法)を始める。54年ロビンソンの購読した『写真協会報』Journal of the Photographic Societyに技法解説を執筆していたH・ダイヤモンドHugh Diamond(1809―86)博士に私淑、写真家になることを決意する。57年同地に写真スタジオを開設、ロンドン写真協会員に選出される。翌年に合成の技法を用いた最初の主要作「臨終」を制作。ロンドンの水晶宮(クリスタル・パレス)に展示されると評判を呼び、スタジオは多くの顧客を得た。
5枚のネガを合成した「臨終」は、死につつある女性と悲嘆にくれる近親者を対比的に描き、また王立写真協会蔵のバージョンには、写真を貼った台紙の余白にシェリーの詩が記載されている。事前に素描などで設計しておいた複数の図像を、ネガ合成によって1枚の写真に仕立てる、画家出身ならではのロビンソンの写真は、初期の芸術写真を代表する思潮を形づくった。それは、彼が影響を受けたラファエル前派の絵画と同様に、ビクトリア朝特有の文学趣味的な図像表現といえる。以降のロビンソンは王室の庇護を得て、ロンドン写真協会などの写真団体の展覧会で芸術写真を展示し続ける一方、折から発明されたカルト・ド・ビジット(名刺判写真)の流行に支えられ、商業的にも成功した。文学との強い関連を示す代表作に、テニソンの詩を伴う「シャーロットの淑女」(1861)、スペンサーの詩を伴う「さんざしを摘む」(1862)などがある。長い制作歴を通じて彼の作品には、自然と共生する理想的な田園の風景や労働と余暇の一こまを描き出す点に特徴があり、後期の代表作には暖炉端に母子と老人を象徴的に配した「夜明けと夕暮れ」(1885)がある。
1860年代半ばに健康を害して一時制作を休止したことを契機に、芸術写真の技術と表現に関する啓蒙書を執筆。特に彼の主著『写真の絵画的効果』Pictorial Effect in Photography(1869)は、イギリスにおいてはもとより、フランス、ドイツで翻訳され、多くのアマチュア写真家の手引きとなった。自然主義と理想主義の融合を図ろうとする彼の理論は、特に1830年に出版されたジョン・バーネットJohn Burnet(1784―1868)の画論書『絵画論』Treatise on Paintingの影響がみられるほか、美術評論家ラスキン、ロイヤル・アカデミー創始者の画家レノルズらの画論、さらにはシェークスピアからの引用が見られ、当時のイギリスの美学的な風土をよく反映している。19世紀後半の芸術写真の確立者であったロビンソンだが、後続する世代の代表的写真家エマーソンが、写真表現に適用される絵画の規則を廃し、写真メディアの独立性に根ざした制作を主張する際に、ロビンソンは旧世代を代表する権威として攻撃を受けた。
1862年から30年にわたってロンドン写真協会(74年にイギリス写真協会に改称)評議委員となるが、91年の協会年度展で審査を務めた作品が批判されたことをきっかけの一つとして脱会し、翌年写真家ジョージ・デイビソンGeorge Davison(1882―1966)らと新団体リンクト・リングを設立。晩年まで同団体の審査委員会議長を務めるなど中心的な役割を果たし、新しい絵画的写真の動向にも理解を示した。ケント県タンブリッジ・ウェルズで死去。
[倉石信乃]
『Alan Vertrees, Dave Oliphant & Thomas Zigal eds.The Picture Making of Henry Peach Robinson; Perspectives in Photography (1982, University of Texas Press, Austin)』▽『Margaret F. HarkerHenry Peach Robinson; Master of Photographic Art, 1830-1901 (1988, Blackwell, Oxford)』
アメリカのプロ野球選手(右投右打)、監督。大リーグ(メジャー・リーグ)のシンシナティ・レッズ、ボルティモア・オリオールズ、ロサンゼルス・ドジャース、カリフォルニア・エンゼルス(現、ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)、クリーブランド・インディアンスでおもに外野手としてプレー。史上唯一、両リーグで最優秀選手(MVP)を受賞、また三冠王も獲得した球史に残る強打者である。クリーブランド・インディアンス、サンフランシスコ・ジャイアンツ、ボルティモア・オリオールズ、モントリオール・エクスポズ(現、ワシントン・ナショナルズ)で監督を務める。
8月31日、テキサス州ボーモントで生まれる。マックリーモンズ高校から1953年、レッズに入団、1956年に大リーグへデビュー、1年目にホームラン38本を放って新人王に選ばれた。1965年までレッズに在籍したが、その間1958年にゴールドグラブ賞、1961年にはレッズの21年ぶりのリーグ優勝に貢献して最優秀選手(MVP)に選出された。1966年にオリオールズに移籍、同年、打率3割1分6厘、ホームラン49本、打点122で三冠王を獲得、オリオールズに22年ぶりとなるリーグ優勝をもたらした。さらにドジャースとのワールド・シリーズを制して球団初の世界一となる原動力になり、MVPに選ばれた。その後、1972年ドジャース、1973年エンゼルス、1974年の途中からインディアンスに在籍して1976年限りで引退した。インディアンスでの2年目となる1975年から監督を兼務、史上初の黒人監督であった。しかし1977年の途中で解任され、1981年から4年間はジャイアンツの監督となった。1988年からはオリオールズで指揮をとり、1989年には2位ながら最優秀監督賞を受賞した。1991年限りで監督を辞任し、1999年からは大リーグ機構の要職についていたが、2002年から監督としてエクスポズ(現、ナショナルズ)を率いた。しかし、十分な戦力が整わなかったこともあって、チームは上昇することなく、2006年のシーズン後に勇退した。
選手としての21年間の通算成績は、出場試合2808、安打2943、打率2割9分4厘、本塁打586、打点1812。獲得したおもなタイトルは、新人王、首位打者1回、本塁打王1回、打点王1回、MVP2回。監督としての通算成績(16年)は、1065勝1176敗、最優秀監督賞1回。1982年に野球殿堂入り。
[出村義和 2019年2月18日]
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)でおもに二塁手としてプレー。初の黒人選手として登場し、さまざまな困難と戦いながら後進たちに道を切り開いた大リーグにおける人種開放のパイオニアである。
1月31日、ジョージア州カイーロで生まれる。1946年、ドジャースに入団。注目を避けるためにカナダのマイナー球団に配属された。1947年大リーグに昇格すると、相手球団が試合をボイコットしようとしたり、自軍の選手までいっしょにプレーするのを嫌がるなどの迫害に耐えながら、打率2割9分7厘、ホームラン12本、打点48の好成績をマーク。盗塁29でタイトルも獲得し、同年創設された新人王にも選ばれた。現在、ナショナル・リーグでは同賞のことを「ジャッキー・ロビンソン賞」とよんでいる。1949年には首位打者となったうえに、盗塁王も獲得。リーグ優勝に貢献して最優秀選手(MVP)にも選ばれた。バント・ヒットで出塁し、すきあらばホーム・スチールも敢行するなど機動力を武器として活躍し、10年間の在籍中にチームは6回リーグ優勝し、1955年にはワールド・シリーズも制した。1956年限りでニューヨーク・ジャイアンツにトレードされると、これを不服として翌年1月に引退した。1997年には登場50周年を記念して、大リーグの全球団でロビンソンの背番号42が永久欠番(その時点で42番の選手は除く)とされた。
10年間の通算成績は、出場試合1382、安打1518、打率3割1分1厘、本塁打137、打点734。獲得したおもなタイトルは、新人王、首位打者1回、盗塁王2回、MVP1回。1962年に野球殿堂入り。
[山下 健]
『ジャッキー・ロビンソン著、宮川毅訳『黒人初の大リーガー ジャッキー・ロビンソン自伝』(1997・ベースボール・マガジン社)』▽『リチャード・スコット著、国代忠男訳『ジャッキー・ロビンソン物語』(1997・筑摩書房)』
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のボルティモア・オリオールズで三塁手としてプレー。16年連続ゴールドグラブ賞に輝き、「人間掃除機(バキュームクリーナー)」とよばれる史上最高の守備を誇った名三塁手である。
5月18日、アーカンソー州リトル・ロックで生まれる。1955年にオリオールズ入りし、シーズンの終盤には大リーグへ昇格、6試合に出場した。その後、マイナー・リーグとの往復となったが、1960年以降は大リーグに定着し、同年ゴールドグラブ賞を受賞した。1961年から1964年まで4年連続して全試合に出場。とくに1964年は、打率3割1分7厘、ホームラン28本、打点118で打点王となり、最優秀選手(MVP)にも選ばれた。1966年にシンシナティ・レッズから強打のフランク・ロビンソンが加入すると、ダブル・ロビンソンとして攻守の中心を担い、チームは22年ぶりにリーグ優勝、ワールド・シリーズでもロサンゼルス・ドジャースを降した。1969年からも3年連続のリーグ優勝に貢献。なかでも1970年のワールド・シリーズでは、打率4割2分9厘で打点6の猛打と、超ファインプレーの連続でレッズの強力打線を封じ込めた守備で、シリーズMVPとなった。1972年以降はホームランが1桁(けた)となり長打力の衰えが顕著になったが、好守備に陰りはなく、1973年、1974年の連続地区優勝にも貢献した。1977年限りで現役を引退した。
23年間の通算成績は、出場試合2896、安打2848、打率2割6分7厘、本塁打268、打点1357。獲得したおもなタイトルは、打点王1回、MVP1回、ゴールドグラブ賞16回。1983年に野球殿堂入り。
[山下 健]
イギリスの経済学者。ケンブリッジ大学に学び、1931年同大学の経済学講師となり、1965年に夫E・A・G・ロビンソンSir Edward Austin Gossage Robinson(1897―1993)同大学教授引退後のポストを引き継ぎ、1971年まで務めた。彼女の業績はほぼ年代順に三つに分けられる。第一は、スラッファPiero Sraffa(1898―1983)の影響のもとに不完全競争の理論を創出し、E・H・チェンバリンの独占的競争の理論とともに、価格理論に新分野を確立したことである。第二は、ケインジアンとしての業績である。価格分析から所得分析に転じた彼女は、J・M・ケインズに師事するというよりは、R・F・ハロッドと同様、ケインズとともに『一般理論』(1936)の構築に参加し、その優れた入門書、研究書を著してケインズ革命の展開に尽くした。第三の、そして最大の業績は、ポスト・ケインジアンとしてのそれである。第二次世界大戦後、静学的短期分析から動学的長期分析に転じた彼女は、ハロッドとともにケインズ理論の長期化=成長理論化に努めた。そこではまず恒常的経済成長の諸条件を明らかにし、そこに独自の価値論を用いて技術革新の類型を導入し、さらにケンブリッジ型生産関数論を組み込んで、資本主義成長の不安定性を解明した。このプロセスにおいてマルクス経済学にも接近している。その現れの一つが、先進国はケインズ経済学的経済経営、開発途上国はマルクス経済学的・社会主義的経営という主張である。こうしてケインズ革命の本質が資本主義経済の不安定性の解明にあるとした彼女は、新古典派経済学が経済学の第二の危機を招くであろうと力説し、新しい経済学体系の確立を目ざした。
[一杉哲也]
『J・V・ロビンソン著、加藤泰男訳『不完全競争の経済学』(1956・文雅堂書店)』▽『J・V・ロビンソン著、杉山清訳『資本蓄積論』(1957・みすず書房)』▽『J・V・ロビンソン著、宮崎義一訳『経済学の考え方』(1966・岩波書店)』▽『J・V・ロビンソン著、宇沢弘文訳『異端の経済学』(1973・日本経済新聞社)』▽『J・V・ロビンソン、J・イートウェル著、宇沢弘文訳『現代経済学』(1976・岩波書店)』
イギリスの有機化学者。チェスターフィールド州の生まれ。マンチェスター大学でパーキンに学んで、1910年博士号を得、1912年シドニー大学教授。1915年帰国、リバプール大学(~1920)、イギリス染料会社研究所長(~1921)を経てセント・アンドリューズ大学(~1922)、マンチェスター大学(~1928)、ロンドン大学(~1930)、オックスフォード大学(~1955)の教授を歴任。以後はシェル化学会社の重役兼化学顧問を務めた。彼の研究論文は約1000編、その内容はフラボン系・アントシアン系植物色素、アルカロイド、ステロイド関連物質の化学構造解明と合成、有機化学反応の電子論的解析などに及ぶ。アルカロイドのモルヒネ、パパベリン、ナルコチン、ストリキニーネ、ブルシンの構造解明は著名。1947年ノーベル化学賞受賞。イギリス化学会会長(1934~1941)、王立協会会長(1945~1950)も努めた。1953年(昭和28)来日。ピアノ、チェスに長じ、登山家でもあった。
[道家達將]
『菅沢重彦「ロビンソン教授のプロフィール」(『化学と工業』第6巻第9号)』
アイルランド共和国の政治家、大統領(1990~1997)。カトリックの家(旧姓バーク)に生まれたが、プロテスタントが優勢なダブリンのトリニティ・カレッジで学び、1969年、同カレッジ史上最年少の法学教授となった。さらに同年、大学を代表する上院議員として政界に進出、1970年にはプロテスタントのニコラス・ロビンソンと結婚した。労働党の議員として活躍したが、1985年、北アイルランドの当事者抜きでイギリス・アイルランド協定が結ばれたことに抗議して労働党を離党した。しかし、大統領選挙に立候補するために復党し、1990年の大統領選では女性や若者の支持を集め予想を覆して当選し、女性として初めて大統領の座についた。活動的な大統領として国の内外できわめて高く評価されたものの、1997年任期途中で辞任し、国際連合の人権担当高等弁務官に就任した(~2002)。保守的空気の強い国の中でリベラルな勢力を代表し、女性の権利拡大にも尽力している。
[木畑洋一]
アメリカの詩人。メーン州生まれ。ハーバード大学中退。処女詩集『奔流と前夜』(1896)を出したが、不幸にみまわれ続けた。しかし、地下鉄で働いているうちに、T・ルーズベルト大統領が彼の作品に目を留め、高給の入る地位を与え、詩集『夜の子ら』の再版発行(1897)を世話した。韻文小説(1927)で三度目のピュリッツァー賞を受け詩集も多いが、今日、アメリカ詩壇で彼が記憶されているのは、『ミニバー・チービー』などで落後者のポートレートを、古典的格調で描出したことによる。E・L・マスターズの先駆者的な面もある。
[徳永暢三]
『大和資雄訳『夜の子ら』(『世界名詩集大成11』所収・1959・平凡社)』
アイルランドの劇作家。牧師の家に生まれる。体面ばかり気にする主婦を中心にアイルランドの農民気質を描いた『クランシーの家名』(1908)で劇作家として認められた。まもなくイェーツの薦めでアベイ劇場に所属し、演出家兼作者として、また批評家としてアイルランド国民演劇の確立に生涯の大半を捧(ささ)げた。彼の作品は農民劇、軽喜劇、政治劇など多方面にわたっているが、概して技巧的な筋立てに特徴がある。
[中野里皓史]
アメリカの映画俳優。戦前はジェームズ・キャグニー,ジョージ・ラフト,ポール・ムニらと並ぶギャング俳優として知られ,戦後は芸域の広い性格俳優として脇役に回った。
ルーマニアのブカレストのユダヤ人家庭に生まれ(本名はEmmanuel Goldenberg),10歳のときアメリカへ渡って,ニューヨークのローワー・イースト・サイドで育つ。貧者を助ける弁護士を志してシティ・カレッジに入学するが,やがて奨学金を得てアメリカ演劇アカデミーで学び,1915年にブロードウェーにデビューしたのち,舞台と映画で頭角をあらわした。8本目の出演映画《犯罪王リコ》(1931)で〈アンチ・ヒーロー〉を一個の人間像として演じて成功し,映画に登場するギャングの原型をつくった(〈ギャング映画〉の項も参照)。その後はギャング映画ばかりでなく,反ナチ映画の第1号として知られる《ナチ・スパイの告白》(1939),《偉人エーリッヒ博士》(1940),《肉体と幻想》(1943)その他の個性的な演技で国際的な〈性格俳優〉になったが,第2次世界大戦中に〈反ナチ同盟〉に積極的に協力したことが戦後になって共産主義の同調者とみなされて,右翼から攻撃され,さらに非米活動委員会へ出頭して〈潔白〉を主張する証言をしてからは,左右両陣営の攻撃をうけることになった。
フリッツ・ラング監督《飾窓の女》(1944),《スカーレット・ストリート》(1945),ジョン・ヒューストン監督《キー・ラーゴ》(1948),ジョゼフ・L.マンキーウィッツ監督《他人の家》(1949),セシル・B.デミル監督《十戒》(1956),アレクサンダー・マッケンドリック監督《サミー南へ行く》(1963)等々で印象的な名演ぶりを見せたが,キャリア全体としてみれば作品にも役にもあまり恵まれないまま,《ソイレント・グリーン》(1973)を最後に不遇のうちに癌で死亡した。42年間に86本の映画に出演しながら,アカデミー賞に一度もノミネートされたことがなかった。フランス印象派絵画の収集家としても知られたが,コレクションは離婚問題解決のため325万ドルで手離したと伝えられている。73年,アカデミー協会が死亡直前に内定して贈った特別オスカーには,映画に貢献した功績とともに〈ルネサンス・マン〉(芸術に精通する博学の知識人)としてたたえることばが刻まれている。自伝《All My Yesterdays》(1973)がある。
執筆者:柏倉 昌美
イギリスの経済学者。1925年ケンブリッジ大学経済学部を優等で卒業,やがて同大学経済学部講師となる。この間26年に経済学者E.G.A.ロビンソンと結婚。当時支配的であったA.マーシャルの経済学に対しP.スラッファらの批判が起こると,その影響を受けて《不完全競争の経済学》(1933)を書き上げた。その後ケインズを囲む若い経済学者の一人として討論に参加,ケインズの《一般理論》(1936)の成立に貢献した。他方マルクス経済学も研究し《マルクス経済学》(1942)を出版。その刺激もあってケインズ理論の長期動態化を試み,ついに大著《資本蓄積論》(1956)を完結させた。その後資本価値をめぐって問題を提起し,P.A.サミュエルソンらとの間にいわゆる〈ケンブリッジ資本論争〉を展開,新古典派理論の基盤に鋭い批判を浴びせた。65年夫(1950年以降教授)の後をついでケンブリッジ大学教授(1965-71)となり,73年以降名誉教授。主要論文は《経済論文集》全5巻(1951-79)に収録されている。
執筆者:山田 克巳
アメリカの詩人。メーン州に生まれ,田舎町の人々の暗い生活を素材とした詩集《夜の子ら》(1897)によって詩才を認められ,T.ローズベルト大統領にニューヨークの税関の仕事を与えられた。ホイットマンにささげたソネットでは,アメリカの巨匠の歌がやみ,現代では生きる目的を失ったことを嘆いている。彼の詩風はそうした空疎な人物の描写にすぐれ,T.S.エリオットの〈うつろな人間〉を予想させるところがある。その傾向は《リチャード・コーリー》《フラッド氏のパーティ》などの作品にもみられるが,詩集《空を背にして立つ男》(1916)で頂点に達した。《ロビンソン詩集》(1921),《二度死んだ男》(1924),《トリストラム》(1927)でピュリッツァー詩賞を受け,後年はアーサー王物語を扱った三部作に没頭した。現代ではフロストと並ぶ保守的な詩人として,その手堅い韻律の技法で認められている。《全詩集》(1937)がある。
執筆者:新倉 俊一
アメリカの地図学者。カナダのモントリオールで生まれ,1936年マイアミ大学を卒業,38年ウィスコンシン大学で修士の学位を,47年オハイオ州立大学で博士の学位を得た。第2次世界大戦中は軍務に服したが,終戦後は一貫してウィスコンシン大学の地理学教室にあって,地図学の地位を飛躍的に高めた。72年から76年までICA(国際地図学協会)の会長を,80年まで副会長を務めた。ロビンソンの学風は地図を広義のコミュニケーションの手段としてとらえ,地図のメーカーからユーザーへの情報伝達の実態を心理学的に研究する点に特色がある。おもな著書に,《地図学の基礎Elements of Cartography》(1953。第5版1984),《The Look of Maps》(1952),《The Nature of Maps》(1976)などが知られる。
執筆者:野村 正七
アメリカ大リーグの黒人選手。1947年ナショナル・リーグのブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)に入団したが,それまで大リーグは黒人選手の参加を認めておらず,ロビンソンは大リーグ黒人選手の第1号に当たる。ドジャース黄金時代の主軸打者,名内野手として活躍,黒人選手台頭の足がかりをつくり,野球殿堂入りした。56年ドジャースとともに来日,豪快なホームランは日本のファンを魅了した。
執筆者:広畑 成志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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イギリスの有機化学者.マンチェスター大学で学位を取得.1912年シドニー大学教授,1915年リバプール大学教授,1920年British Dyestuff Co.研究所所長,1921年セント・アンドルーズ大学教授,1922年マンチェスター大学教授,1928年ロンドン大学教授,1930年オックスフォード大学教授,1955年Shell Chemical Co.研究所所長を歴任した.植物色素のアントシアニンの研究,アルカロイドの合成,ナルコチンの分子内転位の研究,抗マラリア剤の発明などに業績があったほか,有機電子論の成立に大きな役割を果たした.アルカロイドの研究で,1947年にノーベル化学賞を受賞.そのほか,Longstaff medal,Faraday Medal,Davy medalなど,数多くの賞を受賞した.1945~1950年王立化学会会長.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…やがてトーキーによって拳銃の発砲やマシンガンの掃射や自動車の疾走などが〈音〉を獲得するや,その暴力とアクションの魅力で大衆を熱狂させ,30年代初頭にギャング映画は黄金時代を迎えることになる。その口火を切ったのが,ギャング映画の古典として知られる次の3作,マービン・ルロイ監督,エドワード・G.ロビンソン主演《犯罪王リコ》(1930),ウィリアム・A.ウェルマン監督,ジェームズ・キャグニー主演《民衆の敵》(1931),ハワード・ホークス監督,ポール・ムニ主演《暗黒街の顔役》(製作は1930年,公開は32年)で,いずれもシカゴのギャングのボスとして鳴らし,当時まだ獄中にあったアル・カポネをモデルにして主人公の無法の人生と末路を描いた。主役を演じたロビンソン,キャグニー,ムニはいずれも一躍スターにのし上がり,また《暗黒街の顔役》でムニの弟分を演じたジョージ・ラフトとともに,4大ギャングスターとなった。…
…20世紀前半の名選手にはタイ・カッブ,ベーブ・ルース,L.ゲーリッグらがいる。 第2次大戦後の話題の一つは,1945年にドジャースのB.リッキー会長に見込まれ契約し,47年一軍入りして大リーグ初の黒人選手となった内野手J.ロビンソンである。激しい人種差別の中で好成績をあげてナ・リーグ新人王となり,以後W.メーズやH.アーロンなど多くの黒人選手が活躍する道をひらいた。…
…ロビンズのこの立場は,とるべき手段の適正性,それに伴う費用を重要視するものであって,日本で近代経済学と呼ばれる経済学にとって重要な意味をもつものとなっている。もちろん,J.ロビンソンをはじめとして批判は多いが,ロビンズの考え方は現在にいたるまで近代経済学の指導原理の一つとなっている。
【スミス《国富論》】
経済学が今日のような形での一つの学問分野としてその存在を確立されたのはA.スミスの《国富論》に始まると一般に考えられている。…
… 最近の例は,第2次大戦後とくに50年代半ばから60年代終りにかけて,経済成長理論の発展に伴って生じた一連の論争である。それは主として,J.ロビンソンをはじめとするイングランドのケンブリッジ大学の経済学者と,R.M.ソローをはじめとするアメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジのマサチューセッツ工科大学の経済学者のあいだに交わされた論争であるため,ケンブリッジ(資本)論争Cambridge controversies in the theory of capitalと呼ばれる。 それまでの数々の資本論争の再現ともいえるこの論争の根底には資本主義経済における生産と分配そして資本主義経済の発展自体を,どのような角度から分析するかについての対立がある。…
…そのうえですべての財の市場において価格支配力をもつ経済主体が存在しないならば,一般均衡が成立することを立証し,しかもその均衡はパレート最適であるがために規範的にも望ましいことを主張する。1930年代に行われたJ.ロビンソンやE.チェンバレンの独占的競争理論も,独占の弊害を指摘し,市場が資源配分にバイアスをもたらすことを明らかにしたものの,合理的行動と市場均衡という新古典派の基本仮説を否定するものではなかった。 ところが,J.M.ケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論(一般理論)》は,新古典派からの逸脱であり,ケインズ革命とよばれるにふさわしい出発点であった。…
…70年代に入ると,戦後の世界資本主義体制を支えたブレトン・ウッズ体制が崩壊するに至り,国内均衡と対外均衡を両立させるポリシー・ミックスが求められるなかで,有効需要創出政策としてのケインズ政策は挑戦を受けたのである。 こうした状況下で,J.V.ロビンソンが71年12月,アメリカ経済学会の記念講演において〈経済理論の第二の危機〉を指摘したことは大きな関心を呼んだ。ロビンソンはケインズに続くポスト・ケインジアンの領袖として《一般理論》の一般化のために蓄積と成長・分配の問題に取り組んだが,そのさい,1960年代後半以降の先進資本主義諸国の現状がケインズ自身の直面した1930年代と識別されるものであることに注意を払おうとした。…
※「ロビンソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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