イタリア半島のティベル河畔にラテン人の建設した古代都市国家。のち世界帝国に発展する。初めは王政であったが,前510年頃に共和政となった。
①〔共和政期〕初め貴族のパトリキが政権を独占していたが,プレブスとの間に身分闘争が起こり,前367年のリキニウス・セクスティウス法,前287年のホルテンシウス法で一応の身分的平等が確立し,兵員会と平民会という二つの民会を通じて役人選出や立法が行われた。だが民主政には進まず,元老院,民会,政務官のうちの元老院に主導権のある貴族政的共和政が維持された。一方,3世紀半ばまでにイタリア半島を平定し,さらにカルタゴとの3回にわたるポエニ戦争に勝利を収めた。また東方にも進出して,都市国家から地中海帝国にまで発展した。しかし中小農民からなる重装市民団の没落がみられ,グラックス兄弟の改革にもかかわらず,市民兵原理の崩壊,奴隷制農業経営の発達は阻止できず,オプティマテス対ポプラレスの政争も激しさを加え,内乱の時代を迎えた。その結果,カエサルにみられる「一人支配」の傾向が強まり,前1世紀後半アウグストゥスによる帝政の樹立をみた。
②〔帝政期〕前27年アウグストゥスが全地中海世界を統一して全権を一身に集め,プリンキパトゥスが成立し,事実上の帝政が始まった。以後五賢帝の時代(96~180年)まで「ローマの平和」が続き,トラヤヌス帝時代には帝国の版図は最大となった。しかし外に対しては守勢に転じ,内では奴隷制大規模農業経営は小作制に変わり,2世紀末から国運は衰退に向かった。軍人皇帝時代(235~284年)には内憂外患に苦しんだ。ディオクレティアヌス帝は国運の立て直しを図り,専制君主政(ドミナトゥス)をしいて帝国を再建し,コンスタンティヌス大帝も帝国維持の諸政策を進めた。しかしテオドシウス帝の死後,395年帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国に分かれ,前者は1453年まで続くが,後者は476年オドアケルに滅ぼされた。
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[ローマ理念の形成]
ローマ理念の起源はローマ共和政末期にまでさかのぼる。すでに前2世紀,ローマの版図下に入った諸地方で,都市ローマを神格化した女神ローマRomaの礼拝が始まった。一方,ローマの支配の拡大と共和政末期の混乱は,ローマ人自身の間に没落観を生み出していた。…
…正式名称=イタリア共和国Repubblica Italiana面積=30万1225km2人口(1996)=5746万0274人首都=ローマRoma(日本との時差=-8時間)主要言語=イタリア語通貨=リラLira長靴形に地中海に突出した半島を主体とする共和国。北はアルプスを境としてフランス,スイス,オーストリアに接し,東は地続きのユーゴスラビアとともにアドリア海を抱き,西はティレニア海に臨む。…
…【嶋田 襄平】
[キリスト教]
キリスト教文化圏では,巡礼とはいっても歴訪や巡回が意図されたのではなく,特定霊場をめざしたので,途上の諸霊場参詣はあくまでも副次的であった。エルサレム,使徒ペテロおよびパウロ以下おびただしい殉教者の墓のあるローマ,そしてイベリア半島北西端のサンチアゴ・デ・コンポステラが三大巡礼地であった。僧侶や学者は別として,一般人がエルサレム巡礼に出る風潮は4世紀ごろに始まったらしい。…
…類語として専制政治despotism,オートクラシーautocracy,暴政・僭主政tyrannyなどがあり,日本語の独裁はこれらの意味を含み,despotism,autocracy,tyranny等も独裁と訳される場合がある。政治学用語としては,専制政治が少数者の恣意にもとづく政治であるのに対して独裁は大衆の支持ないし参加を背景にもつものとして,オートクラシーが立憲制や権力分立に対置される統治方法概念であるのに対して独裁は自由主義や民主主義と対置される体制概念であるとして,また,僭主政がアリストテレスなどにおいて君主政に対比され,その堕落形態とされるのに対して独裁は古代ローマに発し現代にいたるさまざまな政治体制に適用可能であるとして,区別される場合がある。しかし,これらの区別自体も学説的に分かれるところであり(とくに専制政治との区別),これを論じた書物も数多い。…
…リソルジメントとはもともと〈再興〉〈復興〉の意味で,18~19世紀の思想家や運動家によって諸改革の課題が,沈滞しているイタリアに再び過去の繁栄をよみがえらせる課題,つまりリソルジメントとして自覚され,その名において運動が進められたことに由来する。当時において再興すべき過去の繁栄とは,古代ローマ時代よりもむしろ中世のコムーネ時代が意識されていた。
[自由,独立,統一]
リソルジメントの過程は長期にわたっており,その間に状況の推移があるが,運動の推進者によって目標とされたのは自由,独立,統一ということであった。…
…古代ギリシア人はまことに多彩な神話を繰り広げてみせたが,何事につけ彼らと並び称されるローマ人は,神話を〈宇宙の生成と神々についての物語〉と狭く定義するならば,固有の神話といえるものをほとんど残していない。
[ローマの古神格]
しかし,キケロの有名な言葉に〈われわれは諸芸術についてはギリシア人に所詮かなわない。…
…ローマ帝国の母体である都市ローマを抽象化し,ローマの名に普遍的支配や永遠性,文明と秩序の象徴をみる思想。
[ローマ理念の形成]
ローマ理念の起源はローマ共和政末期にまでさかのぼる。…
…前753年にローマを創建したとされる伝説上の王。伝承によれば,アルバ王ヌミトルNumitorは弟アムリウスAmuliusに王位を奪われ,王女レア・シルウィアRhea Silviaから生まれた双生児,すなわちロムルスとレムスRemusは川に流された。…
※「ローマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
アデノウイルスの感染により、発熱、のどのはれと痛み、結膜炎の症状を呈する伝染性の病気。感染症予防法の5類感染症の一。学童がプールで感染して集団発生するのでプール熱ともいう。...
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