ローマ(英語表記)Roma

デジタル大辞泉 「ローマ」の意味・読み・例文・類語

ローマ【Roma】[曲名]

ビゼー管弦楽曲。全4楽章。1860年代に作曲。何度か改訂が行われ、生前に完全な形で演奏されなかった。ローマ賞を受賞し、イタリアに留学したときの体験に基づく作品

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ローマ」の解説

ローマ
Roma[ラテン],Rome[英],Rom[ドイツ]

イタリア半島のティベル河畔にラテン人の建設した古代都市国家。のち世界帝国に発展する。初めは王政であったが,前510年頃に共和政となった。

①〔共和政期〕初め貴族のパトリキが政権を独占していたが,プレブスとの間に身分闘争が起こり,前367年のリキニウス・セクスティウス法,前287年のホルテンシウス法で一応の身分的平等が確立し,兵員会平民会という二つの民会を通じて役人選出や立法が行われた。だが民主政には進まず,元老院,民会,政務官のうちの元老院に主導権のある貴族政的共和政が維持された。一方,3世紀半ばまでにイタリア半島を平定し,さらにカルタゴとの3回にわたるポエニ戦争に勝利を収めた。また東方にも進出して,都市国家から地中海帝国にまで発展した。しかし中小農民からなる重装市民団の没落がみられ,グラックス兄弟の改革にもかかわらず,市民兵原理の崩壊,奴隷制農業経営の発達は阻止できず,オプティマテスポプラレス政争も激しさを加え,内乱の時代を迎えた。その結果,カエサルにみられる「一人支配」の傾向が強まり,前1世紀後半アウグストゥスによる帝政樹立をみた。

②〔帝政期〕前27年アウグストゥスが全地中海世界を統一して全権一身に集め,プリンキパトゥスが成立し,事実上の帝政が始まった。以後五賢帝の時代(96~180年)まで「ローマの平和」が続き,トラヤヌス帝時代には帝国の版図は最大となった。しかし外に対しては守勢に転じ,内では奴隷制大規模農業経営は小作制に変わり,2世紀末から国運衰退に向かった。軍人皇帝時代(235~284年)には内憂外患に苦しんだ。ディオクレティアヌス帝は国運の立て直しを図り,専制君主政(ドミナトゥス)をしいて帝国を再建し,コンスタンティヌス大帝も帝国維持の諸政策を進めた。しかしテオドシウス帝の死後,395年帝国は東ローマ帝国西ローマ帝国に分かれ,前者は1453年まで続くが,後者は476年オドアケルに滅ぼされた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ローマ」の意味・わかりやすい解説

ローマ
Roma

イタリアの首都。イタリア中西部,ラツィオ州の州都,ローマ県の県都。ローマ大都市圏を形成する。テベレ川に臨み,「七つの丘」を中心に発達。カンパーニアとエトルリアを結ぶ道路が丘下を通じ,前 753年にロムルスが城郭で囲まれた都市を建設したのが起源といわれる。前 509年から後 476年までの9世紀間,共和国,次いで広大な版図をもつローマ帝国の首都として繁栄した。中世には教皇の所在地であったにすぎず,アビニョンに教皇が移った 14世紀には人口わずか3万 5000を数えるのみとなった。イタリア王国成立 (1861) 後も教皇がフランス軍支援のもとに教皇領として死守していたが,1870年イタリア王国軍によって占領され,1871年イタリア王国の首都となった。当時ローマの人口は 20万足らずであったが,以後巨大都市に成長した。 1929年教皇とイタリア王国が和解したラテラノ条約により市内のサン・ピエトロ大聖堂を取り巻く小地域にバチカン市国が成立した。典型的な地中海性気候に属し,政治,学術,芸術,文化,観光都市であるとともに機械,電気,化学,繊維,食品などの工業が盛ん。市街はテベレ川により,バチカンを含む西岸と東岸に分かれるが東岸のほうが大きい。東岸の旧市街は城郭で囲まれるが,その外側にも住宅,工業地区が発展しており,特に南方のエウルは,新しい官庁・住宅都市として知られる。旧市街のテベレ川寄りには古代ローマの遺跡が多い。ここにフォールム・ロマーヌム,パラチヌス丘コロセウムパンテオンカラカラ帝の大浴場跡などがあり,その北側にコルソ通りなどの繁華街がある。ローマ大学は 1303年創設。そのほかカタコンベサンタンジェロ城,パラッツォ・ベネチア,トレビの噴水,ボルゲーゼ美術館,国立博物館など史跡,名所が多い。旧市街の古代ローマ遺跡およびキリスト教建築物群は南郊のサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂とともに世界遺産の文化遺産に登録されている。面積 1285km2。人口 276万1477(2011)。

ローマ
Roma

オーストラリア,クイーンズランド州南東部,ブリズベンの西北西約 500kmにある町。農牧,酪農,ワイン産業のほか天然ガスがあり,パイプラインでブリズベンへ送られる。人口 6220 (1991推計) 。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ローマ」の解説

ローマ
Roma

イタリア半島中部,ティベル川左岸にある都市
伝説によれば,前753年ロムルスがパラティヌス丘を中心に開いたといわれる(事実はおそらく前7〜前6世紀ごろ)。初期のエトルリア人による王政をへて,前509年ごろ共和政が成立し,その後,前27年からの帝政ローマの首都となった。330年コンスタンティヌス1世によって都はコンスタンティノープルに移されたが,テオドシウス1世以後は,西ローマ帝国の首都となった。民族大移動時代に西ゴート族には攻略されたが,フン族やヴァンダル族の攻撃はローマ教皇の努力で回避された。中世にはローマ−カトリック教会の中心となって栄えた。1527年,フランス王と神聖ローマ皇帝のイタリア戦争のとき,皇帝軍によって“ローマの略奪”が行われ,ルネサンス文化の光は消えた。1861年のイタリア王国成立後,70年から首都となった。王国と教皇庁の対立は,1929年のラテラン条約で和解が成立して,市の西北隅にヴァチカン市国がつくられた。

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世界大百科事典 第2版 「ローマ」の意味・わかりやすい解説

ローマ【Roma】

イタリア半島の中央部,現在のイタリア,テベレ河畔に都市国家として興り,のち世界史上未曾有の大帝国を築いた古代国家。
[世界史的位置]
 歴史上に現れた多くの国家や帝国のなかで,ローマは特別の世界史的位置を占めている。それは,ローマについていわれてきた二つの諺,〈ローマは一日にして成らず〉と〈すべての道はローマに通ず〉が象徴的に表しているように,世界史上まれにみる長年月の間に大帝国を建設し,かつそれをこれまた比類のない長い年月の間維持発展させることができたという事実,またローマを中心に帝国各地に放射し辺境から人間や物資をローマに運んだローマの公道のように,これ以前の先進文明を吸収し,それを次代の諸世界へとそれぞれ伝えていったというもう一つの事実が,ローマの世界史的位置を端的に物語っている。

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世界大百科事典内のローマの言及

【ローマ理念】より


[ローマ理念の形成]
 ローマ理念の起源はローマ共和政末期にまでさかのぼる。すでに前2世紀,ローマの版図下に入った諸地方で,都市ローマを神格化した女神ローマRomaの礼拝が始まった。一方,ローマの支配の拡大と共和政末期の混乱は,ローマ人自身の間に没落観を生み出していた。…

【イタリア】より

…正式名称=イタリア共和国Repubblica Italiana面積=30万1225km2人口(1996)=5746万0274人首都=ローマRoma(日本との時差=-8時間)主要言語=イタリア語通貨=リラLira長靴形に地中海に突出した半島を主体とする共和国。北はアルプスを境としてフランス,スイス,オーストリアに接し,東は地続きのユーゴスラビアとともにアドリア海を抱き,西はティレニア海に臨む。…

【巡礼】より

…【嶋田 襄平】
[キリスト教]
 キリスト教文化圏では,巡礼とはいっても歴訪や巡回が意図されたのではなく,特定霊場をめざしたので,途上の諸霊場参詣はあくまでも副次的であった。エルサレム,使徒ペテロおよびパウロ以下おびただしい殉教者の墓のあるローマ,そしてイベリア半島北西端のサンチアゴ・デ・コンポステラが三大巡礼地であった。僧侶や学者は別として,一般人がエルサレム巡礼に出る風潮は4世紀ごろに始まったらしい。…

【独裁】より

…類語として専制政治despotism,オートクラシーautocracy,暴政・僭主政tyrannyなどがあり,日本語の独裁はこれらの意味を含み,despotism,autocracy,tyranny等も独裁と訳される場合がある。政治学用語としては,専制政治が少数者の恣意にもとづく政治であるのに対して独裁は大衆の支持ないし参加を背景にもつものとして,オートクラシーが立憲制や権力分立に対置される統治方法概念であるのに対して独裁は自由主義や民主主義と対置される体制概念であるとして,また,僭主政がアリストテレスなどにおいて君主政に対比され,その堕落形態とされるのに対して独裁は古代ローマに発し現代にいたるさまざまな政治体制に適用可能であるとして,区別される場合がある。しかし,これらの区別自体も学説的に分かれるところであり(とくに専制政治との区別),これを論じた書物も数多い。…

【リソルジメント】より

…リソルジメントとはもともと〈再興〉〈復興〉の意味で,18~19世紀の思想家や運動家によって諸改革の課題が,沈滞しているイタリアに再び過去の繁栄をよみがえらせる課題,つまりリソルジメントとして自覚され,その名において運動が進められたことに由来する。当時において再興すべき過去の繁栄とは,古代ローマ時代よりもむしろ中世のコムーネ時代が意識されていた。
[自由,独立,統一]
 リソルジメントの過程は長期にわたっており,その間に状況の推移があるが,運動の推進者によって目標とされたのは自由,独立,統一ということであった。…

【ローマ神話】より

…古代ギリシア人はまことに多彩な神話を繰り広げてみせたが,何事につけ彼らと並び称されるローマ人は,神話を〈宇宙の生成と神々についての物語〉と狭く定義するならば,固有の神話といえるものをほとんど残していない。
[ローマの古神格]
 しかし,キケロの有名な言葉に〈われわれは諸芸術についてはギリシア人に所詮かなわない。…

【ローマ理念】より

…ローマ帝国の母体である都市ローマを抽象化し,ローマの名に普遍的支配や永遠性,文明と秩序の象徴をみる思想。
[ローマ理念の形成]
 ローマ理念の起源はローマ共和政末期にまでさかのぼる。…

【ロムルス】より

…前753年にローマを創建したとされる伝説上の王。伝承によれば,アルバ王ヌミトルNumitorは弟アムリウスAmuliusに王位を奪われ,王女レア・シルウィアRhea Silviaから生まれた双生児,すなわちロムルスとレムスRemusは川に流された。…

※「ローマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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