精選版 日本国語大辞典 「ワイマール共和国」の意味・読み・例文・類語
ワイマール‐きょうわこく【ワイマール共和国】
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1918年11月のドイツ革命によって生まれ、33年1月のナチス党の政権掌握によって終わりを告げたドイツ最初の共和国。
[松 俊夫]
革命によって政権を委譲された社会民主党は、革命派の動きを抑えるために軍部と結び、議会制民主主義の導入に全力をあげた。1919年1月ベルリンで革命派の蜂起(ほうき)が鎮圧されたあと、国民議会の選挙で多数を占めたワイマール連合(社会民主党、中央党、民主党)は、2月にエーベルトを大統領に選び、7月ワイマール憲法を制定して共和国を発足させた。同年6月ベルサイユ条約が調印されると、右派勢力は国民の憤激を利用し、第一次世界大戦の敗北は「背後から、あいくちによって刺された」結果であると宣伝、20年3月には一部の軍人、右翼政治家がカップ一揆(いっき)を引き起こす事態を招いた。一揆は労働者のゼネストによって失敗したが、その影響を受けて同年6月の総選挙では、ワイマール連合が大きく後退し、かわって左右両派が進出した。ナチス党が25か条の綱領を定めたのもこの年である。一方、連合国は21年5月、最後通牒(つうちょう)をもって総額1320億金マルクに上る賠償をドイツに要求した。ドイツはやむなくこれを受諾し、支払いを開始したが、まもなく行き詰まったため、22年4月ソビエト・ロシアとラパロ条約を結び、国際的孤立からの脱却と市場の開拓を図ろうとした。しかしこれは連合国に衝撃を与え、フランスは賠償支払いの遅れを理由に、23年1月ベルギーとともにルール地方を占領、一方、ドイツもゼネストによる「受身の抵抗」で応じたため、ドイツ経済は麻痺(まひ)し、破局的なインフレを招いて深刻な社会不安を引き起こした。そこで同年8月、首相に就任したシュトレーゼマンはただちに抵抗を打ち切り、レンテンマルクを発行してインフレの収拾に努め、左翼勢力の動きやナチス党のミュンヘン一揆を失敗させて危機を克服した。
[松 俊夫]
シュトレーゼマンはまもなく辞任したが、引き続き外相にとどまり、「履行政策」を推進した。その結果、1924年8月ドーズ案が成立して賠償支払いの基準が定まり、25年10月にはロカルノ条約が成立し、翌年ドイツは国際連盟に加入して常任理事国となったが、一方、26年4月には独ソ間にベルリン条約も成立し、ドイツの国際的地位は著しく向上した。またドーズ案の成立後、アメリカ資本の導入と合理化によってドイツ経済は再建され、まもなく戦前の水準に達した。それに伴い24年12月の総選挙では、ワイマール連合が議席を回復し、文化も「黄金の20年代」にふさわしい活況をみせ始めた。しかしインフレと合理化によって地位を固めた大資本の影響力は強く、25年エーベルトの死後に行われた大統領選挙では、保守派の推す大戦中の「英雄」ヒンデンブルクが当選、政府もしだいに保守色を強めた。その後、28年5月の総選挙では社会民主党と共産党が進出したが、ワイマール連合はなお過半数を制することができなかったため、社会民主党のヘルマン・ミュラーは人民党をも含む不安定な内閣を組織しなければならなかった。
[松 俊夫]
1929年6月、ドーズ案にかわってヤング案が提出されると、右翼は一斉に激しい反対運動を展開し、なかでもヒトラーの活動は一躍国民の注目をひいた。この間、同年10月、アメリカで恐慌が起こると、アメリカ資本に依存してきたドイツ経済は大きな影響を受け、財政難に陥ったミュラー内閣は30年3月辞職した。そのあとブリューニング、パーペン、シュライヒャーの各内閣が成立したが、いずれも議会に基礎をもたない「大統領内閣」で、もっぱら大統領の緊急令に依存して局面の打開を図ろうとした。しかし恐慌の様相はますます深刻化し、32年には失業者数が600万を超える状況に達した。すでに30年9月の総選挙で、ナチス党は恐慌に悩む中間層の支持を受けて大幅に躍進していたが、一方、共産党も著しく進出したため、これを警戒した大資本や大地主はしだいにナチス党の支持に傾いた。その結果、32年4月の大統領選挙では、ヒトラーはヒンデンブルクに迫る票数を獲得、さらに同年7月の総選挙でもナチス党が圧勝した。これに対して社会民主党と共産党は相互の不信感から統一戦線を組みえず、また同年11月の総選挙でナチス党が一時後退した機会をとらえることもできなかった。このような情勢のなかで、33年1月、大統領ヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命し、ここに共和国はその短い歴史を閉じたのである。
[松 俊夫]
『ローゼンベルク著、吉田輝夫訳『ヴァイマル共和国史』(1970・東邦出版社)』▽『村瀬興雄著『ドイツ現代史』(1954・東京大学出版会)』▽『林健太郎著『ワイマル共和国』(中公新書)』▽『脇圭平著『知識人と政治』(岩波新書)』▽『栗原優著『ナチズム体制の成立』(1981・ミネルヴァ書房)』
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…こうして,ロシア革命の衝撃下におかれた西ヨーロッパ世界では,〈左〉からするコミュニズムの切迫感と,それに対抗しようとする〈右〉からの独裁を主張する勢力の拮抗のなかで,〈左〉〈右〉両側からの,議会制民主主義への批判・弾劾がつよまった。そうしたなかで,ワイマール共和国期のドイツでは,ひときわはげしく議会制論がたたかわされた。カール・シュミットは,〈議会制〉と〈民主主義〉のむすびつきをきりはなし,それどころか,その二つを相互排斥的なものとして位置づけ,議会主義への信念は民主主義でなく自由主義の思想界に属するとし,民主主義の名において議会主義を否定した。…
※「ワイマール共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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