改訂新版 世界大百科事典 「ワリャーギ」の意味・わかりやすい解説
ワリャーギ
varyagi
ノルマン人の古代ロシア名。9世紀初めから11世紀に西欧中世史のうえで第2次民族移動ともいわれる〈ノルマンの活動〉が知られている。彼らは西欧ではバイキングとも,デーン人とも呼ばれた北方系ゲルマン部族で,バルト海を根拠として沿岸域を略奪し,ノルマンディー公国,ノルマンのイングランド征服などいくつかの国を建てた。スラブ族世界ではワリャーギ(単数はワリャーグ)と呼ばれたが,必ずしも言葉の厳密な意味でのノルマン人ではなく,サクソン人やゲルマン人をも含んでいた。この語は,元来,スカンジナビア語のvarar(誓い)から派生した語で,〈相互に助け合う〉という〈誓い〉によって結びつけられた人びとを意味した。
《原初ロシア年代記》(《過ぎし年月の物語》)の862年の項に,ロシア北部のスラブ諸族の招きに応じて,すべてのルーシをひきつれて〈海のかなた〉から到来したという半伝説的な3人の兄弟(リューリク,シネウス,トルボール)とその一族郎党のことが記述されている。古代ロシア文化に対するノルマン・スカンジナビア文化の影響は,とくに遺跡(墳墓,住居址)や出土物(闘斧,剣や鏃(やじり)の武器,甲冑(かつちゆう)や鎖帷子(くさりかたびら)の武具類,装身具),葬制(舟葬)などについての考古学研究の上から強調されるが,古代ロシア国家(キエフ国家)それ自体の形成に対するノルマン(ワリャーギ)の役割は,18世紀以来,歴史学者たちの間でも活発な論争を展開してきた。キエフ国家起源の問題が〈ワリャーグ人問題〉ともいわれるゆえんである。考古学,言語学,そして年代記その他の文献史料についての考証という面から今もなお考究が続けられているが,諸説が対立し,結論の出ないままに政治的にも尖鋭化するほどの問題となっている。
ワリャーギ出身のリューリクの子孫は,キエフ国家の統治者である公として政治の支配権を握り,また9~11世紀のルーシ諸公に雇用された親兵隊(ドルジーナ)や戦士としてルーシ軍団をも構成し,またバルト海沿岸地方から南のビザンティン帝国に至る古代通商路であった〈ワリャーグからギリシアへの道〉で商人として活発な取引に従い,古代ロシアの経済活動に重きをなした。7世紀以来のバルト海からボルガ川を通って中央アジアへ至る通商路と同じく,ノルマン人の到来以前から開かれていたという,バルト海から始まりイリメニ湖~ロバチ川~ドニエプル川を経由して黒海に出る,一名〈ワリャーギの道〉なるこの通商路に沿って古代ルーシの町が開けた。この両通商路を扼したワリャーギにとって,そこをうかがうハザール人やペチェネグ人などトルコ系遊牧民やモンゴル人との長期にわたる抗争の歴史を展開することとなる。こうして北からの到来者であり征服者であったワリャーギのリューリク朝は政治的覇権を確保していった。
執筆者:清水 睦夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報