天正一八年(一五九〇)佐竹義宣が水戸吉田の天台宗
大八幡は一乗院の道場内に鎮座していたが、貞享五年(一六八八)三月初めて一乗院の寺内に社殿が建立された。
寺伝によると至徳三年(一三八六)
国道一七号熊谷バイパスの南に位置する。真言宗智山派、光明山
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
もと奈良市にあった興福寺の門跡寺院。法相宗。10世紀の末ころに興福寺別当定昭(じようしよう)が興福寺西御門の北東部に建立した子院で,長講堂と称し,大日如来,阿弥陀仏像を安置していた。定昭は法相教学を仁斅(にんこう)に,寛空に灌頂をうけ,吉野の金峯山寺検校,東寺長者にもなり,970年(天禄1)に興福寺別当に補任された。定昭は常に法華一乗に傾倒し,往生極楽を欣求していたといい,一乗院の名もこれに由来する。関白師実の子覚信が第5代の院主となって後,摂関家の子弟の入寺相承となり,いわゆる院家(いんげ)とか門跡と称せられるに至った。1180年(治承4)の平重衡の兵火で,興福寺諸伽藍と共に焼亡したが,いち早く再興され,89年(文治5)に興福寺南円堂本尊不空羂索観音像が仏師康慶によって作仏された時には一乗院内に仏所が設けられた。五摂家分立以後は,主として近衛家が本所となって管領したが,南北朝ころに後醍醐天皇の皇子玄円が入寺し,近世に至って後陽成天皇の皇子尊覚が院主となって以来,法親王が相承して宮門跡となった。明治維新に及んで院主応昭は還俗し水谷川忠起と称した。
1297年(永仁5)に大和国に散在する院領63ヵ所に地頭職が置かれたのは,一時的ではあったが,幕府が一乗院の威勢に頼ろうとしたことをうかがわせる。中世における一乗院は大乗院尋尊をして〈大和国ハ三分二過ハ一乗院領也〉といわしめたほどの院領をもち,興福寺筆頭の勢威を保持した。大乗院との間にしばしば紛争をひき起こし,15世紀ころには一乗院門徒と称せられた興福寺学侶の院家は11ヵ院,南都(奈良)には一乗院郷が成立した。また,北市(きたいち)を経営し,菅笠・索麵・布・薬・土器座など多くの座を有していた。1812年(文化9)に講堂などが焼失。宸殿は,近代には奈良地方裁判所として使用されていたが,1962年に唐招提寺に移建,開山堂として改修された。
執筆者:堀池 春峰
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
10世紀末に創設された興福寺を代表する門跡(もんぜき)。関白藤原師実(もろざね)の子覚信(かくしん)(1065―1121)以後、摂関家の子弟が入室する門跡として発展、鎌倉時代には花山(かざん)院、理趣(りしゅ)院などの院家もその下に包摂され、近衛(このえ)家出身の門主(もんしゅ)によって統合され大乗院と並ぶ巨大な組織を形成した。鎌倉中期の坊官僧行賢(ぎょうけん)の記した『簡要類聚鈔』には一乗院の歴代門主・末寺・荘園・年中行事が記され、この時期の一乗院を知るうえでの一級史料である。近世には1492石の寺領を有し親王入室の門跡としてその権威を保ったが、明治維新後に門主が還俗し春日(かすが)社大宮司(だいぐうじ)となるに及んで廃絶した。現在、興福寺に所蔵される三会定一記(さんねじょういつき)は一乗院に伝来したものである。
[稲葉伸道]
『大山喬平著「近衛家と南都一乗院」(岸俊男教授退官記念会編『日本政治社会史研究 下』所収・1985・塙書房)』
…ここで春日社興福寺を盟主とする大小社寺の領主連合組織が完成,治外法権の社寺王国(宗教王国)大和が出現した。興福寺の独走には東大寺や多武峰(とうのみね)(天台宗延暦寺末寺)が不満であり,やがて新興地侍らが将軍家御家人(地頭)あるいは悪党として反体制活動を始めたり,興福寺の一乗院,大乗院両門跡の対立抗争が生ずるにいたった。しかし,社寺王国化にともない,南都仏教が復興,社寺の修造や復旧が進んだ。…
※「一乗院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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