シュレジエン戦争(1740-42,44-45)でプロイセンに敗れたオーストリアのマリア・テレジアと,プロイセン王フリードリヒ2世との間で行われた戦争(1756-63)。世界史的に見れば,海外植民地をめぐる英仏両大国の権力闘争の一環をなしている。
オーストリアは,シュレジエン奪回をめざす報復戦争にそなえて,カウニッツWenzel Anton Kaunitz(1711-94)の外交努力により,16世紀いらい敵対関係にあったフランスとの同盟に成功し,さらにロシアの支援をも獲得した。他方フリードリヒ2世は,ハノーファーに利害をもつイギリスから援助金の約束をとりつけていたが,この情勢を前に機先を制してザクセンに侵入し(1756年8月),みずからオーストリアに対し戦端を開いた。英,仏,露三大国のほか,多くのドイツ諸侯やスウェーデンまでが敵側に回るという状況下に,兵力のうえで大きなハンディキャップを背負うフリードリヒ2世は苦戦を続け,とりわけロシアの大軍が東プロイセンからオーデル川を越えてベルリンに迫るなど,プロイセンは国家崩壊の危機に直面した。
しかし,フリードリヒ2世の不屈な意志と軍事的才能,劣勢ながらプロイセン軍が示した質的な優秀さに加えて,早くも1758年ごろから,連合国側の結束が乱れはじめる。フランスは,プロイセンの敗退によりロシアがポーランドを制圧するのを恐れ,55年いらい北アメリカで続けられていたイギリスとの植民地戦争(フレンチ・インディアン戦争)に主力を注ぐべく,オーストリアへの軍事的・財政的援助を大幅に削減した。他方イギリスにとっても,この戦争は北アメリカやインドにおけるフランスとの角逐にくらべると副次的なものにすぎなかったから,61年秋に大ピットが失脚するとプロイセンへの援助は打ち切られ,フリードリヒ2世は最大のピンチを迎えた。ところがその翌年1月,ロシアの女帝エリザベータ・ペトロブナが没し,フリードリヒ2世の崇拝者ピョートル3世が即位したため,ロシアは兵を引き揚げ,プロイセンは窮地を脱した。ここにおいて,独力で戦争を続ける力のないオーストリアは,63年2月15日,ザクセンのフベルトゥスブルクHubertusburgの和でプロイセンと講和し,シュレジエンを最終的に放棄した。
この間,フランスの同盟国スペインをも巻き込んで展開されていた英仏間の植民地戦争も,インドやカナダ,西インド諸島におけるフランス側の敗退ののち,1763年2月10日のパリ条約で終結をみた。この和約で,イギリスはカナダとミシシッピ以東のルイジアナを,スペインからはフロリダを得,スペインはかわりにミシシッピ以西のルイジアナを領有した。こうして七年戦争は,ドイツにおける第2の強国としてのプロイセンの地位をゆるぎないものにする一方で,海上覇権に支えられたイギリス植民地帝国の基礎をうち立てる結果となったのである。
→リーグニツの戦
執筆者:成瀬 治
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1756~63年にオーストリアとプロイセンとの間に行われた戦争。1755年北アメリカで始まっていたフレンチ・アンド・インディアン戦争(1755~63。英仏植民地戦争、第二次百年戦争ともいう)の展開のなかでオーストリア女帝マリア・テレジアは、オーストリア継承戦争(1740~48)の結果プロイセンに奪われたシュレージエンSchlesien(ドイツ、ポーランド名ではシロンスクŚląsk)の奪回のためにプロイセンの国際的孤立を図り、ロシアとの同盟に加えて、200年来、伝統的に敵対していたフランスとの同盟という「外交革命」に56年5月成功する。これより先、同年1月、対抗してプロイセンのフリードリヒ2世は、ハノーバー選帝侯と同君連合にあったジョージ2世のイギリスとウェストミンスター協定を結んでいたが、8月ザクセンに侵入(予防戦争)、機先を制して戦端を開いた。この事態を利用してマリア・テレジアはドイツ諸侯の大多数をも味方につけ、フリードリヒがベーメン(ボヘミア)に進出しプラハを占領しようとしたのに対して反撃に転じ、57年6月にはコリンの戦闘で勝利を収めた。フリードリヒは、その後守勢にたち、57年ロスバハ(11月)、ロイテン(12月)での戦いに大勝したにもかかわらず、ロシアの進出に直面して59年8月クネルスドルフで惨敗し、60年10月ロシア軍にベルリンを一時占領された。加えてイギリスではジョージ2世が同年10月没してジョージ3世にかわり、61年ピット(大)も辞職し、プロイセンへの援助金が打ち切られ、フリードリヒは苦境にたたされる。しかしオーストリア、ロシア両国の戦略上の違いに乗じて各地で連勝し、ロシア女帝エリザベタの死去で62年1月ピョートル3世が即位し、オーストリア・ロシア同盟が解体したため、ロシアと同盟を締結して苦境を脱した。英仏間にも和約が成立すると、63年2月オーストリア、プロイセンはフベルトゥスブルクHubertusburgで和を結ぶに至った。
プロイセンは、重要な鉱工業地帯であるシュレージエンの領有を確定し、ドイツ近代化の主導権を握り、その資本主義、帝国主義への発展を可能にした。国際的にはフランスに対するイギリスの勝利となり、産業革命期の大英帝国の基礎をつくりあげることになった。
[進藤牧郎]
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1756年より7年間,フランス,ロシアと同盟したオーストリアとイギリスの支援を受けたプロイセンとの間にドイツで行われた戦争。より広くみれば,イギリス‐フランス間に植民地争奪をも含めて行われた戦争の一局面をなすといえる。マリア・テレジアはこれを通じて,さきにオーストリア継承戦争の結果プロイセンに割譲したシュレージエンを奪回しようと図ったが,フリードリヒ2世は数に勝る諸国軍を相手に屈することなく戦い続け,戦争は長期化した。62年ロシア女帝エリザヴェータの死去,親プロイセン的なピョートル3世の即位が幸いして,プロイセンは63年のフベルトゥスブルクの和約でシュレージエンの領有を再確認された。
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…ただし,こうした植民地社会の発展も,先住民であるアメリカ・インディアンの駆逐による土地獲得と労働力不足を補う黒人奴隷の輸入との下で行われたことは忘れてはならない。 18世紀後半,七年戦争(北アメリカにおけるフランス人とインディアンとに対する戦争,フレンチ・インディアン戦争)の結果イギリスが北アメリカ大陸に広大な旧フランス領土を獲得するや,本国政府は帝国の再編成をはかり,植民地統治の強化を企てた。ここに本国の求心的政策と,七年戦争によりフランスの脅威から解放された植民地側の遠心的傾向との矛盾は,ついに1775年に始まる独立戦争(アメリカ独立革命)という形で激突する。…
…小麦やライ麦などの穀類の数倍の収穫高を示すジャガイモは,戦乱や飢饉で荒廃した畑に積極的に植えつけられた。18世紀には大陸諸国にも広く普及し,とくに七年戦争(1756‐63)は大きな契機となった。諸侯は食糧物資としてのジャガイモの価値を認識して,その栽培を奨励し,フリードリヒ2世(大王)がポンメルンとシュレジエンにこれを導入したことはよく知られている。…
…パリで締結された国際条約は多いが,歴史的に著名な条約として以下のものがあげられる。(1)1763年2月10日,七年戦争の終結にあたりイギリス,フランス,スペインの間に結ばれた条約。この条約により,フランスは,北アメリカではカナダ,ミシシッピ川以東のルイジアナおよび西インド諸島の多くをイギリスに譲り,インドではポンディシェリーとシャンデルナゴルを除いて他の植民地を放棄した。…
…ほとんどがフランス語で書かれた膨大な著作の面でも,ドイツ史上に比肩する者がない。 シュレジエンを奪われたマリア・テレジアが外交努力によってフランスとの同盟を実現し,さらにロシアとも結んでプロイセンへの報復を企てると,1758年フリードリヒ2世は先制攻撃に出て七年戦争の口火を切った。この戦争でプロイセンはイギリスを除くヨーロッパの列強を敵に回すかたちとなり,王の軍事的天才が個々の会戦でよく示されたにもかかわらず,一時はロシア軍がベルリンに迫るなど,国家は滅亡の瀬戸際にまで追い込まれる。…
※「七年戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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