精選版 日本国語大辞典 「万暦帝」の意味・読み・例文・類語
ばんれき‐てい【万暦帝】
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中国、明(みん)の第14代皇帝(在位1572~1620)。姓名は朱翊鈞(しゅよくきん)。諡(おくりな)は顕(けん)皇帝。廟号(びょうごう)は神宗。13代皇帝の隆慶(りゅうけい)帝の第3子。母は貴妃李(り)氏(のちに孝定皇太后)。1568年皇太子となり、隆慶帝の急死のあと、わずか10歳で即位。そのために先帝の付託を受けて大学士張居正が首輔(しゅほ)となり、政務全般を執り行った。帝が廟堂で臣下の奏言を聞いたのは10日のうち3・6・9の平日の午前、ひと月でも計9日にすぎず、余日はすべて張居正を先生として勉学に励んだ。張居正は、内治では綱紀の粛正、冗官の整理、黄河下流の治水などに敏腕を振るい、外には戚継光(せきけいこう)、李成梁(りせいりょう)を満州・遼東(りょうとう)からモンゴル高原に派遣して、辺防の強化に力を傾けさせ、そのために北虜の侵入はほぼ終止符を打った。また浙江(せっこう)、福建、広東(カントン)の海防にも意を注ぎ、南倭(なんわ)の動きも封じた。張居正は1580年より隠田の摘発や脱税防止を目的として、全国的な土地丈量に着手したが、その完成を待たず死亡した。張居正は性格が剛直で、政策手腕も明を代表する名宰相であったが、万暦帝にとってはこわい教師的存在で、その死(1582)によって帝はすっかり自由になり、政務をほうり出し、奢侈(しゃし)にふけった。宦官(かんがん)を全国に派遣し、銀山などを開き、あるいは商税を増徴させた。いわゆる鉱税の禍とよばれるものである。その結果、蘇州(そしゅう)や山東の臨清などに民変が相次いだ。またこれより先、92年にはオルドスのボバイが反し、97年には貴州・播州(ばんしゅう)の土官楊応竜が反した。この二つの反乱に前後して、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略(壬辰倭乱(じんしんわらん))があり、それに救援軍を派遣した。これらを万暦三大征というが、その軍費調達には臨時の増税を行わざるをえず、しかも鉱税問題や皇太子冊立(さくりつ)問題などで東林派対非東林派の党争が激化し、政治は空白となって、明の社会は一気に衰運に向かった。「明の亡(ほろ)ぶは、実は神宗に亡ぶ」といわれるゆえんである。陵墓は、いわゆる「明の十三陵」のなかの定陵で、1956~57年にかけて発掘され、地下宮殿として知られている。
[川勝 守]
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1563~1620(在位1572~1620)
明の第14代皇帝,廟号は神宗(しんそう)。隆慶帝の第3子。即位の初めは名臣張居正(ちょうきょせい)の補佐を得て,幼少ながら明中興の治績をあげた。居正の死後は奢侈にふけり,宦官(かんがん)を重用して政治を乱し民衆の反乱を招いた。中央では東林党,非東林の党争が激化し,加えて万暦の三大征(寧夏(ねいか)・播州(ばんしゅう)の反乱と,豊臣秀吉の出兵に対する朝鮮への救援)は財政悪化を招き,民衆の反感が激増して衰亡の様相を深めた。
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…徴税の基礎となる丈量(土地測量)を全国的に実施し,一時的にもせよ財政を再建したのが,万暦(1573‐1619)初期の張居正である。彼は幼い万暦帝の師傅(しふ)として母后の信頼を背景に,官僚の綱紀粛正に努力し,土地の丈量・再登記によって,嘉靖以来徐々に実施されていた税制改革を,いっそう効果あらしめたと考えられる。しかし彼の施政はかなり強権的であったうえ,丈量は土地所有者の利益をそこなう性質のものであるから,多くの反対を招くことになり,丈量は一応完結したものの,張居正は1582年(万暦10)に死ぬと,官位財産を追奪された。…
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