江戸前期の商人、三井家の家祖。通称八郎兵衛、剃髪(ていはつ)後宗寿(そうじゅ)。祖先は六角(ろっかく)佐々木氏に仕えた近江(おうみ)(滋賀県)の武士といわれ、則兵衛高俊(のりへえたかとし)(1633没)の四男。家は伊勢(いせ)松坂(三重県松阪市)の質屋と酒・みそ商。同国丹生(にゅう)(多気(たき)郡多気町)の名家永井氏から嫁いだ母殊法(しゅうほう)がもっぱら店を取り仕切っていた。14歳のとき江戸に出て長兄俊次(としつぐ)の営む呉服店越後屋(えちごや)に奉公し、やがてその店の経営をゆだねられた。28歳のとき帰郷。松坂の豪商中川氏の長女かね(15歳)を娶(めと)って独立し、江戸在勤中に自ら貯(たくわ)えた資金で大名貸(だいみょうがし)(紀州徳川家その他)、郷貸(ごうがし)(領内の村々への年貢引当(ひきあて)の貸付け)などの金融業を営んで蓄財。かねとの間に10男5女をもうけた。1673年(延宝1)長兄没後江戸日本橋本町一丁目(東京都中央区)に宿望の呉服店を開き、続いて京都室町に仕入店(しいれだな)を設けた。松坂と京都を往復して資金繰りと経営の指導にあたり、店々の実務は成長した息子たちに分担させた。1683年(天和3)一丁目店を駿河(するが)町に移し、「現銀安売無掛値(かけねなし)」の看板を掲げて現金による店頭での定価販売、布地の切り売りなどの新商法を始めて顧客層を広げるとともに、店内分業制や賞与制などの新しい管理法を創(はじ)め、同時に両替店(りょうがえだな)を開いて金融業の兼営を始めた。1687年(貞享4)関東絹、綿花、木綿を取り扱う綿店(わただな)を開設。1691年(元禄4)大坂に呉服店を開き、幕府の呉服御用・為替御用(かわせごよう)も引き受けて、三都に盛業した。晩年は京都に住み、元禄(げんろく)7年5月6日、73歳で、新町通六角下ルにあった両替店の奥の屋敷で没。妻や息子たちへの分与率を示した遺書によると一代で築いた遺産は7万両を超える。法名松樹院長誉宗寿居士。墓所は洛東(らくとう)真如堂(しんにょどう)(真正極楽寺)。
[三井礼子]
『中田易直著『三井高利』(1959・吉川弘文館)』
江戸時代の呉服・両替商,財閥三井家の家祖。通称八郎兵衛。法号松樹院宗寿居士。高俊の四男。伊勢松坂の生れ。はじめ江戸の長兄俊次の店で修業。28歳まで在勤の後,母養育のため松坂に帰郷,郷貸や大名貸等を営んだ。1673年(延宝1)52歳のとき,江戸および京都に店を開き呉服業(越後屋)を創業。以後両替業も加え(1683年の江戸店が最初),三都に店を構えて活動した。遺産はおよそ7万~8万両と推定され,幕府御用達に名を連ねるまでに成功した。彼の商才は長兄からも疎まれるほどで,既存の呉服商等に対し,現銀掛値なし(現金定価販売),切売り,仕立既製品販売等(のち同業者の多くもこれを追随,標榜した)を持ち込み,あるいは幕府公金為替を請け負って呉服業その他に利用するなど革新的商法を創始した。数多くの子供に恵まれ,商売の各部門を担当させることができ,これが家の継続へとつながった。
執筆者:田中 康雄
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1622~94.5.6
江戸前期の豪商。三井家経営の創始者。父は高俊,母は殊法。通称は八郎兵衛。法名は宗寿。伊勢国松坂生れ。江戸の長兄三郎左衛門俊次の店で働き,10余年後に松坂に戻って大名貸しや郷貸しを行った。10男5女をもうけ,長男高平・次男高富・三男高治らを俊次の店で働かせた。1673年(延宝元)俊次が没すると,高平・高富らに江戸で越後屋呉服店を開かせ,京都にも仕入店を開いた。江戸の呉服店を開くにあたり現金掛値なしという新しい経営方針を示し,越後屋は江戸有数の呉服店になった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…三井グループの中核。前身は1683年(天和3)三井高利が江戸に創業した三井両替店。その後,大坂,京都にも両替店を開設,91年(元禄4)大坂の両替店が幕府の御為替組の指定を受けた。…
※「三井高利」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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