精選版 日本国語大辞典 「三十年戦争」の意味・読み・例文・類語
さんじゅうねん‐せんそう サンジフセンサウ【三十年戦争】
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1618~1648年の間、ドイツを舞台として戦われた戦争。最後で最大の宗教戦争といわれる。
[中村賢二郎]
ドイツでは、アウクスブルクの和議後まもなく新旧両派の対立が再燃し、17世紀に入ってからは一触即発の状況になっていたが、戦乱はまずボヘミア(ベーメン)で勃発(ぼっぱつ)した。ボヘミアでは、1609年、貴族たちが神聖ローマ皇帝ルードルフ2世から信仰の自由の承認を獲得していたが、1617年フェルディナント(後の皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王位につくと、新教派を圧迫して、貴族たちの反乱を引き起こした。
[中村賢二郎]
戦争の経過は、皇帝派の対戦国に応じて次の4段階に分けられる。
(1)ボヘミア・プファルツ戦争(1618~1623) 内乱の渦中の1619年に、フェルディナントが皇帝に即位すると、ボヘミア議会はフェルディナントの王位を取り消し、新教派のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を国王に選んだ。そのため、戦争のドイツ全体への波及は不可避の形勢となったが、フリードリヒがカルバン派であったために、わずかの新教派諸侯の協力しか得られず、他方皇帝は、旧教派諸侯の指導者バイエルン公マクシミリアンの協力とスペインの援助を得て反攻に出、1620年フリードリヒの軍をプラハ西方のワイサーベルクに破った。続いて皇帝は、反乱に加担した新教派諸侯軍を各地に破り、スペイン軍もプファルツ領に侵入した。
(2)デンマーク戦争(1625~1629) デンマーク王クリスティアン4世は、この機会に乗じ、イギリス、オランダの援助を取り付けて、1625年北ドイツに侵入した。苦境に陥った皇帝は、ワレンシュタインを皇帝軍総司令官に任命し、ワレンシュタインはバイエルンの司令官ティリと協力してクリスティアンを破り、1629年リューベックの和約を結ばせた。同年皇帝は、回復勅令を発布して新教派に圧迫を加えたが、この法令は、それまで中立を維持していた新教派諸侯を反皇帝派の側にたたせることになり、また皇帝勢力の強大化を恐れた旧教派諸侯も、皇帝に迫って、1630年ワレンシュタインを罷免させた。
(3)スウェーデン戦争(1630~1635) バルト海域での勢力の拡張を図っていたスウェーデン王グスタフ・アドルフは、皇帝勢力の北進に脅威を感じ、フランスの援助を得たうえで1630年ポンメルンに上陸し、1631年ティリの軍をブライテンフェルトに大敗させ、ボヘミアにまで進出した。皇帝はワレンシュタインを再度、皇帝軍総司令官に起用した。ワレンシュタインは1632年リュッツェンLützenの戦いでグスタフを戦死させたが、戦いには敗れた。皇帝は和平策謀を理由に1634年ワレンシュタインを暗殺し、スペインの援助を受けて新教派軍を破り、1635年新教派諸侯の多くにプラハの和約を結ばせた。
(4)フランス・スウェーデン戦争(1635~1648) フランスは、三十年戦争の開始以来、つねに反ハプスブルクの黒幕的存在として新教派に援助を与えていたが、新教派が劣勢となると、いまや公然と戦争の表舞台に登場し、軍をドイツに入れた。その後、戦況は一進一退を続けたが、長年の戦争に倦(う)み疲れた皇帝、ドイツ諸侯、スウェーデンの間に和平の気運がみえ、1645年以後和平交渉が行われて、1648年ウェストファリア条約が成立した。
[中村賢二郎]
三十年戦争が国際的戦争となってから対抗関係の主軸をなしていたのは、オーストリア、スペインの両ハプスブルク家とフランスのブルボン家であったが、この戦争によって最大の打撃を被ったのは東西のハプスブルク家であった。ウェストファリア条約によってオランダとスイスの独立が正式に承認され、ドイツ国内では諸侯の独立性が強化されて、神聖ローマ皇帝の地位はいよいよ名目的存在となった。この両ハプスブルク家の衰運にひきかえ、ライン川左岸に領土を得たフランスは大陸での最強国となり、ドイツのバルト海沿岸に領土を獲得したスウェーデンも、北ヨーロッパの強国となることができた。
[中村賢二郎]
『中村賢二郎著「三十年戦争」(『世界の戦史5』所収・1966・人物往来社)』
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1618~48年の間,ドイツを舞台に断続的に行われた国際戦争。17世紀初めよりカトリック諸侯はリガ,プロテスタント諸侯はウニオンを結成して対立したが,1618年ボヘミア王フェルディナントのカトリック的圧制に対しプロテスタント貴族が反抗したのを契機に戦乱が起こった。翌年皇帝となったフェルディナント2世は,ボヘミア王を廃位されたが,リガとスペインの支持を得て,20年ビーラー・ホラの戦いでボヘミア軍を破り,再カトリック化を強行した。25年デンマーク王クリスチャン4世が新教諸侯と結んで侵入したが,ヴァレンシュタイン,ティリーの活躍により皇帝軍の勝利に終わった。つづいて30年プロテスタントのスウェーデン王グスタフ2世アドルフがフランスと同盟して侵入したが,リュッツェンの戦いで戦死し,プラハの和となった。最後にフランスがスウェーデンと呼応して侵入したが,カトリック,プロテスタント両派とも戦乱に疲弊して平和を望むに至り,ウェストファリア条約により終わった。
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…ガリレイに対しては好意を持っていたが,33年の第2回目の裁判で彼の地動説を撤回させた。三十年戦争時代の複雑な政局のなかで中立政策をとろうとして,かえってフランスの枢機卿宰相リシュリューの反ハプスブルク政策を後援する結果となった。36年ケルンに平和会議を招集しフランスとドイツとの和解を図って失敗し,またその門閥主義のためにローマ人の共感を失いパルマとの不幸な戦いを惹起した。…
… このような反宗教改革の時代はルター派,カルバン派,ローマ・カトリックの三者が教派国家作りに競合しあう〈教派政治体制〉の時代でもあった。カトリック諸君主がルター派,カルバン派の諸君主と同様に各地で同盟を作って政治的軍事的結束をはかり,やがてそれが三十年戦争をひき起こした。この戦争の直接のきっかけはボヘミアの貴族に対する皇帝フェルディナント2世の反宗教改革政策であった。…
※「三十年戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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