みしま【三島】
[1]
[二]
伊予国三島(愛媛県四国中央市)のあたりをさすか。
※大鏡(12C前)二「伊予国のまへなると
まりにて、〈略〉誰とか申ととひ申給へば、この浦のみしまにはべるおきななりとの給に」
さん‐とう ‥タウ【三島】
[二]
新潟県の中央部の郡。
信濃川の
左岸で、
出雲崎、
寺泊等の町がある。日本海に面する。中世、
古志郡が信濃川を境として東西に分割されて成立したもので、西古志郡とも称し、また、山東郡とも書かれた。古代の三島
(みしま)郡は、現在の刈羽郡を含む地方で、今の三島
(さんとう)郡の南方にあたる。
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デジタル大辞泉
「三島」の意味・読み・例文・類語
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三島
みしま
現三嶋大社一帯の地名。古代に同社が所在した三島郷(和名抄)は伊豆国賀茂郡に属し、伊豆諸島に比定される。平安時代中期以降に同社が賀茂郡より当地に移った後、同社にちなんで三島とよばれるようになったらしく、それ以前は伊豆国府の所在地を意味する国府とよばれたと思われる。東海道の宿としても知られた。
〔三島の地名〕
弘安五年(一二八二)七月一六日に片瀬(現神奈川県藤沢市)を発って西上した一遍が「三嶋」に着いた日、日中より日没まで紫雲がたなびき時衆七、八人が一度に往生したという(一遍上人絵伝)。永仁元年(一二九三)七月二二日鎌倉鶴岡八幡宮寺別当頼助は三島に赴くため鎌倉を出立し、八月三日当地より戻っている(頼助僧正日記)。正安二年(一三〇〇)一一月三日京都東福寺の開山円爾の開山塔常楽塔の偈がつくられた際には、三島の養麟が漢詩をよせている(「常楽拝塔偈」東福寺霊雲院所蔵集古録)。一三世紀末には三嶋大社付近を三島とよぶようになっていたと考えられるが、国府とよばれることが多かった(→伊豆国府・伊豆府中)。
〔室町前期〕
康暦元年(一三七九)四月三〇日、幕府からの土岐頼康討伐命令に乗じて将軍職を奪おうとした鎌倉公方足利氏満は、関東管領上杉憲春の諫死によって望みを諦め当地に赴き、土岐氏討伐のため発向しながら当地に滞留していた上杉道合(憲方)を関東管領に任じている(「鎌倉大草紙」「鎌倉大日記裏書」など)。応永一七年(一四一〇)七月一五日には「ミしま」の住人真野師実が紀伊国熊野本宮に願文を納めており(「真野師実願文」熊野本宮大社文書)、当地付近に熊野信仰が及んでいる。
応永二三年一〇月上杉禅秀の乱が勃発すると鎌倉公方足利持氏は鎌倉を脱出し、箱根山を経て七日夜当地に到着、さらに箱根(現神奈川県箱根町箱根神社)別当証実の案内で瀬名(現静岡市)へ逃れたが(鎌倉大日記裏書)、持氏が当地に打出して合戦し、敗れて切腹したとの誤報も京都に届けられている(「看聞日記」同月一六日条)。同年一二月二五日、幕府の援護を受けた持氏は駿河守護今川氏の軍勢を中心にして入江山(現清水市)での合戦で禅秀の軍勢を破って当地に陣を進め、足柄・箱根山越の二手に分れて禅秀方を追撃、勝利を収めた(鎌倉大草紙)。禅秀の乱に勝利した持氏は徐々に反幕府的態度を明らかにしたため、同二九年将軍足利義持は庇護していた上杉憲顕(禅秀の子)・同教朝らに暇をあたえ、憲顕らは関東に下り当地もしくは駿河国沼津で放火乱妨、さらに相模国で在々所々の代官・御家人を殺害して京都に帰ったという(喜連川判鑑)。
三島
みしま
薩摩半島の南方に位置する硫黄島・竹島・黒島からなる。河辺郡のうち。近世初期、三島を管轄する地頭が配されており、一つの郷と考えることもできよう。中世は十二島に含まれた。応永年間(一三九四―一四二八)三島は守護島津久豊により種子島氏に与えられた(種子島家譜)。文禄五年(一五九六)に移地頭(居地頭)として新納大蔵が硫黄島に配されたという(三国名勝図会)。近世中期以降は鹿児島藩船奉行の支配下に置かれた。地頭・船奉行の下には任期一年で硫黄島在番(見聞役)が任命され、三島を管轄した。元禄三年(一六九〇)の在番は伊集院賢吉、明和(一七六四―七二)以降の在番として相良朴助・市来杢左衛門・平瀬太兵衛・平瀬喜三太・野村甚八・草道七右衛門・有馬助之進が知られる。別に鹿児島藩士中から任命され、硫黄島に駐在する横目(任期一年、一名、のちに二名)がいて、三島の治安維持にあたった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
みしま【三島】
李朝時代前期に朝鮮半島で焼造された陶磁器の一種。高麗時代の象嵌青磁(高麗青磁)の流れを汲むもので,日本では一般に三島,刷毛目とよんでいる。その名の起源には諸説があって,静岡県の三嶋大社の社家で出した三島暦に似ているためともいわれるが明らかでない。利休の茶会に三島茶碗を使った記録があるから,桃山時代以降の呼び名であろう。近年韓国では,この一群を〈粉粧灰青沙器〉,略して粉青沙器とよぶ。灰色の素地に印花文を施し,これに純白の白土を塗ってさまざまの意匠を作り出し,透明釉をかけて焼き上げたものが基本で,白化粧の上に鉄絵具で文様を描く絵三島,白化粧を搔き落して文様をあらわした彫三島などがある。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
三島
みしま
新潟県中部,西山丘陵から新潟平野南西部にある長岡市北部の旧町域。 1955年脇野町と大津村の一部が合体して三島町が発足。 1956年日吉村の一部を編入。 2005年長岡市に編入。中心集落の脇野町を中心にのこぎりなどの金物を産し,醸造業も行なわれる。農業は米作中心。 1960年代には天然ガスが掘られ,町営で都市ガスを供給していたが,現在は行なわれていない。古刹の寛益寺,国の重要文化財である親鸞上人坐像を所蔵する西照寺がある。
三島
みしま
陶磁用語。朝鮮,李朝時代初期から,忠清南道の鶏竜山窯をはじめ各地で焼かれた陶磁器の,日本の茶人による呼称。ねずみ色がかった素地に,菊花や円珠などの小紋や縦の波形の文様などを線がき,あるいは型押しした部分に,白泥を充填して白い象眼文をつくって焼成しているのが特徴。名称の由来は三嶋大社 (静岡県) 版行の暦の文様に似ていたためといわれ,「暦手」ともいう。日本へは安土桃山時代に入り,対馬,八代,薩摩,萩,瀬戸などで盛んに模作された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
三島〔佐賀県〕
佐賀県東松浦郡玄海町、仮屋湾にある無人島。島内は「三島公園」として整備され、温泉施設やゲートボール場などがある。
三島〔長崎県〕
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報