三木清(読み)ミキキヨシ

デジタル大辞泉 「三木清」の意味・読み・例文・類語

みき‐きよし【三木清】

[1897~1945]哲学者。兵庫の生まれ。京大卒。法大教授。西田幾多郎波多野精一に学び、欧州に留学してハイデッガーに師事。帰国後、ヒューマニズムの立場から著作活動を続け、若い世代へ大きな影響を与えた。昭和19年(1944)共産党員をかくまって検挙され、終戦直後獄死した。著「パスカルに於ける人間の研究」「哲学ノート」「人生論ノート」など。

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精選版 日本国語大辞典 「三木清」の意味・読み・例文・類語

みき‐きよし【三木清】

  1. 哲学者。兵庫県出身。京都帝国大学卒業後ドイツ留学。帰国後、唯物論研究会で活躍。共産党シンパのかどで検挙された。第二次世界大戦中、反戦思想の嫌疑で再び検挙され、終戦直後に獄死。社会科学的な方法も取り入れ、「構想力の論理」という独自の哲学体系をうちたてた。主著「パスカルにおける人間の研究」「唯物史観と現代意識」「人生論ノート」「歴史哲学」など。明治三〇~昭和二〇年(一八九七‐一九四五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三木清」の意味・わかりやすい解説

三木清
みききよし
(1897―1945)

哲学者。明治30年1月5日、兵庫県揖保(いぼ)郡平井(ひらい)村(現、たつの市)の富裕な農家の長男として生まれる。1914年(大正3)第一高等学校に入学、西田幾多郎(にしだきたろう)の『善の研究』を読んで感動し、1917年京都帝国大学哲学科に入り西田に師事した。卒論は「批判哲学と歴史哲学」。新カント派の影響が強く示されているが、末尾で「普遍妥当的な価値は如何(いか)にして個性のうちに実現されるか、これが我々の根本課題である」と記し、早くもそれを超えていく姿勢がみられる。

 1922年から1925年までドイツ、フランスに留学、リッケルト、ハイデッガーに学んだ。留学中から発表していた論稿をまとめて『パスカルに於(お)ける人間の研究』(1926)を処女出版。「意識」に与えられた人間ではなく「絶対に具体的なる現実」としての人間を、「哲学の体系」としてではなく「生」そのものにおいて理解しようとしており、ハイデッガーの影響とともに、三木独自の人間学の出発点が示されている。1927年(昭和2)法政大学教授となるが、このころから「人間学のマルクス的形態」をはじめ多くのマルクス研究を発表、一躍論壇のスターとなった。これは、マルクス主義の理論家福本和夫(ふくもとかずお)の華々しいデビューに刺激された面もあるが、自らの人間学に物質的な基礎を与えようとする意図を秘めていた。それらは、固定した公式として客観的な法則として理解されがちだったマルクスの思想を、「社会に於(おい)て生産しつつある人間」から出発して「発展の過程にある現実的なる理論」として主体化しようとする試みであった。しかし、正統派左翼からは「観念論の粉飾形態」として厳しく断罪された。

 1930年、日本共産党に資金を提供したかどで治安維持法違反に問われて検挙され、以後公職を退き、マルクス主義からもしだいに距離を置くようになった。『観念形態論』(1931)、『歴史哲学』(1932)、『人間学的文学論』(1934)などを公刊する一方、雑誌や講座の執筆、編集に精力的に活動した。また、ヒューマニズムの立場にたって、ナチスへの抗議、京大滝川事件への抗議、天皇機関説問題への警告など、社会的にも活発に動いた。1937年「構想力の論理」第1回「神話」を発表し、以後「制度」「技術」と書き継いで、『構想力の論理 第一』(1939)をまとめた。さらに「経験」を書き、「言語」を予告したが未完に終わった。これは、スタイルのうえでは体系的な叙述になっていないが、同時期に並行して発表した『哲学ノート』とともに、自らの思索に一定の形を与えようとする三木の試みであった。

 三木の思想のもっともまとまった叙述は『哲学入門』(1940)にみられる。ここには、終生の師である西田の影響とともに、マルクス体験も刻印されている。現実を「対象」としてではなく、「そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる」「基底」とし、「主観的・客観的なもの」としての人間に着目し、世界を創造することによって自己を形成する「技術」の哲学を展開している。この間、近衛文麿(このえふみまろ)内閣の政策集団「昭和研究会」に参画、理論的主柱となる「新日本の思想原理」(1939)を書き、「東亜協同体論」を提起した。しかし、時代への抵抗は、しだいに絶望感から虚無感へと変化し、親鸞(しんらん)の末法思想へと傾いていく。1945年(昭和20)3月、友人タカクラ・テルをかくまったかどでふたたび治安維持法違反に問われ、戦後も釈放されないまま、同年9月26日東京の豊多摩拘置所で獄死した。1964年故郷のたつの市白鷺山公園(しらさぎやまこうえん)内に三木清哲学碑が建立された。

[渡辺和靖 2016年9月16日]

『『三木清全集』全19巻(1966~1968・岩波書店)』『『人生論ノート』(新潮文庫)』『『哲学入門』(岩波新書)』『三木清著『哲学と人生』(講談社文庫)』『唐木順三著『三木清』(1950・筑摩書房)』『宮川透著『三木清』(1958/新装版・2007・東京大学出版会)』『荒川幾男著『三木清』(紀伊國屋新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「三木清」の意味・わかりやすい解説

三木清 (みききよし)
生没年:1897-1945(明治30-昭和20)

哲学者。兵庫県に生まれ,京都大学哲学科で西田幾多郎や波多野精一に学び,さらに1922-25年ワイマール・ドイツを中心にヨーロッパに留学,リッケルトやハイデッガーに学んだ。そこで開眼した20世紀哲学の課題への挑戦は,まず《パスカルに於ける人間の研究》(1926)となって現れ,日本の哲学を革新するものという評を得た。また,マルクスの思想が一定の人間学をもつことを構造論的に明らかにした論文《人間学のマルクス的形態》(1927)をはじめ,やつぎばやにマルクス主義研究の論文を発表し,また羽仁五郎とともに雑誌《新興科学の旗の下(もと)に》を創刊(1928)して,折から昂揚したマルクス主義革命運動に大きな影響を与えた。それは,政治的革命運動を超えて世界観(哲学)としてのマルクス主義の探求を促すものであった。

 やがて30年,非合法化された日本共産党に資金を与えたことから治安維持法違反に問われて検挙投獄され,一方その間に革命運動家の側からはプチ・ブル思想家として排除されると,《歴史哲学》(1932)や《哲学的人間学》(草稿のみ)をはじめ,多くの哲学的省察において,独自の歴史的人間学の構想を展開した。それとともに,ジャーナリズムの場で活発な時代と文化の批判を行い,ファシズム軍国主義に抗して,〈新しいヒューマニズム〉を主張する言論と実践活動を行い,戦前昭和期のもっとも輝かしい思想家の一人となった。岩波文庫岩波新書の発刊にあたっての彼の協力はよく知られている。

 日中戦争が拡大して太平洋戦争が迫った38-40年のころ,近衛文麿のブレーン・トラストとして結成された昭和研究会に参加し,抽象的でない世界主義に基づく〈東亜新秩序〉論に理論的根拠を与えようとする活動も行ったが,結局挫折した。この間にも現実のうちに哲学的問題を探る努力を続け,これまでの探求を《構想力の論理》全2巻(1939,46)に集約した。それは,歴史的世界の構造と論理を解明すべき,主体と客体,パトスとロゴスを統一する〈行為の哲学〉の確立を目ざすものであったが,戦争の激化とともに未完に終わった。45年,警察を脱走した共産主義者タカクラテル(高倉輝)を庇護したことから検挙投獄され,敗戦後間もなく,釈放を待たずに獄死した。遺稿として未完の《親鸞》が残された。《三木清全集》全19巻(1966-68)がある。
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20世紀日本人名事典 「三木清」の解説

三木 清
ミキ キヨシ

昭和期の哲学者,評論家,思想家



生年
明治30(1897)年1月5日

没年
昭和20(1945)年9月26日

出生地
兵庫県揖保郡西村(現・龍野市)

学歴〔年〕
京都帝国大学文学部哲学科〔大正9年〕卒

主な受賞名〔年〕
龍野市名誉市民〔平成10年〕

経歴
京都帝国大学で西田幾多郎、波多野精一らに学ぶ。大正11年独仏に留学し、ハイデルベルク大学でリッケルト、マールブルク大学でハイデッガーの教えを受ける。カール・マンハイムや羽仁五郎、大内兵衛らとの交友で西欧マルクス主義に開眼。14年帰国。同年三高講師を経て、昭和2年法政大学教授。岩波文庫創刊に協力し、3年盟友羽仁五郎と「新興科学の旗の下に」を発刊。また同年の「唯物史観と現代の意識」は社会主義と哲学との結合について知識人に大きな影響を与え、マルクス主義哲学者として注目をあつめた。5年共産党に資金を提供した容疑で治安維持法違反に問われ検挙、投獄中に教職を失い著作活動に入る。以後マルクス主義から一定の距離を保ち、実在主義と宗教への関心を示し、やがて西田哲学と親鸞の研究に移った。この間反マルクス派とはならずにジャーナリズムの場で時代と文化の批判を展開、ファシズムと軍国主義に抗して“新しいヒューマニズム”を主張。13年には近衛文麿のブレーンとして結成された昭和研究会に参加、体制内抵抗の道を摸索したが挫折。17年陸軍に徴用され報道班員としてマニラに派遣。19年友人の共産主義者を自宅にかくまったことから、20年3月再度の治安維持法違反容疑で投獄、同年9月獄死。未完の遺稿に「親鸞」がある。主著に「パスカルに於ける人間の研究」「歴史哲学」「構想力の論理」(全2巻)「哲学ノート」「人生ノート」のほか、「三木清著作集」(全20巻 岩波書店)がある。

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百科事典マイペディア 「三木清」の意味・わかりやすい解説

三木清【みききよし】

哲学者。兵庫県生れ。京大哲学科で西田幾多郎波多野精一らに学ぶ。1922年―1925年ドイツ,フランスに留学,リッケルトハイデッガーに学ぶ。1926年三高講師,1927年法政大学教授となり〈人間学のマルクス的形態〉をはじめマルクス主義の諸論文を発表。1930年共産党シンパ事件で検挙,拘留。その後公職およびマルクス主義の運動から離れ,西田哲学の影響のもとに自己の思想の深化に努める。1937年論文〈日本の現実〉を機縁に昭和研究会に参画,東亜協同体論を展開。1945年3月共産主義者タカクラテル(高倉輝)庇護のかどで検挙,9月26日獄死。新カント学派の認識論的立場から生の哲学,実存哲学の存在論に移りつつ,歴史の論理と構造をロゴスとパトスとの弁証法的統一として把握しようとした。著書《パスカルにおける人間の研究》《歴史哲学》《構想力の論理》。
→関連項目戸坂潤羽仁五郎

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三木清」の意味・わかりやすい解説

三木清
みききよし

[生]1897.1.5. 兵庫
[没]1945.9.26. 東京
哲学者。京都大学哲学科卒業後,1922年ドイツに留学。 H.リッケルトに学び,帰国後,26年処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表。 27年法政大学教授。 28年羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を発刊し,『唯物史観と現代の意識』 (1932) を著わすなどマルクス主義と哲学の内面的論理的結合を試みたが,30年治安維持法違反で検挙された。釈放後,32年『歴史哲学』を著わし,33年学芸自由同盟を結成し,岩波新書の創刊に参画した。以後『構想力の論理』 (39,46) ,『哲学ノート』 (41) ,『人生論ノート』 (41) ,『技術哲学』 (42) を著わす。 42年陸軍に徴用されマニラに報道班員として派遣されたが,45年3月再び治安維持法違反のかどで投獄され,第2次世界大戦直後に獄死。『三木清全集』 (19巻,66) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三木清」の解説

三木清
みききよし

1897.1.5~1945.9.26

昭和前期の哲学者。兵庫県出身。京大卒。1922年(大正11)渡欧し,リッケルト,ハイデッガーらに学び,パリでパスカルを研究して25年に帰国。27年(昭和2)法政大学教授となり,同時に唯物史観を論じて論壇に登場した。30年日本共産党への資金提供容疑で検挙され退職。以後は38年昭和研究会員となるなど体制寄りの行動とマルクス主義の間で微妙な動きをみせながら,39年「構想力の論理第一」を発表した。45年に再検挙され,敗戦直後に獄死。著書「唯物史観と現代の意識」「歴史哲学」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三木清」の解説

三木清 みき-きよし

1897-1945 大正-昭和時代前期の哲学者。
明治30年1月5日生まれ。西田幾多郎(きたろう),ハイデッガーらに師事。昭和2年法大教授となり,唯物史観の立場から哲学を論じて論壇にむかえられた。5年治安維持法違反で検挙,20年再検挙される。昭和20年9月26日獄死。49歳。兵庫県出身。京都帝大卒。著作に「パスカルに於(お)ける人間の研究」「唯物史観と現代の意識」「人生論ノート」など。
【格言など】決して失われることのないものが本来の希望なのである(「人生論ノート」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「三木清」の解説

三木清
みききよし

1897〜1945
大正・昭和期の哲学者・評論家
兵庫県の生まれ。京大哲学科を出てドイツ・パリに留学。1925年帰国後,法政大学教授となる。ヒューマニズムの立場からマルクス主義に接近し知識人に多大の影響を与えた。共産党同調者として検挙され,教職を去りジャーナリズムに活躍。治安維持法によって再度検挙され ‘45年9月獄死した。著書に『パスカルに於ける人間の研究』『哲学入門』『人生論ノート』など。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「三木清」の解説

三木 清 (みき きよし)

生年月日:1897年1月5日
昭和時代の哲学者;評論家;思想家
1945年没

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世界大百科事典(旧版)内の三木清の言及

【教養】より

…日本でこの教養の語が広く用いられるにいたったのは,しばしば明治の〈修養〉に対する大正の〈教養〉などと言われるように,大正中期の文化主義思潮の中でのことである。三木清も〈大正時代における教養思想は明治時代における啓蒙思想――福沢諭吉などによって代表されてゐる――に対する反動として起ったものである〉(《読書遍歴》1941)としているが,文化主義思潮そのものがドイツ理想主義哲学の大きな影響下に生まれたものであり,物質的・実利的〈文明〉に対する精神的・価値的〈文化〉の力説に主眼があったのだから,〈教養〉にも同じ刻印が押されていることは否めない。実利主義的,立身出世的,政治的な明治の〈修養〉概念に対して,大正の〈教養〉には内面的,精神的,非ないし反政治的,人格主義的等々のニュアンスが強く帯びさせられているわけである。…

【新興科学の旗の下に】より

…三木清,羽仁五郎らによって,1928年10月創刊された月刊理論雑誌。マルクス主義理論の研究を中心とし,執筆者には三木,羽仁のほか,本多謙三,高島善哉,奈良正路らがいる。…

【反ファシズム】より

…そのなかで1934年11月結成された全評(日本労働組合全国評議会)が組織目標に〈ファッショ,社会ファッショ反対〉を掲げ,37年まで反ファシズム運動を進めたことが注目されよう。 知識人の動きは,1933年4月の滝川事件に際して結成された大学自由擁護連盟,ナチスの焚書に対する抗議を契機に同年7月結成された反ナチス団体ともいえる学芸自由同盟(長谷川如是閑,徳田秋声,秋田雨雀,三木清ら)に示された。共に長くは続かなかったが,コミュニストや社会主義者よりもリベラル派が中心に結集した広範なグループで,明確な反ファシズム運動を形成した。…

【マルクス】より

…しかし,マルクスの思想が本格的に紹介されるようになったのはロシア革命(1917)以後であり,22年には〈日本共産党〉(委員長堺利彦)が結成され,コミンテルン第4回大会において承認された。 昭和に入ると,福本和夫,三木清,河上肇などによるマルクス論が左翼的インテリのあいだで強い影響を及ぼすようになり,28年(昭和3)には世界で最初の改造社版《マルクス・エンゲルス全集》の刊行が開始された(全27巻30冊,補巻1,別巻1。完結1935)。…

【マルクス主義】より

…これに対して,〈27年テーゼ〉と共産党とに対立する山川,堺らは,雑誌《労農》を創刊(1927)し,非共産党マルクス主義者の集りとして労農派と称された。そのころ,3年にわたるヨーロッパ留学から帰国した哲学者三木清は,雑誌《思想》に《人間学のマルクス的形態》など独自の視点で一連のマルクス主義〈哲学〉に関する論文を発表し,学界や知識人・学生に広範な影響を与え,また羽仁五郎とともに雑誌《新興科学の旗の下に》を創刊(1928)して,マルクス主義を学問の公共圏に導入した。このように,マルクス主義は多くの知識人・芸術家をひきつけ,昭和初年のころには政治と学問・思想,文芸の世界でもっとも大きな力をもった思想となった。…

※「三木清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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