三本木原
さんぼんぎはら
十和田火山のカルデラ形成に伴って、噴出した火山灰に覆われた火山灰台地。北は七戸川、南は奥入瀬川の谷に挟まれ、西は十和田山地山脚から東は太平洋に至る南北約一五―二〇キロ、東西約五〇キロに及ぶ広大な地域である。この火山灰台地は、地質的には高館面・天狗岱平面・七百面・三本木面などと区別されてよばれているが、いずれも上面は三本木火山灰によって占められる。
藩政期末の「北奥路程記」には「三本木平は広々たる野原にて不毛の地」とあって、「東遊記」もまた「唯平々たる芝原にて四方目にさわるものなし、(中略)樹木も一本も見えず、実に無益の野原」という。
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三本木原
さんぼんぎはら
青森県東部、八甲田(はっこうだ)山麓(さんろく)から東方に展開する洪積台地。東西約30キロメートル、南北約15キロメートル。標高は西部で約100メートル、東部は約10メートルで太平洋岸へ続く。北部は小川原(おがわら)湖に臨み、南部は奥入瀬(おいらせ)川低地となる。台地の中心は十和田市。かつては水利の悪い不毛の原野であったが、1855年(安政2)盛岡(南部)藩士新渡戸伝(にとべつとう)が長男十次郎、孫の七郎(稲造(いなぞう)の長兄)とともに奥入瀬川の水を引いて開拓に着手、4年後に稲生川水路(いなおいがわすいろ)を完成させ、開田に成功した。明治に入って民営の開拓会社に引き継がれ、1937年(昭和12)からは国営事業となり、1965年(昭和40)いちおうの完成をみた。
[横山 弘]
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三本木原
さんぼんぎはら
青森県東部,十和田市を中心とする洪積台地。東西約 30km,南北約 15kmの八甲田火山群起源の火山灰におおわれた台地。かつては不毛の地であったが,安政2 (1855) 年に盛岡藩士新渡戸伝 (にとべつとう) が開田と地域開発に着手。山地2ヵ所を掘抜き,奥入瀬川から導水した人工河川の稲生川の完成により,台地の水田化に成功。その後 100年余の年月を要して,水田,畑,牧場から成る大農業地帯となった。しかし,この地域には未墾地がなお多く残っていたことから,1966年,国営南部中央地域総合パイロット事業の指定地域となった。十和田市には新渡戸伝を祀る太素塚がある。
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さんぼんぎはら【三本木原】
青森県東部,小川原湖の南西方に展開する洪積台地。火山灰の堆積による台地で,かつては水利の悪い原野であった。1855年(安政2)南部藩士新渡戸伝(にとべつとう)(稲造の祖父)が,この原野に奥入瀬(おいらせ)川の水を引き,その子十次郎との親子2代の努力によって灌漑水路(稲生(いなおい)川)が完成してから開拓が進んだ。明治以降も,開拓は民営で受け継がれたが,冷害に脅かされるこの地方ではアワ,ヒエなどの雑穀と牧馬に依存せざるを得ず,第2次世界大戦前までは軍馬に充てる南部馬の産地として知られた。
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